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ありそうでない一般向け菌類入門書『菌類の隠れた王国』試し読み

梅雨と言えば「カビ」。この時期はバスルームやキッチンだけでなく、クローゼットやエアコンの内部でも繁殖する厄介者。ですが、このカビがいないと、生物界が回らず、ひいては今のような地球も人類の文明も存在しないことが、本書を読めばよくわかります。

身近で見過ごされがちな菌類たちのダイナミックな実態をあますところなく描く『菌類の隠れた王国:森・家・人体に広がるミクロのネットワーク』から、イントロダクションをお届けします。

本書の特徴は、これまであまりなかった一般向けの菌類入門書であることと。そして、それと同時に菌類の名称(学名)について手加減をしていないことです。「カンジダ・パラプシローシス」とか、「トリコフィトン・ルブルム」とか一見難しそうで怯みますが、そんな時は本書付録の登場菌類一覧をご確認ください。パラプシローシスのほうはコーヒー豆の発酵に使われる菌で、ルブルムのほうは水虫菌だとわかり、一気にイメージが膨らみます。菌たちの「職業」と関係に注目しながら、本書を読むことをお勧めします。

菌類の隠れた王国

イントロダクション ダストの中の多様性

 たいていの人にとって、ほこりはほこりだ。ほこりとは何か、それにどんな意味があるのか、なんてことはあまり考えない。それはこの世界に降り積もる粒子にすぎない。家や病院の床を漂い、風に乗って畑や森を通り抜け、海の底に降り積もる。地球のあちこちで渦を巻き、大陸から大陸へ、国から国へと運ばれていく。ほこりの粒子は小さすぎて、私たちには知覚できない。だいたい、どこにでもあるので重要だとは思えない。

 子どものころの私たちは、庭を走り回っては、足の指の間や膝裏のしわの中に泥をこびりつかせていた。砂場で城を作ったりもした。母親に、人前に出せるようにとタオルで顔をごしごしとふかれて、そのときばかりは清潔に見えた。でもいつもまた泥だらけに逆戻りする。それはどうしようもないことだった。

 身の回りの世界を探検する子どもにとっては、あらゆるものが最高であり、目に見えるものがすべてだ。子どもは「土を食べてはいけない」という大切な人生のルールを学ぶ。お菓子が床に落ちたら、五秒ルールが発動する。何秒以内に拾えば食べても平気なんだろう? 土がちょっぴり、ほこりがちょっぴりくらいなら大丈夫。目に見えないなら、あるいは水で洗ったり、拭き取ったりできるなら問題なしだ。

 一方で、スプーン一杯分の土やほこりを一リットルボトルの水に混ぜたらどうなるだろう? できあがった濁った液体を、別の水のボトルにスプーン一杯加える。もう一度同じことをして、液体をもう一段階薄める。この濁った液体を顕微鏡で見たら、ほこりの複雑さがわかるだろう。小さな結晶や鉱物の塊と一緒に、腐った木のかけらや、昆虫の脚や毛、すす、妙な形の卵、植物やあなたの服の繊維などが見える。そして、とても小さな藻類や原生生物が互いにぶつかり合って、ぜんまい仕掛けのおもちゃみたいに向きを変えているのも見える。ほこりは生きているのだ。

 この泥水に、DNA(あらゆる生物の遺伝子を作っている化学物質)と結合する色素を加えて、紫外光をあてると、とても小さな生き物が天の川のように光を放つ。まるで水滴の中に宇宙があるようだ。細菌やウイルスは星のように輝く。花粉の粒子が漂う様子は、光る小型飛行船さながらだ。そしてそうした粒子の中に、菌類の細長い管状細胞や、幾何学的な胞子、出芽酵母が混じっている。 この本は、そうした菌類が作り出す目に見えない世界や、ヒトや他の生物、環境との関係をめぐる旅である。持続可能な未来の実現を目指すなら、私たちが菌類をどのように利用しているのか、そして菌類は私たちをどのように利用しているのかというのは、考えていかなければならない問題だ。

 振り返ってみると、私を思いもよらない道に進ませたのは、家族の歴史や私自身の子ども時代の経験だったことがわかる。そう、私は菌類の専門家になるつもりなんてなかった。そもそも誰がそんなことを考える?

