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モノヲナクスクセヲナオス

こどものころから茫漠と生きてきたせいか、若いうちはしょっちゅうものをなくした。

とくによくなくしていたのは、ライターだ。

百円ライターなら、まだいい。ぼくの場合たちが悪いのは、ジッポーのオイルライターを平気でなくす点にある。

にも関わらず、当時ぼくがお付き合いする女性はなぜかみんなライター、それもジッポーをプレゼントしてくれた。しかもスタンダードなやつじゃなくて値段の張る凝ったデザインのモデルだ。

その、いただきものの大事なジッポーを、いともカンタンになくしてしまう。あるときは飲み屋で、あるときは電車内で、あるときは贈り主とは別の女性の部屋で…

当然、彼女は怒り、嘆き、悲しむ。ぼくはなすすべなく、しょんぼりするだけ。そうして、彼女からの罵詈雑言をやりすごし、タバコでも吸おうとポッケに手をつっこむと、セロファンみたいな安い色の百円ライターが。

そのたびにひどく落ち込むのであった。

■ ■ ■

読みかけの文庫本をなくしたこともあった。

プロダクションのボスのおつかいで小田原へ向かうことになった。もちろん新幹線など使わせてもらえるわけもなく、事務所のある六本木から電車でちょっとした長旅を楽しむことになった。

でもへいき。むしろ好都合。
ちょうどその時読みはじめた本があったからだ。

『青春デンデケデケデケ』

まだほんの数ページだったが、自分の高校時代をオーバーラップさせることができて、あっという間に夢中になった。

これがじっくり読める。
いいじゃん。

ぼくは電車内でじっくりと、一文字一文字を味わうように読んだ。そういう類いの作品ではないかもしれないけれど、とにかく世界観にどっぷりハマった。小田原までは2時間ほどかかったが、あっという間だった。

駅についたら銀行でお金をおろす必要があった。まだ行き先まではしばらくかかる。

おろしたお金でバスに乗って、ボスに指定された場所に出向き、頼まれた荷物を渡したら任務終了。さあ、帰りは最後まで残りのページを…と思ったところで気がついた。

ない。
文庫本がないのだ。

ここまでで立ち寄ったところといえば、そうだ、銀行だ。駅前の銀行でお金をおろしたとき、ATMの機械の上にちょこんと置いたのを思い出す。

バスに乗っている間じゅう、そわそわしていた。
駅についた瞬間、銀行にダッシュした。

そこには文庫本は、なかった。
窓口のおねえさんに聞いてみたが、そういう届け物はないという。文庫一冊を買うのに部屋中の小銭をかき集めないといけなかった時代。あきらめるしかなかった。

ぼくの青春デンデケデケデケは136ページで終わった。

ぼくの青春もデンデケデケデケと終わったような気がした。

■ ■ ■

社会人1年生のとき。システム手帳が流行った。
求人ではあるが一応、広告代理店を名乗る会社で運良くコピーライターとしてキャリアのスタートを切ったぼくは、さっそうとシステム手帳をつかいこなしていた。というのはウソで、とくになにも書き込むことがなくて空白だらけのビジネスツールをもてあましていた。

9:00~朝礼
9:15~トイレ
9:20~総務で電池をもらう
9:40~カルピスウォーターを買う

こんなことしか書いてないシステム手帳。おそらく東京中でいちばん寂しいファイロファックスだったと思う。

ある秋のよく晴れた日、埼玉の川口にあるクライアントに呼ばれた。営業マンの不手際だったがぼくがひとりで工場にお邪魔し、当方の不義理とミスを謝った。ほどなく汗だくであらわれた営業マンに先方の人事責任者は烈火の如く怒った。

なぜぼくに呼ばれていちばん最初に君じゃなくて新人の彼が来てるの?彼を見てよ。とにかく理由もなく頭下げてくれたよ。なんで君はすぐにこないの。逃げてるの?

ぼくは怒り心頭の採用責任者の前でひたすら土下座をする営業マンを呆然と眺めるしかなかった。出されたお茶には手をつけなかった。

17時過ぎに解放された。ぼくらは川口駅ではなく赤羽駅のほうに向かってとぼとぼと歩き出した。営業マンは「ハヤカワくん、ごめんな」と言い、ちょっと早いけど赤羽で一杯だけ呑んでいこう、と誘ってくれた。赤羽はぼくの最寄り駅のとなりだから願ってもない機会だ。

ぼくは営業マンと乾杯したのち、一応上司に電話してきます、と店を出て電話ボックスに入った。システム手帳を繰って会社に電話する。上司はもう帰ったらしい。先輩に直帰する旨を伝えたら「偉そうに」と言われた。

それから営業マンのもとに戻り、杯を重ねた。その夜、ぼくの8つ上だという営業マンの眼は始終赤かった。

翌朝、アパートで目を覚まして会社に出かける準備をしていて気が付いた。

システム手帳がない。

なんてこった。わかった。あの電話ボックスだ。

ぼくはとりあえず赤羽駅そばの電話ボックスに走った。15分ほどで着いたが当然そのまま置かれているわけがなかった。

ちょうど目の前に交番があったので、何も期待せずに遺失物届けを出した。おまわりさんは眠そうな顔をして書類の書き方を教えてくれた。顔が近づくとバイタリスの匂いが漂った。

■ ■ ■

この話はこれでおしまい。
ぼくはいつしかものをなくさなくなった。

なくさなくなったのだが、心のどこかでいまだ若い時分の“なくしぐせ”におびえている。いまでも、はっ!財布!?とか、あれっ?ケータイ!という心臓に悪い感覚にしじゅう襲われる。

どうしてものをなくさなくなったのか、わからない。わからないからきっと、いまだにビクビクしているんだと思う。

そして、ものをなくさなくなってから、とてもおかしなことなのだけれど、ほんの少し面白みに欠ける生活になってしまったなあ、と思うのだ。

なんだか、ものをなくしていたときは、ものをなくす自分をどこか愉しんでいたような気もする。しょうがないなあ、とおもいながら。

そういうスキ間のような、ちょっと足りないところは、もしかすると人間にはあったほうがいいのかもしれないと思う。

もちろん、いまぼくが財布をなくしたらパニックになるんですけどね。

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