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「5歳の時に家を出て、そのままいなくなったと思うことにする」

私の母の話。

過干渉の母

母は、いわゆる毒親という分類に入ると思う。過干渉というやつだ。携帯電話の中身を見るのは当たり前だったし、私の大学までの進路は母が決めた。母が望む習い事をして母が喜ぶために一生懸命やり、部活動はやりたかったが母の望むものではなかったためやらなかった。

小さい頃から、母は私のことを「愛している」と言っていたが、母が愛しているのは「母の望む生き方をする子ども」だということは分かっていたので、私は愛されるために母になるべく従った。

私の生きる基準は、母を怒らせないことだった。
特に小さい頃は、教師や他の人が怒ろうと、母さえ怒らなければ、それはどうでもいいことだった。
母を怒らせるといろんな物が飛んでくるのだが、いつか包丁が飛んでくるかもしれないなと本気で思っていた。
実際には命の危機はなかったのだが、母の気に入る子どもじゃなくなって母に愛されなくなったら殺されるんだろうという思いはずっとあった。

でも、私自身の元々の性質上そんなにいろいろと我慢できる性格じゃないから、母親が気に入らないであろうことだがやりたいなと思ったことで、ばれても何とかなるかな程度のものがあった時は、隠れてやることも度々あった。
そのために必要なら何度だって母に嘘をついた。
小さい子どもの嘘だからばれることも度々あった。嘘がばれるたびに「なぜ嘘をつくのか」と責められ「ごめんなさい」と私は言うが、自分のやりたいことをやるためには嘘をつくしかないので、その「ごめんなさい」には何も意味はなかった。
ただ、「今回は失敗してしまった。次はもっと上手に嘘をつこう」と思っただけだった。

母との別離

そんな母とは結婚を機に別れた。

母自身、母の両親含めて親戚たちとはあまりうまくいっておらず、母の中で大切なのは、自分と夫と子どもたちだった。母にとって家族とは「夫と子どもたち」であったので、私は小さい頃から、

”結婚をすれば私にも夫ができるわけで、その夫を大切にすることは母と同じことなので、母の機嫌をとらなくても文句はないだろう。たとえ文句を言われてたとしても言い返せる。” 

という思いがあった。
ある意味、結婚というのは、母との関係を変えるチャンスだとずっと思っていた。離れられれば最高だとは思っていたが、そううまくいかないだろうとも思っていた。
しかし、それがうまくいったのは私の夫、T氏おかげだ。

母は自分の娘が結婚して他の男に取られることが心底嫌だったらしく、「結婚をしても、母親が一番大事よ」と言ってほしかったようだ。そんな思いから、両家の顔合わせが穏やかに終わったにもかかわらず、その後の結婚式の準備の最中に私に対して文句を言い出した。マリッジブルーかよ。
そして最終的にはT氏を呼び出した。母はT氏に説教をしたかったらしい。
ただ、母が思い違いをしていたのは、T氏は羊の皮を被ったドラゴンだということだ。羊の皮を脱ぐとやばい。それはもう、やばい。羊を調教しに来たつもりの母は、ドラゴンに火を噴かれてキャンキャン言いながら帰っていった……らしい。
というのも、その場には私は呼ばれなかった。呼ばれなくて本当に良かったと思う。

5歳の時の出来事

私は中学生ぐらいまでの記憶がほとんどないが、ただ1つだけ鮮明に覚えている出来事がある。

うちでは怒られるとベランダに出されることがよくあった。5歳の時、その夜も怒られてベランダに出されていた。ベランダで泣いて謝っていたが、母の怒りが収まるまでは家には入れない。
5歳の私は、「もうたくさんだ」と思い、ベランダから下りて逃げだした。
その当時住んでた家はいわゆる団地住宅の1階で、1階のベランダだったら小さい子どもでも下りることができた。

団地から離れて少し歩いていったのだが、1個目の横断歩道を渡った所で思った。

「私はどこに行けばいいんだろう」

お金も持っていないから遠くに行けない。目的地も分からない。途中で連れ戻されたら余計に怒られる。
その時、私は思ってしまった。

「生きるためには、母の言うことを聞くしかない」

きっと本当は違う。でも、5歳の少女はそうとしか思えなかった。
絶望して横断歩道の所でうずくまっていたら、探しに来た父親が暗闇から出てきた。その後のことはもう覚えていない。
ただ、その時の絶望だけはいまだに覚えていて、結婚するまで私をしばりつけた

あの出来事がなかったら、私はもしかしたらもうちょっと母とうまくやっていけたのかもしれないと思うことがある。
そう思うと、母には申し訳ないことをしたなと思ったりもする。でも、もう戻れないし、まあ、しょうがない。

ちなみに、その出来事は母の中でも印象深かったらしく、別れる時に手紙が来たのだが、「5歳の時に家を出て、そのままいなくなったと思うことにする」と書いてあった。
それを聞いて何が悲しいって、「その後の15年近く母のことを考えて生きた日々は無駄だった」と言われたと同様だということだ。あんなに頑張ったのに。

母とその次に会ったのは、父が自殺をして、その葬儀だった。
母は私にフレンドリーに接してきた。母は私を抱きしめ、すごくうれしそうにしていた。私は、抱きしめられている時に鳥肌が立っていた。
この葬儀での一連のことが、母が私に何をしたのか本当に分かっていないということが鮮明に分かって、もう会いたくないなとまた強く思ったのだった。

母と私

母のことは嫌いではなかった……と思う。
それとも「母親」という存在に執着していただけなのか。
正直、今でもよく分からない。
ただ、もう母とは会わなくていい。お腹いっぱいだ。

本当は母にいろいろと小出しで、あれは嫌だとか、私の思いを言ってあげればよかったんだと思う。母は学がある人だったから、私が意見を言ったら、私を罵倒しながらも何となく関係を構築できていたと思う。
でも、それをする気は全然起きなかった。
私は昔から、心のどこかでずっと思っていたのだろう。
「そこまでして母と分かり合う必要はない」と。

正直、中途半端に和解とかしなかったおかげで、母のことを気にしないで生きていけて、本当にストレスフリーだ。
あの時しっかり決別して本当に良かった。T氏に感謝。

私は母とうまくいかなかった。
でも今は、母を嫌ったり、憎んでいるわけではない。
関わらなくなってからは母に対して特に何か大きな感情は持っていないが、私と関わろうとしないでいてくれることには割と感謝している。

好きではないからこれからも私には関わらないでほしいけど、母は母で幸せに生きてほしいと思っている。