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自炊、それは楽しい

18歳で上京して、一人暮らしをはじめた。

実家での何不自由ない生活から大きく変わったことがひとつ。

それは食生活だった。

大学進学をそうそうに諦めたぼくは、残り半年の高校生活を遊びとバイトに集中させる方針を打ち立てた。遊びはドライブとバンド。その遊びに打ち込むためにバイトは3つ掛け持ち。接客やビラ配りなど暇さえあれば青春の貴重な時間をお金に替えていた。

さてそうなると結構ふところが温かい。

働かざる者食うべからず、という慣用句を持ち出すまでもなく、自分で稼いだ金なんだから自分が食べたいと思うものを食べたいときに食べたいだけ食べる、という極太な思考に則って「食」に臨むようになる。

顕著にあらわれるのが喫茶店でのランチである。

バイトの休憩時間に親のマークⅡグランデで喫茶店に乗り付ける。いま考えるとなんて不遜な…と我ながら腹が立つが人生における第一次イキリ期なので仕方がない。座るやいなやマイルドセブンに火をつけ、ミートスパゲティとピラフ、それにホットドッグにコーラを注文する。

いくらなんでも食べ過ぎだろうと思うが当時のぼくは食べ盛りであった。しかも超がつくほどのショートスリーパー。24時間のうちほとんど覚醒し、元気よく活動していた。カロリーを大量に摂取しないと回らなかったのかもしれない。

おかげでぼくが上京した後、名古屋市南区、瑞穂区、熱田区あたりでは喫茶店の廃業が相次いだという噂である。嘘です。

■ ■ ■

そんな飽食の時代を地で行く生活も1987年3月29日で終焉を迎える。クルマもバイクもバンドもカノジョも捨てて(これは捨てられた、が正しい)文字通り裸一貫で東京にやってきた。

どれぐらい裸一貫かというと、事前に下宿に送っておいたのは布団のみ。ボストンバックには3日分の着替えと3ヶ月は働かなくても部屋を追い出されないほどの現金だけであった。サムライかよ。

しかしさすがのぼくも、これはよく考えないといかん、ということぐらいはわかった。まず、めちゃくちゃ寂しい。前の晩まで一緒に飲み歩いていたツレがいない。ゲラゲラ笑って愛知県一周ドライブを楽しんでいた仲間がいない。そのあたりはまあ、時間が経てば慣れるだろう。

そんなことよりカーテンやちゃぶ台などの生活用品を揃えていくだけで手持ちのキャッシュがどんどん目減っていくではないか。

しかもこれまでの暴飲暴食が祟って、自分が燃費の悪いアメ車みたいになってしまっていることに気づいた。ついうっかりハラが減ると駅前の食堂やラーメン屋に足が向いてしまう。

しかし、高いのだ。

名古屋ではミートスパ+ピラフ+ホットドッグ+コーラで1000円ちょいオーバーだったが、東京でそんなことをしようものなら…東十条という場末だとしてもゾッとする金額を請求されるだろう。

これはいかん。死ぬる。

ぼくは上京初日の夜に中華料理屋で餃子を頼み「すみません、餃子のタレください」と頼んだのを清々しく無視されて、しかもビールも頼んだことで財布がグッと薄くなったのを機に「自炊」へと方向転換せざるを得なくなった。

■ ■ ■

とはいえ木造築30年(当時)風呂トイレなしの四畳半にある調理器具といえば一口ガスコンロのみ。これを使いこなしてこその自炊だ。ぼくはまず、金物屋で小さいナベを買い、それで米を炊くという基本路線を決めた。

そこに何かを乗せれば、丼の完成である。

さっそく駅前のスーパーで特売していた丸美屋の麻婆豆腐の素を買ってきて豆腐を入れずに素だけを温め、炊いたご飯にかけて食べてみた。

うまい。

幸田シャーミンが高らかにコールする「スーパータイム!」をBGMに、夕陽がこれでもかと照りつける畳の部屋でひとり貪る麻婆豆腐丼のうまいことよ。

ぼくは調子に乗っていろいろな丼を試した。マヨネーズキャベツ丼、コンビーフ丼、シーチキン丼、オイルサーディン丼、ほていの焼き鳥丼…

うまい。うますぎる。

ポイントはすべて、マヨネーズであえること。マヨネーズであえればたいていのものは美味しく食べることができた。

しかし、その中でもやはり、キングオブ丼は丸美屋の麻婆豆腐の素丼であった。なんせこれはマヨネーズすら不要なのだ。しかも汁がご飯に染みて、えも言われぬ旨味が楽しめる。

