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想像力を働かせる、ということ

生き方の話をしよう。

さて……
note開設当初は、本当はもっと「取るに足らない」話を、ダラダラ綴っていければいいなと思っていた。しかしまあ、世の中あれこれ、暗い話題が多すぎる。ちゃんと文章としてアウトプットし、自分の中で感情の整理をつける必要があるテーマがこれだけ増えてしまったのは、痛し痒しという感じだ。

先日23日に入った、木村花さん(スターダム)訃報の報。これについてあれこれ考えたことの一部を羅列しておく。

過去の恥と経験と

幼少期の自分は、現実と空想の区別に、難儀していた記憶がある。
就学前後(5~7歳)ぐらいが、自分が明確に覚えている最初の記憶になる訳だが、いくつか思い出せる場面として

・ドラゴンボールZのアニメEDを見ながら、
「悟空はみんなが知っててすごいなぁ。悟空は自分の思った通りに強くなっていくけど、ぼくには無理だ。

悟空と違って側にいるのは父ちゃんや母ちゃんだけど、父ちゃんや母ちゃんのことはみんな知らない。なんでこんな顔をしてるんだろう。なんでこんな声をしてるんだろう。

わからない」

という感想を抱いたこと

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・自分が「ロケットになったと錯覚して」、小学校の廊下を猛ダッシュしている場面。

「第1エンジン点火!」ブッー(おなら)
「第2エンジン点火!!」ブッー(おなら)
「第3エンジン点火!!!」ブピッ(…………)

「あっ…………(沈黙と確認)」→教室へダッシュで戻って担任に

「エンジンが破損しました!急ぎ修理に向かいます!!!」

と言ってトイレに駆け込んだこと

の、2つが出てきた。
前者は長らく自分の中にあった感覚で、アニメーションのキャラクターの方が

「多くの人間がテレビを使った認識している=友達らと共通の話題として話も通じる=より多くの”認知”をもっている者は、リアルな存在」

という捉え方だ。自分は見知らぬ人に出会えば挨拶をしないといけないし、父親や母親の顔はどこの誰が用意したのか?現実に近くにいないと、確認できない存在なのでは?と考え、むしろ悟空らの方が確固たる存在に感じられていた。この時点で、「空想と現実の切り分けができていなかった」ことが伺える。

TVを通じて見えることは、全て現実のように捉えていた訳だ。

後者は、小学校1年生の2学期の出来事だったと記憶している。きっかけまでは覚えていなが、走りながら屁をする自分の姿が、どこかで見たロケットの切り離し場面とリンクしてしまったのだろう。その結果、手痛い代償(苦笑)を支払うことになったが、

「何かになったと思い込んで好き勝手行動すると、痛い目を見ることがある」

という、大きな教訓となったのは確かだ。

そこで、ふと考える。
今回、木村花さんが自死を選ぶ直接的なきっかけになったと言われている、数々の問題Tweetについて。これを発信していた人達は、どこかで

「これをやると痛い目を見る」

経験を積めていただろうか。
この場合の「痛い目」とは、
他人を傷つける、踏み越えてはいけない決定的なラインを学ぶ
ことを意味する。

失敗は成功の友と言う。では、失敗から学ぶ機会が、そもそもあったのだろうか。TVと現実の、区別はついていたのだろうか。

他人の痛みを知る機会

今思い返してみると、自分の人生は「他人の痛みについて考える」ことに関して、いくつも得難い機会に恵まれていたのだと実感できる。

例えば、小学校時代。学校からの帰り道、当時は知り合い程度だった女の子の自宅を訪れ、庭で彼女が大切にしていた(虫を飼育するプラケースを逆さにかぶせ、傷つかないようにしていた)ネジバナを見せてもらった際、
「大丈夫大丈夫!見せてみろって(笑)」
と根拠ない自信のもとにケースを取り上げる暴挙に出た。挙げ句、その花を折り、相手を泣かしてしまった。結局その後も謝ることができずに、負い目を抱えて生活することになった(謝れたのは半年以上も経ってからで、この時相手は、この出来事をすっかり忘れていた)。結果、