約束の土地

 父方の祖父母は、一〇〇年以上前にドイツからカナダに移住してきた。祖父母はサスカチュワン州の一六〇エーカー〔六五ヘクタール〕の土地を政府から譲渡され、自分たちでも四八〇エーカー〔一九五ヘクタール〕の土地を購入した。そこで小麦を栽培し、大恐慌のさなかに子どもたちを育てた。私の両親が出会ったのは、サスカチュワン州レジャイナにあるノーマルスクール(教員養成学校)だった。第二次世界大戦が始まると、父はカナダ空軍に入隊した。小麦農場は父の一番上の兄が受け継いでいたので、戦争が終わると父はじっくり考えたすえに、家族の支援を受けつつ、退役軍人社会復帰法の制度を利用してウィニペグのマニトバ大学で農業を学ぶことにした。仕事を探す段になると、父は母と私の姉二人を連れて東部行きの列車に乗った。父たちはオンタリオ州にある鉱山町のサドベリーで列車を降り、そこに住みついた。三番目の姉と私が生まれたのはこの町だ。人気のない荒れ地が、父たちにゆるやかな起伏のある大草原を思い出させたのかもしれない。

 サドベリーでは一九世紀末に、町外れの広大な露天掘り鉱山で金属の採掘が始まった。来る日も来る日も、焙焼〔鉱石を熱して硫黄などを取り除く工程〕のために、火がつけられた鉱石と木材の山がくすぶって煙を上げていた。硫黄を含んだ濃いスモッグが露天掘り鉱山の縁を越えて流れだし、丘陵地帯に広がった。植物を枯らし、花崗岩を黒ずませ、辺りを不毛の土地に変えた。そこでは何十年もの間、木が再生しなかった。やがて野ざらしの「焙焼場ローストヤード」の代わりに、工業的な精錬所が登場したが、煙突が吐き出すすすはそれほど遠くまでは運ばれていかなかった。ニッケル、銅、亜鉛、鉄が毎日一一六トンも精錬されるおかげで、サドベリーの町は鉛筆で描いたグレースケールのスケッチのようになった。

 一九七〇年から、町の西の地平線上にインコ・スーパースタックという巨大煙突が少しずつ姿を現し始めた。二年の建設期間のすえに完成した高さ三八一メートルの煙突から、二酸化硫黄と二酸化窒素の雲が上層大気に放出された。その煙は卓越風に乗って流れ、遠い北ヨーロッパに有毒ガスと酸性雨を運んだ。その頃、サドベリーの荒れ果てた土地がアメリカ航空宇宙局(NASA)の目にとまった。実はサドベリーは、先史時代の巨大隕石衝突でできた盆地の中にある。一九七一年と一九七二年、月探査ミッションを前にしたアポロ一六号と一七号の宇宙飛行士たちは、サドベリー郊外で月面車をテストした。さらに月面でも同じような隕石衝突クレーターが見つかるという想定のもと、隕石衝突の痕跡が残る地域の地質調査もおこなった。このように汚染された環境が私のふるさとだ。自然を好きになるきっかけとしてありがちな場所とは言えないが、それでも私にとってそこは驚きに満ちた世界だった。宇宙探査の興奮が私を科学好きにしたのだ。

 両親は自宅のロックガーデンに、サドベリーの汚れた空気と酸性の土でも育つ野菜や果物、そして一、二種類の野の花を植えていた。姉たちは庭のそういう植物や、空き地の砂利から生えてくる弱々しい雑草が大好きだった。夏の週末には父が運転する車で、サドベリーの外へと伸びる、ジェットコースターみたいに曲がりくねった道を何時間もドライブした。姉たちは後部座席に座り、私は前の座席に両親に挟まれるかたちで収まった。鉱山から十分離れると、木々が現れ始める。どこまでも伸びる道のところどころに、立入禁止の看板が立っていた。その看板が見当たらない区間があると、父は私たちをフェンスの向こうに行かせてくれた。このフェンスは、私たちに対するものではなく、クマやヘラジカが道路にさまよい出てくるのを防ぐためのものだと、父は言っていた。

