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アスリート育成日記(3)

子育てとサッカー、両方に関わる話をしよう。

前回、前々回と、コーディネーション能力の特徴や、幼少期にこれを伸ばす重要性について触れてきた。だからこそ自分は、
「運動神経は思春期までにどう過ごすかで決まる」
と、あらゆるご家庭&後輩達に説き続ける日々を送っている訳だが、今回からその方法論について、思うところをまとめていく。これ以降は、多分に私見が入ってくることをご承知の上で、内容をご精査いただけると幸いだ。


まず、結論から言おう。
本来なら、コーディネーション能力を最もローコストで育成するには、

体を動かして遊ぶ快感を早期に徹底して覚え込ませ、後は放牧

するのが手っ取り早い。

理由は大きく2つ。
1つ目は、結局のところ、内発的動機(自分からやりたくなること)を喚起形成しない限りは、その後のあらゆる発展的活動に繋がらないためだ。「運動好き」は、極めて限定的な例外を除き、あらゆる競技において1流のアスリートを育てる絶対条件となる。
2つ目。コーディネーション能力の習得と向上だけなら異なる道もあるが、「能力向上のための運動」は、結局のところ長続きしない。
「楽しめなければ続かない」
「好きこそものの上手なれ」
等、あらゆる先人が残してきた教えは伊達ではないのだ。

加えて言うなら、幼少期の人間の脳は、小さなきっかけで興奮できる状態が出来上がっている点も大きい。「いないいないばあ」や「あっち向いてホイ」だけで、未就学児達は大興奮できるのである。
そんな彼らが、何が飛び出すかわからない追いかけっこに、ボールを的に当てる快感に、木を登って下界を見渡す達成感に抗えるはずもないのだ。親が十分な愛情を注ぎ、親と遊ぶことの楽しさや嬉しさを知っていれば、多くの子供は乗ってくる。(尤も、親の体力や時間的に、圧倒的に難しいことは多いのだが)

はっきり言って、この段階で運動能力もくそもない。
まずは何はともあれ、

「強い(遊びたい)気持ち」

なのだ。
体を動かして遊ぶ快楽や成功体験を積み、自分から能動的に
「遊びたい!」
を言わせている時点で、親御さん達はスポーツアスリートを育む上で、黒帯授与に値する偉業を達成している。実際、この段階に達することができないまま各地のスクールへやって来たり、就学を迎えたりする子供は、年々増加傾向にあったりする。

4つの間(強引)の枯渇

子供が遊びながら、内発的動機に基づいて運動をし、コーディネーション能力を高めていくことが、1つの理想的モデルなのはわかった。もう少し正確なところを言うと、

①十分な広さの場所があり
②一緒に遊べる友達がおり
③様々な遊びのバリエーションを知り、実践する

ことができれば、自然と各能力が成長していくということだ。これに

④能力差、体格差を埋める方法を考案できる知恵と、それを許容できる人間関係

が備わってくれば完璧だろう。

勿論、スポーツエリートを育成する観点で、コーディネーション能力の獲得を「スポーツ」に委ねる方法はある。しかし、習い事という方法では

・自分から進んで取り組めるかが未知数
・時間制限、予算制限、移動制限等、多くのコストが生じる

という、大きなリスクを抱えることになる。およそ現実的な選択肢ではない。

しかし、現在の日本においてこうした「自発的な遊び」を過不足なく実現できる環境は、年々減少の一途を辿っている。特に、都心部はそれが顕著だ。場所の不足、空気の含有成分の変化、周辺住民の軋轢と、問題の例を挙げればきりがない。

写真は昭和40年台の、六本木の路上で遊ぶ子供達の様子だ。わずか50年ほど前までは、六本木に限らず、上野や銀座等でも、当たり前に見られた光景だと言う。子供達が遊ぶための環境が、いかに激変しているかを考えさせられる。

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出典:https://diamond.jp/articles/-/217229?page=2

とにかく、今の都心部には、子供達が満足に遊べる環境が少ない。
「遊べない」
ことは、運動音痴な子供達を量産する、決定的な要因となる。

考えてもみてほしい。個人差こそあれ、男の子達は基本的に全員、
「外で遊び回って近所の窓を割って叱られ、時に溝にはまり、車に轢かれながら大きくなった」
時代があった。
ちょうど今の5〜60台の男性が該当するこの世代は、こと体力や柔軟性、筋持久力といった点では加齢による影響が顕著なものの、例えばキャッチボールや卓球、バレーボールの一部の動き等が、何でもそつなくこなせる方が非常に多い。

前職で自分が散々苦しめられた職場の運動大会(死)の際、休日を半強制的に潰される運命を呪いつつも、シニアの部で上司達が見せる円熟味ある動きの数々には感心したことを覚えている。(翻って、同年代の女性については該当例が少ないのは、「女の子が遊び回ることに制限や偏見があった」時代の影響があるのかもしれない、等と予想もする)

彼らが幼少期から遊びを通じて、各種コーディネーション能力を高めていた結果であろうと考える。

それを裏付ける調査結果も存在する。下図はNSCAジャパンが10年ほど前の総会で示した報告だが、昭和40年代~50年代半ばにかけて上昇傾向にあった青少年の体力が、それ以降は明確な減少に転じたことを示すものだ。特に投げる、走る、跳ぶ等の種目では、数値の低下が顕著だという。

体力


スポーツ庁が実施している体力・運動能力調査結果は、更にわかりやすい。面白かったのは高齢者の体力が、近年、過去最高値を更新し続けているという記事も、併せて見つかったことだ。何の皮肉か?という感じである。詳しくは下記リンクをご参照いただきたい。(画像は年次ごとの数値低下が顕著な、投力の記録)

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児童の体力上昇が顕著であったのは、昭和50年代中頃までという。この頃の日本と言えば、所謂バブル全盛期であった。
あらゆる土地に新たな家が建ち並んだだけでなく、ビデオテープの台頭や家庭用ゲーム機のシェア拡大が顕著だった時期である。子供1人にかけるコストが急激に高騰した時代でもあり、
「空き地で集まって缶蹴り」「裏山で木登り」「川で魚釣り」
等を禁じる家庭が急増していた。
自分はもう少し後の世代の生まれだが、それでも

「ごめん、今日塾だから」
「川へ行くのはうち禁止なんだ」

といったお断りを、複数名から聞かされたことを覚えている。(彼らはわかりやすく、有名私立中学へ進学していったのが象徴的だった)

結局、現在の問題は、先に挙げた①~④の要素を鑑みるとわかりやすい。

そもそも遊べる広(場所)がなく、
なかなか遊べる時がなく、
あれこれ遊びを楽しむ行(バリエーション)は失われ、

共に遊べる仲も減ってしまった、ということだ。

ここでようやく、遊びの延長としての「習い事」「スポーツ」をどう活用するか?という視点が生まれてくる訳だが……

続きは次回。脳内で文としてまとまった時に。

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