相手が大切にしている物は、簡単に手を出したり、粗末に扱ってはならない

ことを学んだ。それまで見たことのなかった彼女の泣き顔は、未だにしっかりと記憶の端に残って、一線を踏み越える危険な言動を取らないよう、絶えず自分を監視し続けている。

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その後、成長期を経て成人した後も、色々な場面で過ちを犯し続けてきた。
一時期、親交を育んでいた相手に

「とりあえずお友達でいましょう」

と言われた。それを絶縁宣言と思い込み、憤慨して別れを告げる、「若者あるある」の失敗を犯している。

実際にはこれは、「少しずつ互いを知り合いたい」というニュアンスの申し出だった。それだけ、自分の鼻息も荒く、不安にさせていたのだろうと思う。にも関わらず、一時の思い込みで、彼女には大きな迷惑をかけてしまうことになった。


彼女は、日本人ではなかった。大まかな日本語はわかるが、母国語→日本語への変換を経て会話している状態だった訳だ。

よって、言葉の端々に当然、細かい意味の確認が必要になる。だが、そこまで相手の立場を考えるに到れなかったことは、今もって自分の大きな瑕疵になっている。

「受け取る側は、発する相手の事情や立場を、"できる限界まで"考えること」

その重みを、骨の髄まで味わった一事だったと言える。

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多くの人に、辛い思いをさせてきた。
多くの人に、お世話になってきた。

自分が迷惑をかけてきた、あるいは大きな恩を受けてきた彼・彼女らの内、何人かには、もはや謝る術もない。消息が知れない相手も多数いるし、傷つけたまま別れた相手もいる。
生涯、直に「借り」を返すことは叶わなくなった訳だ。

自分にできることがあるとすれば、

「少しでも現在とこれから、付き合っていく人達に、できる限りの誠意をもって当たる」

以外にないと感じている。結局は自己満足の枠を出ることはないものだが、ほんのわずかでも世界が柔らかくなって、目に見えない部分で誰かに届けば……と、そんなことを夢想する。少なくともそれが基本スタンスになってからは、誰かと衝突したり、敬遠されたりすることが、大幅に減ったことは事実だ。

原罪を告白するような心地で、あまり思い出したくないことも書いてきた。
一方で、大なり小なり罪を重ねる中で、昔よりはましな人間になったかもしれない、そんな実感も得ている。

失敗を通じ、学ばせてもらってきた、自分の幸運に感謝してやまない。

サイコパスか。鎮痛行為か

その上で、想像力を働かせてみる。

Twitter上で、木村花さんへ向けて発せられた誹謗中傷、罵詈雑言の数々は、本当に凶悪なものだった。内容は、極めて悪質そのもの。自分が目にしたのは、あくまでそのうちの極一部なのだから、彼女の受けた苦しみは、想像を絶するに余りある。

無念さと悔しさと共に、どうしても考えずにいられないことがある。

「何故”彼ら”は、こうも残酷な言葉を、平気で彼女にぶつけてしまえるのか?何がそれを可能にするのか?」

だ。
いくつかの可能性が、頭に浮かぶ。

・誹謗中傷、罵詈雑言がそもそも趣味、もしくは“性癖”だった
・誹謗中傷爆増の直接的な原因となった、彼女の出演番組である「テラスハウス」内の人物像、本当のことと捉えてしまった
・上記を受け、「こんな外道は、相応の言葉をもって罰せられるべきである」という、認知の歪みが発生。言葉を凶器とした殺傷行為を自己容認した (参考 認知の歪み
・もしくは、「アカウントの奥に生身の人間がいる」ことへの自覚、相手が無限に傷ついていく可能性について、悪戯なまでに無自覚だった
・著名人である「木村花」は誹謗中傷、罵詈雑言の対象としても、“有名税”の対価として甘んじて受け入れて然るべき、的な認識があった
・自身と異なり、多くの人から羨望と人気を集めた、花さんへの嫉妬や逆恨みがあった
・自身がかつて経験した対人関係における傷・痛みの報復先として、木村花を生贄に選出した

