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群青、君が見た空の軌跡 #28 婚約者

 その少し前、ホールではダンスタイムに入ったところだった。

 ゾフィーはジルベールと一緒に会場後方の壁際で楽しく話をしていた。時間が経つにつれて少しずつ緊張が溶けてきて、ジルベールはだいぶゾフィーの顔を見られるようになっていた。

「お話中失礼いたします。お坊っちゃま、ご主人様がお呼びです。」
 振り返ると、ジルベールの家の使用人である年配の男が軽くお辞儀をしていた。
「父さんが?何だ?」
「お坊っちゃまに紹介したい方がいらっしゃるそうで。ラスキア政府の方のようですが。」
「…面倒だな。どうしても行かないとだめか?」
「申し訳ありません。ご主人様の命令は絶対ですから。ご挨拶だけですぐ済みますでしょうから、どうかお願いいたします。」
「…わかった。」
 ジルベールはせっかくのゾフィーとのひと時を邪魔されるのは嫌だったが、ゾフィーにすぐ戻ると伝えてしぶしぶその場を離れた。


 ジルベールの後ろ姿を見送ってから、もしかしたら義父が本当に自分の結婚相手になるような人を連れて来るかもしれないと思い、ゾフィーはどうしても落ち着かなかった。その相手がどんな人であれ、義父にあてがわれた人と結婚するのはどう考えても嫌だった。
 もしかしたら自分が引き取られたのも全てそのためだったのかもしれない。義父ならわずか9歳だった私に対してそう考えても不思議はない。

 あのときクルトおじさんに引き取られていたら、どんなに良かったかと思う。でも義父の家に行くことを決めたのは他ならぬ兄だった。
 あのとき私はただ駄々をこねて大泣きしたけれど、兄にはどうしてもそうしなければならない理由があったに違いない。それはそのあといくら聞いても絶対に教えてくれなかったが、一体どうしてー。

 そこまで考えて、ゾフィーはそれ以上思案するのを止めた。過去をどう悔やんでも今の現状を変えられる訳ではない。それよりも今はどううまくかわすかが重要だ。ゾフィーは以前のハンスの言葉を思い返した。

「それでも何か言ってくるようだったらすぐ俺に言えよ。」

 ゾフィーには何気ないあの言葉が嬉しかった。兄は普段は私に関心が無いようでも、やはり困った時には必ず助けてくれる。兄の言葉は昔と同じようにゾフィーの胸の奥をじんわりと暖かくした。
 あの言葉があったから、私は今ここに居られる気がする。まぁ、どう逃げようとしても義父は必ず私をパーティーに参加させただろうけど…。

 楽しそうにダンスを踊る恋人たちを眺めながらゾフィーが一人で考え込んでいると、ふいに後ろから肩を叩かれた。

「ゾフィー、ここにいたのか。お前に紹介したい方がいらっしゃってる。こちらへ来なさい。」

 振り返ると片手にワインを持った義父がいつもと違うにこやかな顔で立っていた。ゾフィーは普段なら絶対に見せない義父の表情を見て途端に嫌な予感がした。

「ほら、来るんだ。お前をお待ちかねだからな。」

 ヨーゼフはゾフィーの腕を掴んで強引に連れて行った。ゾフィーは不安が現実になったかもしれないと思い一瞬顔が蒼白になったが、すぐにしっかりしなければと思い気持ちを落ち着かせた。


 会場中央あたりの窓際まで連れて行かれ、腕を離されたゾフィーは咄嗟にヨーゼフの後ろに隠れるようにして様子を見た。そこでは軍服を着た恰幅の良い初老の男性が、やはり軍服を着た男性や正装したタキシード姿の男性たちとワインを片手に談笑していた。
 ゾフィーはその初老の男性の顔に見覚えがあった。以前新聞で写真を見たことがある。確か国防長長官のー
「失礼いたします。お待たせしました、バルツァレク長官。こちらが娘のゾフィーです。」
 よそいきの顔をしたヨーゼフが後ろに控えていたゾフィーの背中を軽く押し、バルツァレク国防長官の前に差し出した。

「…初めまして、娘のゾフィーです。お目にかかれて光栄です。」
 なんとか控えめな笑顔をつくって最低限の挨拶をし、過度な緊張を表に出さないように注意した。
「これはこれは…、本当に美しいじゃないか。ヨーゼフ君、君の言っていた通りだな。いや、思った以上だ。」
 バルツァレクはゾフィーを見てずいぶん感心した様子だったが、当のゾフィーは全く褒められたとは感じていなかった。むしろ商品を見定めるかのようなその目に明らかな嫌悪感を抱いた。だがヨーゼフはここぞとばかりに続けた。