 私たちのお気に入りの場所は、キラニーという町の近くにある、石英の多い白い丘から見えるところにあった。私たちは、花崗岩の丘の間にある、氷河期の氷河形成活動で削られてできた小さな谷を抜けて、ヒューロン湖のアイランズ湾の岸辺に向かう。波が打ち寄せるあたりの岩場には、バンクスマツが曲芸師みたいな姿勢で生えていて、その間には革のような黒い地衣類が染みのように広がっていた。この地衣類は雨が降ると膨張して、つるつる滑るゴムのかさぶたみたいになる。間違ってそれを踏むたび、支えている根のようなものが岩から剝れるので、私は滑って膝を打った。父が「これは岩のはらわたロックトライプって呼ばれてるんだ」と言った。それは父が教えてくれた、数少ない菌類の豆知識の一つだ。「食べられるって話もある。たぶんスクランブルエッグみたいな味じゃないかな」。そして、いつも読んでいる歴史書の一つから引っ張ってきた知識を披露した。「フランクリンの北極遠征隊は、これをスープの材料にしたんだ 」。私は今まで、この地衣類の味について意見を述べられる人に出会ったことはないが、科学の世界ではイワタケ属(Umbilicaria)と呼ばれていることなら知っている。

 そんな探検はそれほど大変ではなかったけれど、それでも私には苦痛な面があった。姉たちは植物を見つけるたびに、立ち止まって議論するのだ。彼女たちは、食べられる花は摘んでサラダにしたし、ガマの穂の綿はゆでてから、まるで初めて食べる外国産の野菜みたいに食卓に出した。私はそんなことより、飼っているダックスフントが土や腐りかけの木から夢中で掘り出した、トカゲや芋虫のほうに興味があった。彼女は、短い足を耕運機の回転刃みたいに素早く動かして穴を掘った。何かを見つけると、取りつかれたみたいな、秘密めいた笑みを浮かべながら私をチラリと見て、自分の発見を分かち合おうと誘いかけてくる。そして鼻先を木の根の間に深く突っ込む。この匂い! この匂いですよ! 彼女は、私が逃しているものを感じ取っていた。私は彼女みたいに世界の匂いを嗅ぎたいと思った。彼女をお手本とすることで、私は、それまで意識していなかった周囲の環境の細かな部分に気づくようになった。

 私は進路もろくに決めないまま、科学系専攻の学生として大学に入学した。出だしで天文学と生化学でつまずいた後、九年の時間と三つの大学をへて、私は菌類学の専門家になった。私や仲間の大学院生たちは、「菌類学者」は立派な仕事だという突拍子もない考えを抱いていた。菌類学者というのは、実際にどんな仕事をしているのかを説明するのにひどく時間がかかる職業だ。菌類を研究する仕事だということがようやく伝わっても、たいていの人には信じてもらえない。カビとか酵母とかキノコで一日中遊んでいて、給料がもらえる仕事なんてあるのか、というわけだ。

 きちんとしたキャリアパスがあったわけではなかったが、年月を重ねるなかで、私は畑や森林、人工的な環境を研究対象とする研究者としてずっと満足のいく職を得てきたし、その間に五つの大陸を渡り歩いてきた。林床に積もった落ち葉の中を這い回るのをやめて、病気の植物や腐りかけの丸太から目を上げて、想像力に欠ける観光名所にしばし注意を向けることもたまにはある。しかしそれは本当にときどきだ。

菌界――菌類の王国

 私たちは毎日、菌類(真菌)のそばを通り過ぎ、呼吸のたびにその胞子を吸い込んでいるのに、ほとんどの人はその存在に気づいていない。菌類は腐朽や腐敗、病気、カビをもたらし、清潔で新しいものをなんでもだめにするという固定概念がある。堆肥を作るコンポスト容器の中にカビがあっても平気だが、パンにカビが生えているのは我慢できない。キノコが食用かどうかについてもひどく気にする。しかしそれ以外の菌類、つまり私たちが毎日遭遇している無数の菌類は意識されることもなく、想像にのぼることもないままだ。

