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【詩】耳鳴り

耳鳴り

理髪店の前は雨が降っていたことがない
亡き王女のパバーヌが聞こえてくる二階の窓は
いつも閉じられていて
少年だった僕の耳は
海辺の貝のように
知りもしない
未婚の叔母の過去の波打ち際に取り残されていた

ああそうだ そういえば
忘れていたことが大切であると
叔母はよく言っていた

叔母は時折スフインクスのように
決して解けないなぞなぞを出し
僕はいつもインチキの答えをでっち上げた
叔母はその度に淋しげに微笑んで
僕のいたいけな耳にハサミを入れたのだ
その切り取られた僕の耳は
いまも彼女の
ふくよかな胸の谷間にいくつも眠っている

忘れたことが大切なの
よく覚えておいて

僕は叔母のかなしみを検査する聴診器のように
彼女の胸に耳をあてた

ああそうだ そういえば
叔母の理髪店は
山から海辺に向かう
なだらかな坂道の途中にあった
だから僕はお天気の日にしかそこを通らなかったのだ

忘れたことはたったの一つ
なぜだか分かる

鏡には海を借景にした叔母がハサミを構えて
微笑んでいた そして
二階にゲバラをかくまっていると
僕にこっそり打ち明けた

ああそうだ そういえば
あのモナリザの含み笑い
そして無意味に開いたり閉じたりしていたハサミ あれは
秘密を知った耳は切るという威嚇だったかもしれない

叔母はまた
ゴッホの気持ちも分からなくなはないと言っていた
耳鳴りが果てしなく続いているということだった
僕がイヤリングの穴に気づき
それは右耳だろうというと
叔母は満足げに頷いて
父親殺しは遺伝ね
と僕の耳のそばで囁いた

ほら
おわかり
忘れたことは何か
言ってごらん

叔母はそう言っておきながら
無慈悲にも僕を置いてきぼりにして
南米に密航した
忘れたことに逢いにいくのと
言い遺して

ああ そうだった
あれからか
僕の耳が
貝になり
潮騒に悩まされるようになったのは


数年前の深夜だった。突然、耳が鳴り出した。最初は金属音。しばらくするとラジオをチューニングしているときのあの音。そんなとき、ふと、ジャン・コクトーの「貝」とう詩が頭に浮かんできた。

  私の耳は貝の殻
  海の響きをなつかしむ

              訳 堀口大学

学校の教科書に載っていたような気がするが、いつ自分の頭に残っていたのかははっきりない。

不思議なことに、そのときから耳鳴りが海の音に聞こえ出した。
その後、耳鳴りは緩和した。たぶんいつも鳴ってはいるんだろうが、あまり気にはならなくなった。

耳が貝になると、どこかに直にあてて聴いてみたくなる。 どこか。
思い浮かんできたのは『髪結いの亭主』というフランス映画だった。少年時代の主人公を魅惑する理髪店の豊満な女理髪師。彼女の豊かな胸。そこにはどんな音が秘められているか、妄想が勝手に探索し、彼女はいつのまにかぼくの叔母さんになり、変なものができた。

〈「B-REVIEW」8月投稿作品〉

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