「いえいえ、手前味噌で申し訳ありません。本日長官にお会いするために美しく着飾って参りました。」
「いや、自分の子供がかわいいのは当然だろう。しかし彼女は親でなくても自慢したくほどだな。早速うちの息子にも挨拶してやってくれないか。彼女なら今度こそ気に入るかもしれん。」
「それは光栄です、ぜひご挨拶させてください。ゾフィー、大切な御子息様へのお目通りを許してくださった寛大な長官に感謝しなさい。」
「…ありがとうございます。私もご挨拶させていただけましたら大変光栄に存じます。」
 ゾフィーは義父の低頭で抑圧的なもの言いに苛立ちを覚えつつも、とにかく今は我慢して波風を立てずにうまくやり過ごしてしまおうと、言葉を選んでバルツァレクの機嫌をとった。

「そうか、それはよかった。 おい、アドルフ!この美しいお嬢さんがお前に挨拶してくれるそうだ。」
 アドルフ、と呼ばれたその男は、背が高くがっちりとした体格で、ゾフィーは一瞬義兄と似た印象を受けた。ヨーゼフは改めてバルツァレクに礼を述べると、ゾフィーを伴って揚々とアドルフの元へと向かった。アドルフの方は派手に着飾った若い女性を数名引き連れていた。

「アドルフ様、初めてお目にかかります。アトリアで州議会議員をやっております、ヨーゼフ・リーデンベルクと申します。よろしければ私の娘にもご挨拶させてください。」
 ヨーゼフはアドルフの前でわざとらしい笑顔をつくった。アドルフの方は酒を飲んでいるらしく上機嫌だった。
「アドルフ・バルツァレクだ。それで父の言っていたその美しい娘とやらはどこだ?」
 ヨーゼフは後ろに隠れるようにしていたゾフィーの二の腕を軽く掴み、自分の横に並ばせた。
「こちらが娘のゾフィーです。」

 それだけ言うと、ヨーゼフはゾフィーを差し出すようにして自分は一歩後ろに下がった。ゾフィーは仕方なく再び人工的な笑顔をつくって挨拶した。
「初めまして、アドルフ様。ゾフィー・リーデンベルクと申します。お目にかかれて光栄です。」
「ほう…これは…、本当に美しいな。…歳はいくつだ?」
 ゾフィーはその男の尊大な態度と失礼な物言いに、バルツァレク長官のときと同じような嫌悪感を抱いた。
「…15歳です。」
 もっと愛想よくしなければと思ったが、この男の前でそれを実行に移すのはゾフィーにとってかなり難しく思えた。
「15か!若いな…!」
 年齢を聞いてにやっと笑うその顔を見て、目の前の男に対するゾフィーの中の嫌悪感は強くなる一方だった。
「よかったら、二人きりで話をしないか?上に部屋を押さえてあるんだ。かつての皇女が使ったという、バロン宮で一番高貴な部屋だ。見てみたいだろう?」
「いえ、私は…」
 予想もしなかった申し出に、咄嗟に断ろうとしたが何と言ったらいいかわからず焦った。するとアドルフはゾフィーではなくヨーゼフに向かって声をかけた。
「お父上、いいかな?」
「もちろんですとも、どうぞ仲良くしてやってくださいませ。もしゾフィーを気に入って頂ければ、私と致しましてはあなた様のお側に仕えさせて頂けたら大変光栄に思っております。」
 ヨーゼフは満面の笑みで答えた。その返答に満足したアドルフは不敵な笑みを浮かべた。
「そうだな、俺もそろそろ本気で結婚相手を探しているところだ。」
 言いながらアドルフはゾフィーの腰に手をまわして強引に引き寄せた。体を密着させられたゾフィーはあまりの嫌悪感に鳥肌が立った。

「ちょっと…離してください!」
 つい無難にやり過ごすという当初の方針を忘れて声を上げてしまった。
「なんだ、緊張してるのか?大人しくついてこい。」
「あの…、行けません!」
 はっきりとした拒否反応をみとめると、それまで余裕を装っていたアドルフは突如表情を変えた。
「…なんだと?俺に恥をかかせるつもりか!?お前だけじゃない、親兄弟の進退も俺が握ってるんだぞ!」
 ゾフィーは一瞬言葉を失った。兄の未来について考えたとき、どう対処すればいいかわからなくなってしまった。アドルフは逃さないぞと言わんばかりにゾフィーの腰を強く掴みなおした。

「来い。心配するな、やさしくしてやる。」
 ゾフィーにとって絶望的な言葉を吐きながら、アドルフは強引にゾフィーを連れていこうとした。ゾフィーがついに強引にでも相手の手を引き剥がそうとしたとき、突然大きな声で名前を呼ばれた。

「ゾフィー!!」

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