……何をどう考えても救いがない。

これは完全な私見だが、「他人を傷つける行為に踏み切れてしまう」人間は、大きく2つのパターンに分けられると考える。

1つは、他人を傷つける行為そのものに快感を見出している場合。
もう1つは、他人を傷つけることでしか自分を癒せない場合。

前者は純粋な快楽の追求だ。いくつかの欲求と社会倫理のバランスを崩した場合に起こり得る、言ってみればサイコパスの一種である。
一方、後者は

・正義感の暴走(私的断罪による自己肯定)
・自身の精神的瑕疵に対する鎮痛。他人を自身と同じ、もしくは自分よりも「不幸」な状態にすることで、満足感や安心感を得る心理
・自己肯定感の獲得手段。「言い返してこない」相手を一方的に嬲ることで、自身が相手よりも上位の存在であると自己認識するための行為

等が挙げられる。総じて、メンタルヘルスの一種と考えている。そこには経済的問題、社会的問題、生育的問題等、人によって千差万別、多種多様な問題が絡んでおり、特定の手法・対策で解決できるものではない。

よって、一部の著名人が唱えていた

「そんなことより自己研鑽だ。自己研鑽に勤しんでいれば、誹謗中傷する必要なんかなくなる」
「弱い人を攻撃するべきじゃない。攻撃していいのは強い人間だ、自分のような」

のような弁は、ある面では頷けるものの、解決策として正しくないと感じる。

「自分が理想通りの自分には、とてもなり得ないことに気付いてしまったから」

「努力と成長のレースに疲れ果てて、膝をついてしまった自分が耐えきれないから」

「明らかに目に見えてダメージを受け、傷ついてくれる相手だから」

「自分から断罪されるに、相応しい対象であるから」

そんな確信をもって、彼らは花さんに牙を突き立ていた気がしてならないからだ。

労働や家庭という名の自己実現を果たしつつ、時間を捻出しては娯楽や生きがい、成長を楽しむ余裕があれば、確かに誹謗中傷に割く時間などなくなるだろう(例外はサイコパスぐらいだ)。そもそも、赤の他人に対し、そこまで興味関心を割く必要がなくなるからだ。

だが、テラスハウスを視聴して憤りを覚えていた人達は、多くは
「『自分』が頭打ちになった結果、他人に執心することになった」
のではないか。花さんに寄せられていた、呪詛に満ちたTweetからはそんな印象を受けた。

想像力を働かせられる人を育てる

これ以上は話が拡がり過ぎる予感がするので、無理矢理にでも今、思っていることをまとめておく。

想像力を働かせられる「社会を作る」のは、現実的に不可能だろう。どうしても、例外は出てしまう。これ以上、あれもこれもと理想に拘泥した絵空事に時間をかけ、犠牲者を負やすことは許し難い。最終的な目標はともかく、短中期的目標としては不適切だ。

ならばせめて、想像力を働かせられる「人間を1人でも多く」育てたいと、そんなことを思う。

そのためのコーチングやメンタルケアの方法、スポーツを通じた自己実現と、それに伴う自己肯定感の伸長。喜びや痛みを共有することを願う人達が、それぞれにできることを、地道に続けていくしかないのか、等と考える。

多くの人達に、自分は救われてきた。
いくら恩を世に還元しようとしても、彼・彼女らには届かない可能性の方が高い。
それでも、誠意ある生き方をしなければ、それこそ恩を仇で返すことになる。
そんな生き方は耐えられない。そういう感情が、今の自分を支えてくれている。

これを読んでくださった皆さんは、過去、どのような経験を積まれてきたのだろうか。
そして、この問題について、何を思うのだろうか。

自分にできる限界まで、想像力を働かせて、思いを馳せている。

<了>

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