 私たちが一番よく理解しているのは、大きくて注意を引きやすい菌類(大型菌類)だ。その中で最も身近なのがいわゆるキノコだが、これは一時的な構造であって、数日しかもたない。私たちは食べ物への執着心から、毒キノコとそうでないキノコを見分ける方法に興味があるし、毒キノコは殺人ミステリーの仕掛けとしてもよく出てくる。ヒラタケやシイタケ、ヤマドリタケ(ポルチーニ)、アンズタケ、アミガサタケ、セイヨウショウロ(トリュフ)などの食用キノコは、ナチュラリストやシェフたちを一生涯とりこにする。地衣類(第2章を参照)も食材や布類の染料として用いられることがある。

 一方でこの本では、私たちがめったに気づかず、よく理解していない微小菌類に焦点を当てる。そうした菌類は一般に「カビ」と呼ばれる。この日常的な用語ひとつに、分類学的に遠く離れた何千種もの菌類が含まれている。これは近縁種ではないが成長パターンがある程度共通している植物を「灌木」と呼ぶのと同じことだ。通常カビは、ちりや綿、スライム、粉などのように形状がはっきりせず、場合によってはその周りにかすかなフィラメント構造ができて、それでようやく見えてくる。大型菌類を含めて、大半の菌類は一生のほとんどを、ほぼ目に見えない微細な糸状細胞(菌糸)のネットワークの形で過ごす。一部の菌類はときおり、もっと大きな構造を形成し(大型菌類の場合はこれが「キノコ」になる)、そこからほとんど目に見えない胞子の雲が放出される。胞子は空気を漂って、あらゆるところに積もる。もちろん、私たちの食べ物やベッドの上にも。

 菌類は、私たち人間とともに過ごしてきた長い歴史の中で、私たちのライバルになることも多かったが、助けとなることも少なくない。よく協力者となってくれるのが、酵母と呼ばれる単細胞の菌だ。酵母には数千種類の野生種があるが、私たちの主食や飲料の製造に役立っている酵母は数種である。酵母はさまざまな種類の液体の中で増殖するので、水を多く含む昆虫や人間の体も生息環境として適している。人間の体内の酵母は、体によい腸内フローラの一員として消化管の正常なはたらきを保ったり、皮膚を守る微生物のバリアの一部になったりしている。

 畑や森林では、カビは植物や動物の内部に存在する気の知れた仲間として、極めて重要な隠れたパートナーという立場にある。また私たちは、菌類が自分たちのために作り出している多くの化学物質を、抗生剤などの薬として利用している。菌類の酵素(生化学反応の中で他の分子の分解や結合、再配置をおこなうタンパク質)は、洗剤の効果を高めたり、バイオ燃料の製造を助けたりする添加剤として工業利用されている。これらは、現代のバイオテクノロジーが早くに生み出した製品でも特に成功したものだ。

 一方で困ったことに、菌類は私たちの目を盗んで問題も引き起こす。たとえばさび病や胴枯病、黒穂病、うどんこ病などの植物病害がそうだ。また菌類は生物分解(有機物を分解する)能力を持つため、家の床板を腐らせたりする。食べ物をだめにしたり、毒素を加えたりもする。医師たちは、フケ症(脂漏性皮膚炎)や白癬、水虫といった、菌類による痒みを伴う皮膚の病気や、もっと恐ろしい真菌感染症の患者をよく目にしている。さらに、一部の厄介なヒトウイルスと同じように、菌類も大陸から大陸へと移動して、新しい病気を遠く離れた場所で発生させる。

