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【即興短編】No2 灰色の街

 世界は一度滅んだらしい。そう、隣の彼が言った。雨の中で傘を差し、灰色の街を眺めながら言葉を紡ぐ。空はどんよりと鉛色、目の前に広がる景色は瓦礫で崩れた街。誰一人として住んでいない、そんな街だ。
 彼はいつも通り飄々とした態度で瓦礫の中を進んで行く。そんな彼の後を自分が続く。行くあてもなく、目的もなく、ただ二人で何処かを目指している。何処に行きたいのか、到達したい場所はあるのか、心は何処へ捧げればいいのか――何もわからない。永遠と歩いて来たが、誰にも会わず、生き物すらも見かけない。そんな世界で彼と歩いていた。
「あ、見て、こんな所に花が咲いているね。可愛い」
「薔薇ですね。触れると怪我しますよ」
「薔薇か、久し振りに見たよ」
「そうですね、最近は街に辿り着く事もありませんでしたし」
 彼は道端にしゃがみ込んで路傍から生えている花を見つめる。何故そんなところに花が咲いているのかと思ったが、今までの事から考えるにあまり常識に当てはめない方がいい事くらいわかっていた。建物が逆転した街、空を飛ぶ植物、喋り出す美術品、嘘を吐き続けないといけない街――など数多の常識外れが存在していたからだ。さて、此処はどんな街なのか、また調べないといけない。調べるのはいつも自分の仕事だ。
 この世界は一度滅んだ、と思う。滅ぶ前は学生で、中々に大変な日常だった。それでも何だかんだ楽しかったのだ。だがある日、割れるほどの頭痛が自分を襲った。それから、何年経ったのかそもそも生きているのかわからないが、目を覚ませば誰もいない世界に一人、放り出されていた。あてもなく歩いていた時に彼と再会した。
 世界が崩壊する前、彼と自分はそれなりに親しい関係だった。しかし、互いの事を一切思い出せない。名前も、何が好きだったのか、何が嫌いだったのか、互いの関係も。教え合う事は出来なかった。何故なら自分自身の事を一切忘れていたから。名前も、何もかも思い出せずにいた。しかしそれで構わないと思っている。記憶など蓄積されていずれ消えゆくものだから。自分が無頓着なのかもしれないが。
「凪さん、先に進みますよ」
「うん、野薔薇ちゃん」
 名前がないのは不便だとして互いに名前をつけた。凪いでいる日の海岸で再会したため凪と呼ぶ事にした。年上のようだったので一応敬称を。無難な名前だったのに、彼――凪は何と自分の事を野薔薇などという滑稽な名前で呼び始めた。理由を聞けば「何かそんなイメージだったから」との事。訂正を求めれば他の名前はまあそれ以上に滑稽。コイツ、ネーミングセンスがないんだなと理解し、それを渋々許したのだ。
「今日はどんな街だろうね」
「この間みたいな滑稽な街じゃなければ構いません」
「ああ、喋り出す植物の街だね。あれは面白かったなあ」
「あなた、ラフレシアに食われそうになっていた事覚えていませんか? そのために私が奔走したのを忘れました? 殴っていいか? なあ、殴ってもいいか?」
 冗談だって、と子供のように愛らしい顔で笑う凪。そう言う時は大抵覚えていないのだ。言われるまで忘れているのだ。彼と生活する中で覚えてしまった彼の癖である。それほどまでに彼との付き合いも長くなっていた。
 あれからどれくらいの年月が経ったのかわからない。それでもただ歩き続けている。目的なんてなく、あてもなく二人ぼっちの世界を。それでもまあ、悪くはない。いつか終わりが来るのだろう、いつか死ぬのだろう――いや、死ぬ時は近いのかもしれないなと自分の手を見つめ心中で呟きを漏らした。
「でも長い時間過ごしているね、僕達。二万と二〇〇〇日近く?」
「六〇年です。再開した頃のあなたは若々しい姿でしたが、今ではしわくちゃのおじいさんですからね。……性格は変わりませんが」
「野薔薇ちゃんはいつになっても可愛いし綺麗だね」
「……それ、私に言う台詞じゃありませんが」
 歩き続けても、何もわからなくても時間は過ぎ去っていく。六〇年、彼と出会って六〇年経った。端正な顔立ちの彼は皺が増え、髪は白くなり、歩くのにも杖が必須になった。自分も同じように老けた。皺が刻まれ、腰が少し曲がり、足腰は弱くなった。このまま、歩き続ける人生なのか、そもそも此処が何処なのか――わからない。わからない事だらけで死んでいく人生なのかもしれない。それでもいい、そう思う。
「もし、この世界が夢で、戻れるとしたら……どうする?」
「今更な質問ですね。でも、望まないと思います。私、この世界、嫌いじゃないですよ。凪さんもいますし、一人じゃありませんからね。意外と、楽しいです」
「野薔薇ちゃんって結構僕の事大好きだよね。昔から」
「今頃気付いたんですか」と悪戯を覚えた子供のように笑えば、小皺の増えた顔を緩ませる凪。相変わらず端正な顔立ちだなあ、なんて余計な事を考える。彼は周囲の瓦礫を見回しながら「僕も野薔薇ちゃんの事好きだよ」なんて日頃から言われている言葉を彼は紡ぐ。それが本心かどうか、わからないが。
「だから、死ぬ時くらいは野薔薇ちゃんの傍で死にたいなあ」
「そうなるでしょうね。私が看取るかあなたが看取るかの違いです」
 先に死ねば数多の真っ赤な薔薇でも供えてやろう。こんな世界じゃ墓石を作る事も敵わないがそれくらいなら出来るだろう。でも、彼のいない世界は、寂しいかもしれない。泣いてしまう事はないだろうが、つまらない日々がまた訪れるのかも。それは少し嫌だなと思った。子供のようで、時には馬鹿みたいに年甲斐もなく騒ぐ彼を見られなくなるのは。
 だからどうか、神様。
 この人生が、時が、永遠に止まる事を――ただ願う。そして彼と永遠に歩いて行けるような世界を望みたい。そんな世界を、日常を、求める。自分の願いはそれだけだ。
 特に何も変わらない日常。それが何てことのない幸福なのだろう。
「じゃあ野薔薇ちゃん、死ぬ前までには本当の名前を思い出せるといいね」
「今更興味もありませんが、そうですね……あなたの事を少しは知りたいと思いますよ」
 約束だね、と楽しそうに笑みを広げた凪。そんな彼の顔が突然崩れ、世界は暗転する。
 そうしてまた――思い出す、繰り返す。何度も続けたこの日常を。そうだ、そうだった、私は何度もこの日常を繰り返しているのだと。何度も、何百何千と続けたこの日常。また同じように彼と出会うのだ。
「えっと、一人かな?」
「……ええ、よければご一緒させて頂いても?」
 そう発した瞬間、何かが抜け落ちていく。大事なものだったはずの何かが。けれど、いつも何処かで覚えているのだ。目の前の見知らぬ彼は、何処かで会ったような気がする事を。確か世界が崩壊する前――いいや、違う、その後で出会ったのだ。
 けれど思い出せない。はて、何処で出会ったのだったか。
 しかし、それでも構わないと何故か思った。どうしてか、思った。歪で、何もわからなくても――これからの人生が、幸せだと思ったからだ。
 そうして歩いて行く。また、何度も、何百何千と――。
 この夢の中の世界を。
 


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