浅草にはヨシカミがある
飯を食べるのに、こんなにワクワクさせられることがあるだろうか。注文した料理が運ばれてくるのを待つ時間がこんなに楽しみな店はあるだろうか。わたしにとってのヨシカミとは、そういう存在である。
であるからして、しょっちゅう足を運んではいけないのである。せいぜい月に一度、できれば三ヶ月に一度ぐらいのペースがちょうどいい。わきまえる、とはそういうことだと考える。
浅草で洋食を喰わせる店、というと、他にいくらでも出てくるだろう。食通を気取る方々のなかにはヨシカミのことをよく言わない人もいるときく。
言わせておけばよい、とわたしは思う。
むしろヨシカミに近づかないでくれて助かる、とすら思うのである。
ヨシカミとはわたしにとってそれほどの存在なのだ。
わたしがヨシカミを知ったのはいつの頃だったか。記憶が定かではない。しかし独身時代のわたしにとっては少々敷居が高い店だった。と、いうことは店の暖簾をくぐったのは結婚してからのことだろう。
その前から存在だけは知っていた。それは浅草に行くたび(わたしの東京生活は不思議と上野や浅草に縁深い)に目にしていた文言による。
「うますぎて申し訳ないス!」
これである。いったいこれ以上の惹句があるだろうか。『日本のキャッチコピー500』といった書物に取り上げられることはないだろうが、わたしはこのフレーズこそ料理屋が掲げるコピーのグランプリだと思っている。
浅草のランドマーク、雷門から歩いて5分。ホッピー通りとROXに挟まれる細い路地を歩いているとヨシカミは忽然とあらわれる。
このあたりの道は斜めに入り組んでいて酔っ払っていると簡単に道に迷うことができる。東西南北はおろか上下左右の感覚すら失うのが帝都・東京の魔窟ぶりを垣間見せてくれるようで趣深い。
もし強かに酔って真夜中、このあたりの路地で寝込んでしまったらどうなるだろうか。そんな想像だけで酒が進んでしまう。
話をヨシカミに戻そう。
コロナ前まではたしか長蛇の列だった店頭だが、いまは仕組みが変わっているようで、入店可能時間になったら来てくださいと告げられる。わたしも30分後に店の前に来てもらえれば、それまではどこにいてもいいと言われた。
もしかしたらコロナよりも今年の夏の暑さが尋常ではなかったからかもしれない。あんな炎天下に日陰もない店頭に立たされたら、命の危険を感じてもおかしくない。
ちなみに記録的な猛暑だったこの夏だが、三田の『ラーメン二郎』に行列ができているのをわたしは少なくとも3回は目撃している。ジロリアンというのは暑さに強いのだろうか、あるいは。
話をヨシカミに戻す。
言われた通り30分後に店に行くと中からふくよかな店長がでてきて「ハヤカワさん、ええとね、あとちょっとすると3名の席ができるからね…」と説明してくれる。ところがわたしたちは2名である。「あの、2名です」すかさず伝えると店長は(あれ?テヘペロ)といった苦笑いを浮かべて「どうぞ!」と促してくれた。
この日通されたテーブルは入ってすぐのレジ横。ひっきりなしに客が出入りするので落ち着くとはいえないが、ここはわたしにとってヨシカミの中でも最も神々しい座席である。
なぜなら、わたしが少し首を上に傾げると、そこには日本の音楽神、細野晴臣さんのサインが掲げられているのだ。
洋食神のもとで音楽神に見つめられながらいただく絶品料理を紹介しよう。
この日わたしはポークソテーをオムライスをいただいた。
家内はビーフカツレツとナポリタンである。
ここでヨシカミの代表的なメニューを紹介しよう。
コーンポタージュ
ハムサラダ
ハンバーグステーキ
ビーフシチュー
白身魚のムニエール
海老のフライ
チキンソテー
などなど、過去一度として「裏切られた!」「美味しくなかった!」と思わされたことはなかった料理ばかり。
しかしヨシカミとしてはその手のメニューではなく、本心ではステーキを食べてほしい、と思っている(と、勝手ながら思っている)。
なぜならステーキだけがやたらとバリエーション豊富だからだ。
一例をあげよう。
牛ヒレのステーキ
牛ヒレのトルネードステーキ
牛ロースのステーキ
牛ヒレのステーキ
シャンピニオンステーキ
カントリーステーキ
エマンセステーキ
ビーフカツレツ
アントニアステーキ
ラムチョップステーキ
なかでも牛ロースステーキへの熱の入れ方は半端なく、お品書きにも「サーロインとも云われ香ばしい脂の香りが一段と増して若い人々主流にモテモテです ガーリックのショー油味」とあるだけでなく、店内ポップも目立つところあちこちに。
この日はビールとともにいただいたのだが家内が最後にコーヒーで締めたい、というので知ったかぶりをして「このクリームコーヒーというのがいいのでは?コーヒーに生クリームが浮かんでいる、つまりウインナーコーヒーだよ」を薦めたのだが、果たして登場したのはこちら。
まさかのアイスコーヒーに、まさかのアイスクリーム。知ったかぶりはするものではないということである。
浅草にはヨシカミがある。
すぐそばには水口食堂もあり、少し歩けばヨシカミで修業したマスターが短パンで店をひらいている奥田麦酒店もある。ホッピー通りをいけばあちこちから声がかかる。これらの店には毎週のように足を運ぶのだが、ヨシカミには多くても月に一度ぐらいがいい。
それぐらいが足るを知る、ということではないか、と思っている。
浅草にはヨシカミがある。
逆を言えばヨシカミのない浅草は、考えられないのである。
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