 ヒトと菌類は、体のデザインこそ違うが、細胞の仕組みや生化学的特徴にはたくさんの共通点がある。そうした共通点のおかげで、菌類は医学研究に役立っているが、それは同時に、菌類を阻止しようとするなら、攻撃手段を注意深く選んで、ヒトの体に悪影響を及ぼさないようにしなければならないことを意味する。菌類に有害な化学物質はヒトにも影響する可能性があるのだ。このことは、有効性の高い抗真菌薬が少ない理由の一つであり、作物への抗カビ剤の使用は慎重に判断しなければならない理由でもある。

 菌類を文化の中でどうとらえるかは社会によって異なっていて、菌類の有益な面と有害な面のどちらを重視するかによる。西洋社会には、菌類に対して生まれつきの嫌悪感を持っている人がとても多く、英語にはそうした態度を表す「mycophobic(菌類恐怖症の)」という形容詞があるほどだ。西洋の多くの地域では、「菌類」とか「カビ」という言葉は、ジョークを言うときの決まり文句になっているし、侮辱を意図して使われたり、モラル低下や衛生状態の悪さを示すものとされたりもする。しかし北欧や東欧、アジア、先住民社会の多くでは、菌類に対して、ふつうは子猫や子犬にしか向けないような愛情を抱いている。この場合の形容詞は「mycophilic(菌類愛好症の)」だ 。たとえば、日本で非常に人気のあるアニメキャラクターの一つに、コウジカビ(Aspergillus oryzae)がいる。このコウジカビは、丸くて黄色い幸せそうな顔をしていて、その顔からは、丸い胞子が円錐形に積み上げられたものが五本飛び出しており、ニコニコ顔で歌を歌いながら空気中をフワフワ漂う〔マンガ『もやしもん』のキャラクターのこと〕。

 文化における菌類のとらえ方がこれほど異なるのはなぜだろうか。それは、自然の見知らぬ部分に直面したときに、恐怖を抱くのか、それとも好奇心を持つのかという、反応の違いを反映したものだと言える。菌類には良いものも悪いものもあるが、ほとんどはその中間に位置している。古い迷信を正そうという機運が高まっている今、私たちの偏見を捨てるべきときが来たように思える。

菌類のウムヴェルト

 ウムヴェルト(Umwelt)というドイツ語は、動物が目や耳、脳を使って周囲を知覚する様子を表す、詩的かつ哲学的な表現だ。私たちは、自分たちの動物的感覚の確かさと完全性に自信を持っている。他の生き物が私たちにない能力を持っている可能性や、私たちに検出できない種類のシグナルを送り合っている可能性はほとんど考えない。私たちの共感力のなさ、つまりウムヴェルトの不足は、他の生物の扱い方にそのまま表れている。私たちは、ペットとか、テレビや動物園で大人気の哺乳類など、特定のサイズの動物には控えめな仲間意識を抱いている。そしてそういう動物の赤ちゃんを見ると人間の赤ちゃんを連想する。彼らと人間は、ある程度社会的な良い関係にあると言える。しかし、それ以外の動物のことを考えるとき、ほんわかとした気持ちは消える。あなたは昆虫についてどんな感情を持っているだろうか。カエルやコウモリはどうだろうか。そうした生き物の目をのぞき込むと、エイリアンの目を見つめているような気分になる。ましてや、目に見えない生物に共感を抱くなんてとんでもない話に思える。

 人間は、非常に小さな生物が複雑な行動をすると驚くことが多い。微生物(菌類や細菌、変形菌、原生生物などの微小な生物)は、外部刺激に対する予測可能な機械的応答として行動したり反応したりする小型の機械、つまり単なる自動装置オートマトンと見られがちだ。哲学ではこうしたアプローチを「種差別(speciesism)」と呼んでいる。種差別の立場に立つと、他の生物に対して意思決定や創造性、そして何らかのコントロール感や行為主体性を認めることができない。しかし菌類は少なくとも、反応し、食事をし、排泄し、シグナルを交わし、より良い生活を求めて頑張っている。その点では、菌類は私たちと変わらない。

