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生まれてから小学生時代までの食をちょっと振り返ってみた。親の転勤と各地の思い出。

転勤族の子なので、日本のあちこちに懐かしいところがある。

東京の小金井、桜町病院というところで生まれた。生後4カ月で父が早々に兵庫県に異動。物心がついたのは3歳ぐらい、尼崎市のみこころ幼稚園というところに通った。同じ組の子のお母さんが作ってくれたキャベツいっぱいのお好み焼きがおいしくて、衝撃だったの覚えてる。父・青森、母・新潟の我が家にはない味だった。私の食味初ショックは粉モンだったんだなあ。

西武庫公園でよく遊んだ。あそこ、楽しかったな。春から秋にかけて、花がいっぱい咲いていた。バラ、アヤメ。社宅の年上の兄ちゃん姉ちゃんに遊んでもらったこと、夜中に母がお隣におしゃべりに行って、起きたら独りであることに気づき泣き叫んだことなどは覚えてるが、あまり食の記憶はない。さすがに小さすぎたか。私はあの頃、関西弁をしゃべっていたのだろうか?

5歳で宮城県に移転する。小山の上にあるナザレト幼稚園というところに通い、山道のそこらに木苺がなってて摘んで食べるのが楽しかったんだよな。あざやかな酸味と甘みで、ひと粒口に入れて、「うわーッ」って嬉しくなったあの気持ち、今も消えない。

摘みたて木苺の酸味を思い出したら、小学校に上がってパン工場に見学に行き、もらったジャムパンをつられて思い出した。そう、イチゴジャムで、「うちで食べるジャムよりおいしい!」って思ったんだ。当時から取材するのが好きだった。たくさん質問したな。

仙台在任中は、鳴子、秋保、石巻、気仙沼、いろんなとこに父が連れていってくれたこと思い出す。今思えば、土日はずっと寝てたかったろうに。

利府で梨狩りして食べたそれのおいしかったこと。片手でつかめないぐらい大きかった。小学校の遠足で太白山のほうにサツマイモ採りにいって、ふかして食べたこと。クワハラ先生が「ふかし芋はマヨネーズつけるとうまいんだぞ」といばった。「なにそれー」とみんないぶかしんだが、やってみれば最高においしい。クラスのみんながマヨネーズを取り合った。

とあるレクリエーションで、河原でツクシ採りもした。持って帰ったら「お母さん、あんま好きじゃないのよね」とはっきり言われてちょっと驚いたな。うちの母らしいけれど。爪の間に入るのよね、なんて言いながらツクシのハカマを取っていた。

この頃になると食の思い出は尽きない。

父の転勤は小学時代もこまめにあった。宮城で最初に住んだのは南光台というところ。今は泉区、当時は泉市である。青柳さんという個人病院があったの覚えてるんだが、どなたかご存じありませんかね? ショッピングモールで売られてるチーズドックが好きだったんだよなあ。多分近くにたばこの専売公社があったような。ハンバーグのうまい洋食店や、洋菓子店の名前が思い出せない。

7歳ごろ、仙台市木町のチサンマンションへ移り住む。シャレたマンションで、一家でテンションが上がった(と思う)。父と日曜に相撲してたら下の人から苦情が来て、なんとそれがヤーサンであった……! 相撲した私等も悪いけど、ともかくも早々に引っ越しして、宮町2丁目へ。大きな梅の木が目の前にある家で、実のなる季節はいい匂いがしたもんだ。ご近所づきあいがわりに密な、のどかなとこだった。昭和60年ぐらい。三越の配送センターがすぐそば、あの上に住んでたコシヅカ君は元気だろうか。

仙台の宮町が、親の転勤で引っ越し続きの私の人生において「ふるさと」と思えるところ。住んだのは4年間、今や親も住んでないしもう縁はないんだけど、漂泊の私の子ども時代の中では断トツに長く、10代前半ということもあり、思い入れが強くある。

あそこの空気を吸いたくて、今でもたまに新幹線に乗る。飛び乗る。ひとりで宮町、上杉、錦町をめぐり、「ああ、まだある」「ああ、もうないか、さすがに」なんて独り言を発しながら、まちを歩く。ささやかな数十分の里帰り。

「あさひ」というお蕎麦屋さんも、「精華園」というラーメン屋さんも、コンビニのはしりだった「パンプキン」も、魚屋の佐藤さんも既にない。あの梅の木も切られた。でも通った東六番町小学校の桜の木はまだある。それだけでいい。私はここに、いたのだ。ここで育ったのだ。あの鉄棒を使って、あのプールで泳いで、あの池の金魚を眺めて、生きてたのだ。

そう思えるところがある。それだけでいい。

なぜか、こんなことを書いておきたくなった。

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