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天、川、歌(5)

 第5話 煩

 週明けの月曜日、寿里亜はいつもどおり始業から1時間早く繰り上げ出勤してしばらくすると、いつもはそんな時間に出てこない課長が出勤してきた。内心、なぜと思わないでもなかったが、いつもどおり挨拶して机で仕事をしていると、
「吉本さん。ちょっと今、いいですか。」課長がやってきて言った。
「時間外のことなんですが・・。ここはもともと時間外の少ないところだし、吉本さんは昨年はほとんど時間外をされていませんね。だけど今年は職場の中でも突出して増えています。コロナの影響の仕事が増えたのはあるんだけど、ほかの人に任せられる仕事はありませんか。」
考えながら何か言おうとするのだが、寿里亜は咄嗟な答えがすぐには出てこなかった。
「今、仕事を覚えているところだから、仕方がない面はあるんです・・。小西さんは、課長補佐ですし、リーダー的な仕事があるかと思ってルーチンは少ない分担にしているんですが、かと言って、実際にはそんな仕事はあまりなかったのです。」
「課長補佐といっても、ほかの職員と変わらない一般職の扱いです。ルーチン業務をやってもらえれば、その分、吉本さんが助かるんですけどね。」
「考えてみます・・」そうは言ったものの、どうも膠着状態の感がした。
 まだ4月のうちだったろうか。寿里亜は小西に、一覧表を渡して、間違いがないかチェックしてほしいと頼んだことがある。すると小西は脱力するようにため息をついて、一言言った。
「ばからしい」
弱々しくため息をついたのだ。寿里亜はちょっと驚いたと同時になぜこの人はこういう反応をするのだろうと考えた。自分がこれを引き継いだときには、何の抵抗もなく受け入れたものなのだが。
 そのときは渋々ながらやってくれたものの、同じようなことがまた起こった。寿里亜が最も引き継ぎたい事務を説明しようとしたときの出来事だ。キャビネットには、書類が山積みされていた。
「今から、いいですか?」
「はい。」小西が机の上を広く空けるところへ、とりわけ厚みのある書類の束を取って持っていった。数種類の付箋とともに。書類のチェックの仕方を説明していったが、途中から、小西の耳に言葉が入っていっていないことに気付いていた。マスクをしていてよくは分からないのだが、またがっくりとため息をついた。弱々しく笑ったようにも見えた。
「これを、私がせんといけんのん。」
怒気を含んだ声だった。目しか出ていないその目が恐ろしい。寿里亜は、どぎまぎしてしまった。
「・・難しいですか?」
「こういうのをするために、嘱託がいるんじゃないん。・・ばからしい。」
吐き捨てるように言った。寿里亜は、たじろいだ。そうですよね、と小さく言ってそのまま書類を引き取った。すると、小西はペンやら、出したばかりの数種類の付箋を元の引き出しにしまうのに、力いっぱい引き出しをバンバンと大きな音を立てて、叩きつけた。寿里亜は少々、恐れをなした。
 小西さんのプライドを傷つけてしまったのだろうか。それとも説明が下手だったのかな。その後も、小西さんはいつも機嫌が悪そうに見える。こういうの苦手だな。
 係員の役割分担を寿里亜が作成して見せたときも、
「こういうの作るのは、時間の無駄だ。」と言う。
「それでは、係会議で相談しましょう。」寿里亜が言うと、
「相談しようにも、早く帰られるんで。」
寿里亜はこのところ早朝勤務にしているので、定時であれば、1時間早く帰ることになる。
「メンバーが揃う時間に、話をしましょう。」寿里亜はなるべく冷静に言ったのだが、
「いいです。もう話は、しなくていい。」小西さんは、頑なに見えた。不満や批判があるように思えるのだが、この仕事に対してなのか、私に対してなのか・・。両方かもしれない。いずれにせよ、こうはっきり作業を拒否されるとなると、それ以後一切を頼みにくくなってしまった。
 あるとき、嘱託職員が小西のした仕事のミスを見つけたことがあった。その職員は、明るい女性で、「確認しないといけないんじゃないですか?」とあっけらかんとした口調で言った。小西は、スミマセンと取り繕った笑みを浮かべた後、
「わたしは、吉本さんに聞いて、やっただけで。そんなことはひとつも聞いてなかったから」とキンキン声で抗弁している。何だかその場にマッチしない慌てふためき様で、寿里亜には滑稽にさえ思えた。ところが寿里亜が小西にそれを修正してもらおうとすると、「いらないです。」と目を合わせず、もうその仕事をしようとしない。結局、やり直しは寿里亜がやることになってしまう。
 職位が上だからと思って新しい制度の相談をすれば、「知らん。吉本さんが決めて」と言って当てにならない。率先してやってくれるのは文書の管理と用紙の無駄の排除。「書庫の中のこの書類は要るのか」「この文書は廃棄してもいいのか」確かに、必要なことなんだけど、今は別の差し迫った課題があるんですけどねと言いたくなる。声をかけてもパソコン画面から顔を動かさず、小さな声ではい、と答えるだけ。大柄で肉付きのよい身体をいったん椅子に落ち着けたら、なかなか立とうとしない。お客さんが来ても気付いているのかいないのか完全無視。もう、本当にどうにかしてほしい。この人はこの仕事には、いらないけどな。パソコンの業務ソフトの操作をはじめとして、これまで何度やってみせても同じところで同じ質問を何度もされる。パソコン操作は自分で触ろうとしないし、やってみようとしない。この間違いだって、いちいち私が説明するまでもない当然のチェックを怠っただけでしょ。自分が間違うことを極端に嫌い、その原因を自分以外のところに見出さないといけないらしく、不機嫌になってしまうし。まだ数か月しかお付き合いしていないが、次の異動でどこかへ行ってくれないかな。私ひとりがやったほうが、よほど早くて間違いがないんだよ。寿里亜は、そんなことばかり呟いている。

 第6話につづく

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