 他の生物の行動を、人間の認知能力や感情、主体性に相当するものとして解釈することを「擬人主義」という。科学の世界では、そうした擬人主義(擬人化)は間違いであり許されない。しかし擬人主義という概念そのものがある種の擬人化であるような気がする。人間もまた、自らの感覚や意識によって、人間という存在の中に閉じ込められている、つまり擬人化されているからだ。人間との違いが非常に大きい生き物、つまり活動の規模がさまざまであり、かなり奇妙な方法と異なる速度で移動し、人間同士のコミュニケーションに使われるのとは異なるシグナルを送り合う生物を想像したいのなら、擬人主義は最良のツールだ。

 菌類から見た私たちの世界を想像するのは難しいが、この本のテーマが菌類である以上、私は何のためらいもなく、擬人主義ならぬ「擬菌主義」の立場で話を進めていこうと思う。とはいえ、比喩はあくまで比喩だ。ものごとを理解し、共感するのに役立つ道具にすぎない。私は熱狂的ファナテイツクなタイプではない(それとも菌類ファンギをもじって「ファンガティック」とか?)。それに菌類が所属する菌界が動物界や生物界よりも重要だとか、興味深いと言うつもりもない。ただ、自分が菌類支持者であることを隠す気はない。私たちは生物多様性が失われつつある時代に生きているが、それと同時に、あらゆる生命が思いもよらない形で広い範囲でつながり合っていることに気づきはじめてもいる。この本では、菌類はヒーローと悪者の両方をつとめる。人間は脇役にすぎない。

 進化系統樹の上では、菌類は私たちヒトのごく近所にいて、植物よりも動物との類縁性のほうが高い。菌種の数は一五〇万種から一五〇〇万種(現実的なところでは五一〇万種だろうか)と考えられている。しかし、菌類学者が顕微鏡を使って研究を始めてから二〇〇年もたっているのに、分類して名前がつけられているのは約一四万種にすぎない。つまり、観察と分類が完了したのは菌類全体の五パーセントに満たないということだ。この二〇年で、DNA解析によって未知の菌種が思いもよらないほど多数存在することが明らかになってきた。少しずつだが、私たちは菌類という大きなパズルに足りないピースを埋めつつあると言える。
 すぐお隣にある世界をめぐるこの旅が、生物の世界の複雑さを理解し、どんなに小さくてもすべての生物を受け入れ、理解し、敬意を払うことの必要性に気づく手助けになることを、私は期待している。
 それでは、私の友人たちを紹介しよう。(試し読み終わり)

目次

イントロダクション ダストの中の多様性
第1章 コロニーの中の生活 菌類の進化
第2章 ともに生きる生物 相利共生から寄生、生物学的侵入まで
第3章 森 木を見て菌を見る
第4章 農業 世界で七番目に古い職業と菌類
第5章 発酵 食品、飲料、堆肥
第6章 秘密のすみか 菌類と屋内環境
第7章 ホロビオント マイコバイオームとヒトの体
第8章 マイコテクノロジー 菌類のある暮らし
第9章 高度一万メートル 菌類と地球の持続可能性
謝辞
訳者あとがき
付録 菌類の分類
原注
参考文献
索引

著者プロフィール

キース・サイファート
カールトン大学教授。40年以上にわたり、五大陸を股にかけ菌類を研究してきた。カナダ農業・農産食料省研究所では長年、農場や森林、食品の中の菌類について、また、屋内のマイコトキシンの抑制、菌類が原因の動植物の病気を研究してきた。International Mycological Associationの会長、Mycologia誌の編集長なども務めた。カナダ、オタワ在住。

訳者プロフィール

熊谷玲美
東京大学大学院理学系研究科地球惑星科学専攻修士課程修了。訳書にハリー・クリフ『物質は何からできているのか』、エリック・アスフォーグ『地球に月が2つあったころ』(以上、柏書房)、エマ・チャップマン『ファーストスター』(河出書房新社)、デイビッド・バリー『動物たちのナビゲーションの謎を解く』(インターシフト)、アリ・S・カーン他『疾病捜査官』(みすず書房)、サラ・パーカック『宇宙考古学の冒険』(光文社)など多数。



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