いま考えるとぼくの吉牛ツユダク偏愛の種はこのときに芽生えたのかもしれない。

ある日、実家からおばあちゃんが送ってくれた荷物の中にボンカレーを見つけたぼくは、思わずニヤリとしてつぶやいた。

「これでボンカレー丼が作れるな…」

いや、それはただのカレーライスだな。

■ ■ ■

自炊は楽しい。

貧しかったけど、いま思い出しても楽しかった。スーパーでいかに300円以内で丼を作れるか、目を皿のようにして買い物をしていた日々。

ある日、ほぼ同じタイミングで上京したケチロウという同級生から下宿の共同電話に連絡があった。学校がはじまって少し落ち着いたから遊びに来いよ、という。ぼくははじめて小田急線に乗って、鶴川という駅に降り立った。

半年ぶりに会うケチロウはフレッドペリーの襟を立てて、シティボーイのようであった。しかしぼくのほうが一枚上である。なんたって東京23区内に住んでいるのだ。市外局番は03なのである。共同電話なんだけどね。

駅前からほんの数分でケチロウのアパートに着く。ピカピカの新築、6畳と4.5畳の二間はいずれもフローリングである。ソファにガラステーブル。SONYのリバティというCDコンポ。テレビ大きいね、といったらモニターっていうんだよと教えてくれた。

その日はケチロウが上京後に喫茶店のバイトで覚えたというスパゲティをごちそうしてくれた。レトルトや缶詰ではない、手作りのミートソースだ。トマトの甘酸っぱさがソフィスティケイトされた大人な感じを醸し出す。

ビールをごちそうになり、タバコを何本か吸ったのち、そろそろ終電だから、とお暇した。

帰りの電車の中で、ぼくは無口だった。独りだから当たり前だろう。最寄り駅から歩いて20分。築30年の下宿に戻って部屋の灯りを点けると、ケチロウの部屋の半分ぐらいしか明るくなかった。

自炊は自炊でもカースト制度のような格差があるんだな、と思ったぼくは、そのまませんべい布団にもぐりこんで寝た。

■ ■ ■

自炊は楽しい。

勤め先というよりも丁稚先といったほうがいいぐらい、低賃金で働いていた頃。会社のある六本木ではとてもじゃないが外食でのランチは続けられなかった。それまで勤めていた目黒や飯田橋と違い、安い店がないのだ。

そこでぼくは上京当時の作戦を再び遂行することに決めた。

自炊である。

日曜日、あらかじめ一週間分の豚肉を焼いておく。それを冷ましてから一日分ずつ小分けにして冷凍する。そうすれば毎朝タレで焼くだけで焼肉弁当のできあがりだ。

ちょうど平成の米騒動、といわれた頃。月給11万円のぼくにとって国産米は贅沢品そのもの。その結果、タイ米でしのぐことに決めた。毎日タイ米と焼いた豚肉を詰めた弁当箱を持って十条から六本木に通った。

社会人になったけれど暮らし向きはほとんど変わらなかった。でも全然平気だったのは上京当時の自炊の経験があったからだ。あれに比べれば、薄給とはいえ毎月お金が振り込まれる。これ以上の幸せもないだろう。タイ米がバサバサでまずいことぐらいなんでもない。

しかしさすがに解凍した焼肉は続けて食えたものではなかった。しかも毎日同じメニューである。結局、六本木自炊弁当生活は2ヶ月で幕を閉じることになった。

ちなみに毎日同じぼくの弁当を見て事務所のボスはこう言った。

「お前、ボキャブラリーも貧相だけど弁当もバリエーションがねえなあ」

ぼくはハハハと間の抜けた感じで苦笑いするしかなかった。

■ ■ ■

自炊は楽しい。

さすがに上京して35年。なんでも、というわけにはいかないが、ある程度であれば食べるものには不自由しなくなった。そのぶん、自炊の楽しさからは遠ざかってしまった気がする。

あと血圧やらγGTPやら尿酸やら、なにやらオッサン臭い項目の数値があんまりよくないらしい。きっと自炊をしていないからだと思う。

ひさしぶりにやってみるかな、丸美屋の麻婆豆腐の素丼。今度の日曜日にでも。

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