最終話 降臨 ピーッという甲高い笛の音が鋭く響いた。ぽたっと頬に冷たいものが落ちて寿里亜は我に返った。ぱらぱらっと突然大きな音を立てて、大粒の雨が降ってきた。同時に急激に震えるほどの寒さが来た。ものすごい雨音、水しぶきだ。寿里亜は慌ててもと来たとおりに駆け戻った。しかし、水けぶりと雨のシャワーで行く手を見失う。そこへ青白い閃光が走った。ドン!と地響きがして、直後に凄まじい轟音と振動が落ちた。寿里亜は叫び声をあげて思わずうずくまり、また夢中で走った。滝のような雨、次々と稲
第11話 清流 寿里亜は今朝ここで瞑想したときに座ったあたりにまた腰を下ろした。禊殿の建物、山の木々のそよぐ音、月明かりに浮かび上がった辺りの気配を感じていた。じっと耳を澄まし、目をこらしていた。辺りの雰囲気に慣れてくると、月を見上げた。母の命日。今夜は十六夜。曇り空でくっきりとは見えないが、静かな優しい光を届けてくれていた。母の亡くなった時間帯は、夜8時から10時の頃である。その時間が、もうすぐ来ようとしている。母が亡くなってから2年。時が止まったかのように身動きでき
第10話 禊殿 翌日7月6日。母の命日である。朝早く目を覚ました寿里亜は、近所へ散歩へ出た。今日は宿の人にしっかりと禊殿の場所を聞いて、そこまで行くつもりだ。まだ6時前だが、もうすっかり明るい曇り空である。近所の家々の脇を伝って、奥へ行く。本当に住んでいるのだろうかと思うくらい、生活音が聞こえてこない。しんと静まり返った村である。小径も、傍らの草花も、露にしっとりと濡れている。湿り気を含んだ柔らかな空気だ。肌寒いくらいだが、朝にはちょうどよい。道路下の川に沿って、小径を
第9話 護摩焚き そんなことを妄想していて気がつけば、人が集まって、座布団は人で埋められていた。中には同宿の3人の顔もあった。シンセサイザーや、パーカッションのような打楽器やギターを演奏する楽団がいて、南方系ミュージックが演奏されている。特に説明はないが、神事は始まっているようだった。宮司が中央の煙に香を焚べる。さらに煙が湧き立ち、安らぐ香りが一帯に広がった。護摩木を焼べ、炎が立った。宮司はもとの位置に座って、手に細長い竹竿のようなものを持っている。そしてそれを自在に操
第8話 呪縛 民宿の自室に帰り、荷物を整理しながら温泉で出会ったふたりに聞いた明日の神事について思いを巡らせていた。誰でも見ていいということだったから、行ってみよう。護摩を焚くと言っていたので、母の供養のつもりで手を合わせてみよう。寿里亜は、三回忌を迎える母の供養のために天河神社へ来たのだが、どのように供養をするかは決めてきていなかった。神社に来て、七夕供養燈火を納めるつもりでいた。お参りのために、白い上下の服も用意してきていた。 6時少し前、民宿の主人が夕食を知ら
第7話 天河神社 7月4日、土曜日。奈良県天川村は、広島から行くとなると、ちょっとした旅行になる。新幹線、近鉄と乗り継いで、最寄り駅の下市口駅からさらにバスで1時間だ。寿里亜は、いつもの観光旅行とは違った神聖な気持ちで車窓から外を眺めていた。今日は特別な旅行だが、こんなことでもない限り、ここまで来ることはないだろう。山里を行き、川を渡って、細い道路に入った。次が天河神社であることをアナウンスが告げた。 寿里亜が降り立った場所は、赤い鳥居の前だった。ここが、天河神社だ。
第6話 決意 そんなこともあって、寿里亜は、朝、誰もいない事務所でひとりで仕事をするのが好きだった。ゴールデンタイム、と自分で呼んでいる。電話も鳴らない。誰かに何かを尋ねられることもない。一番重要で、集中したい仕事はこのゴールデンタイムに持ってくる。そのほうが間違いがなく、仕事がよく進んだ。1時間早く始まる勤務は、定時なら1時間早く終わり、その分、小西と鼻を突き合わせる時間も短くて済む。 ちょっと無理があるよね、と寿里亜は考えた。小西さんはここへ異動するまでは、出向と
第5話 煩 週明けの月曜日、寿里亜はいつもどおり始業から1時間早く繰り上げ出勤してしばらくすると、いつもはそんな時間に出てこない課長が出勤してきた。内心、なぜと思わないでもなかったが、いつもどおり挨拶して机で仕事をしていると、 「吉本さん。ちょっと今、いいですか。」課長がやってきて言った。 「時間外のことなんですが・・。ここはもともと時間外の少ないところだし、吉本さんは昨年はほとんど時間外をされていませんね。だけど今年は職場の中でも突出して増えています。コロナの影響の仕
第4話 七夕 今年は、母の三回忌に当たる。もとより地縁も血縁も薄いし、信じる宗教やお付き合いのあるお寺があるわけではない。法要は、しなくてもいいと思うが母の命日に当たる7月6日には、静かに祈りを捧げたいと思った。母に祈りを捧げるなら、どういうふうにしたらいいだろう。ふと、寿里亜は立って、引き出しから緑色の封書を取り出した。母あてに届いていた封書のことを思い出したのだ。 転送されてきた母あての郵便物である。近頃では母あての郵便物はほとんど届かなくなっているのだが、母が亡
第3話 出生 父親のことを聞いたとき、母は「ジュリーよ」と答えたことがある。無論、誰にでもわかる冗談である。母は父のことを詳しくは語らなかった。寿里亜も、物心ついてから父はもともといなかったのだから、特に会いたいとも知りたいとも思わなかった。長じて自分の戸籍謄本を見ることになったとき、ぽっかり空いた父の欄よりも、「女」という記載に自分ではどうすることもできないものを感じたまでである。 母は、鮮魚店に勤めて、懸命に働いた。寿里亜が中学になったとき、被災したあの家に移った
第2話 歌いびと 寿里亜は、シムラさんの代役に決まったサワダケンジさんが、ジュリーと呼ばれていると知って、今度はパソコンをまた開いてジュリーのことを検索した。というのも母は、ジュリーのファンと聞いていたからである。そのジュリーのことをかっこよかったと母は言ったけれど、テレビで視たことは一度もなかったし、寿里亜はどんな人か知らなかった。この記事に写真が載っていたが、なんだかあてがはずれたような気持ちがしたのである。何かに似ていると思うが、NHKのキャラクターで、確かヒゲジ
母の突然の死をきっかけにほんとうの自分に出会う旅をする女性の物語です。 第1話 死の辺縁 パソコンのふたをぱたんと閉じると、寿里亜は深いため息をついてゴロンとベッドに仰向けになった。在宅勤務だと、仕事はどんどん進むのだし、誰が見張っているわけでもない。それなのに、人にもよるのだろうが寿里亜はひとり自宅で仕事をしていると息をつく暇も自分に与えない。きっちりと終業の時刻まで仕事をすると、重たい疲れがのしかかってくるのだが、その淀んだ重さが仕事を終えた後も部屋中を覆うのだ。