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『伝えるための準備学』が教えてくれること

古舘伊知郎さん『伝えるための準備学』という本を出した。

古舘さんといえばプロレスやF1の実況でブレイクし「夜ヒット」や「報道ステーション」「紅白歌合戦」など名だたるテレビ番組の司会者として盤石の地位を確立したMCの第一人者である。

いまチャンネルを回せば(死語ですが)お笑いタレントが司会を務める番組が百花繚乱だ。ダウンタウン然り、ナイナイ然り、バナナマン然り、千鳥然り。彼らは実にのびのびと、自分の芸風を活かして現場を回す。

逆に、お笑い以外の司会者が仕切っているバラエティを目にする機会はグッと減った気がする。

この趨勢の源流にあたるのが古舘さん、というのが僕の持論である。

古舘さんはそれまであった司会者の定型やあるべき姿を覆し、己の表現を実況や司会に持ち込んだ第一人者だからだ。

それはまるで戦後長らく「三越言葉」に代表される定型に縛られていた広告コピーを解放し、まるで話すような言葉で表現の可能性をひろげた土屋耕一さん、そして土屋さんのバトンを受け継ぎ広告を文化へと昇華させた糸井重里さん、仲畑貴志さんらのチャレンジに相似する。

相似しないかもしれないが僕は昭和の広告オタクなので無理やり相似させて見てしまう。

とにかく、古舘さんがいなければ、古舘さんがその道を太いものにしなければ、おそらくテレビ番組の司会という仕事はいまよりもっときゅうくつだったに違いない。

そんなMCトーク解放の父、古舘伊知郎さんが本を書いた。それが『伝えるための準備学』である。

古舘さんの本というと、ワニの本ベストセラーシリーズから(表紙は松下進さんのイラストで)出るのかな、と思ってしまう人もいるだろうが、そうではない。ツービートの時代ではないのだ。

ひろのぶと株式会社という新しいスタンダードをつくる出版社から発行された、いたって真面目な本である。

なので読んでみた。

(ひろのぶと株式会社のチャレンジのなにがどう新しいかについてはぜひホームページをご覧ください)

人間到る処本番あり

読み終えて最初に浮かんだ感想は、人生にはいったいいくつの本番があるのだろうか、ということである。

一般人にとっての本番とはざっくりと中学・高校・大学の受験、運転免許試験、就職活動、転職活動といったところか。

人によっては学期ごとのテストや部活の試合、資格取得や昇進昇格なんてのも含まれるのかもしれない。

これが芸能関係やスポーツ選手、アーティストになると本番だらけ。むしろ本番は仕事である。

ついさっき終わったばかりのオリンピックなんて本番中の本番、世界の本番だもんね。

考えようによっては人生の節目ごと至るところに本番があり、人は常に準備の日々を送っている。人生のほとんどは準備と言えるのではないか。

こうなると準備が本番で本番が準備なのかも、というおかしな錯覚を抱きがちだが、それもあながち間違いじゃないよ、と懐中深く諭してくれるのが『伝えるための準備学』である。

古舘さんは諭していないかもしれないが僕はそう思ったのである。そしてこれは感想文なので僕がそう思ったことを書けばいいのである。

そして、次に僕が思い至ったのは他でもない、自分のことだ。

あれ?
俺の人生って極端に本番に乏しくないか?

本番のない準備はあるのか

小学校、中学校ともに公立だから試験などない。高校は私立で受験したが叔父が附属大学歯学部の教授だった関係で「ヨッ!」てな感じでぬるっと入った。大学には行ってない。

10代での本番は運転免許取得ぐらいだったなぁ。

就職も、だいたいからして就活というものをしていない。コピー学校にあった求人票の会社に応募したらたまたま内定が出ただけだ。その後の転職も基本的に先輩からの声がけや紹介、あるいは流されて、という体たらくぶり。

コピーライターという仕事ではあったが求人広告かつキャリアの中盤からはWebが主戦場ということで、TCC賞の門は万里の長城がごとく(リクルートとTCCとの蜜月はバブルと共に去っていた)果てしなく遠いものであった。ハナからチャレンジすらしていない。

このままいくと俺の本番はいつ来るんだよ、ということになる。

俺はずっと「準備」だけをしているのか。来る予定のない本番に向けて、ゴールの見えないまま準備だけ続けていくのか。これではまるで『俺はまだ本気出してないだけ』ではないか。シズオか。

本番のない準備。
準備をしたままで終わりを迎える。
なんて虚しいのか。

軽い眩暈がした。

準備はつづくよ、どこまでも

何事にも本気で向き合ってこなかったから、かもしれない。傷つきたくないという小さなプライドに縛られて勝負や競争から逃げてきたしっぺ返しなのかもしれない。

眩暈がしたのち、何かヒントはないか、と目を皿のようにしてふたたび『伝えるための準備学』を読み返した。

なぜ読んだばかりの本を再読できるのか。それは読みやすいからだ。文章が滑らかであることは言うまでもない。僕が感心したのは行間である。行間がフォントと相俟って絶妙な読みやすさを担保している。

これは手練だ。
仕事というものはこうでなくては。

そして感心したのちに冷静になってこう思った。

ここに書かれている準備学は、あくまでテレビ番組の司会やスポーツ実況に題材を置いているが、インタビュー記事を書く仕事にも当てはまるんじゃないか。しっかりと下調べし、わからないことはわからないと正直になり、取材時は準備を全て捨てて相手の話を傾聴する。まるで同じである。

そうか、毎日やっている仕事の一コマ、一区切りを本番にすればいいのか。たとえば僕でいえば取材が本番で、そこに至るまでが準備とも言えるし、執筆を本番だとすれば取材も準備になる。

企業の理念や行動指針を作る時も、アウトプットとして言葉に落とし込むことを本番だとすれば、頭の中で考えている時やコピー用紙の裏に思考の断片を書き散らかしている時は準備だといえる。

そうなのだ。この本に書かれている『準備学』とはほかでもない、仕事との向き合い方を説くものなのだ。

しかも司会や実況、それに僕が引用したような文章を書く仕事だけでなく、あらゆる仕事に転換できる。営業にも、事務にも、接客業にも、清掃員にも当てはまる。

すべての仕事は誰かのためにある。相手あっての仕事なのだから、伝える技術は必須だろう。だから『伝えるための準備学』はあまねく働く人へ仕事にとって何が大切かを教えてくれるのだ。

よかった。俺にも本番、あるじゃん。

何も本番とはテレビ出演や国際大会での試合や昇進昇格やTCCやC1グランプリだけじゃないのだ。

あの天才、古舘伊知郎が自身を凡人と言っている以上、僕など凡々人、いや大凡人だ。大凡人には大凡人にふさわしい本番が用意されている。

たとえば、原稿の締め切りとか。プレゼン資料の締め切りとか。企画書の締め切りとか。

あれ?

まあ、いいか。

そうと決まれば明日から小さな本番に向けて大きな準備を楽しむとしよう。

準備はつづくよ、どこまでも。

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