写真の音
こんばんは、薄明です。今日は何故かいくつも詩とも俳句ともつかぬものを生み出しました。筆が乗っていたように思います。そういう日もあります。さておき、今日は物を見るときの(私の)感じ方の話の続きをしたいと思います。いつも通りわけのわからないことをいいます。(写真にいいねをくださった嶋津亮太さんが開催されている「#教養のエチュード賞」に参加しています。賞はさておき、写真を見て下さっている嶋津さんに読んでもらえるらしいのでそれだけでもありがたいです。)
写真に音はあるか
ところで写真というものの構成要素は、一般的にはビジュアル面のみと言っていいと思います。しかし、鑑賞者は時として、それ以外のものを感じることがあります。例えば音、匂い、温度、人によっては味なんかもあるでしょう(共感覚)。例えばアナログで描かれた絵にはその質感があり、存在があり、時として画材の匂いもあり、(触れれば感じられるであろう)その手触りを感じることもあります。しかし、ディスプレイやスマホで見たその写真からそういったものを感じることはあるのでしょうか。私は共感覚というものを肯定認識しているというベースの考え方はありますが、やはり鑑賞者の心に何か感覚を想起させる(言ってみれば感覚の誤動作?)ものは存在すると考えます。
匂いや味、触覚に関しては挙げた中ではかなり感覚の深部にあるものと考えますので、今回は脇に置いておいて、『音』です。写真を見て音を感じるか。音が存在するか。もちろんすべてのビジュアルに対して音が想起されていては、日常生活が成り立たないと思いますので、鑑賞行為の中で自分の内部に響くものがあり、そこに音があったかという意味です。
写真の音は自分の音
自然の音、生活音、都市の音…風の音、草の音、波の音、砂利を踏む音、乾いた枝を踏み折る音、鳥の声、虫の声、雨の音、雨樋から落ちる滴の音、濡れたアスファルトを走る車の音、電車の音、遠くの学校のグラウンドの声、どこかのピアノの音、人の声、雑踏、駅の音、足音、アナウンス…もしあなたが日常のスナップを、いろんな場所で撮る人間であれば、いかにいろんな音に囲まれて写真を撮っているかわかると思います。
鑑賞者は、写真をみてそれらを受け取ることがある。写真に写っているのか?いや、音は写っていない。けれど、写っているものを観て、鑑賞者の内部で記憶されていた音が再生される。イメージの共有化(結びつけ)。自身の体験もしくは知識による音の再生によって、より写真に『自分がなじみやすい』ように味付けをしながら鑑賞している。咀嚼している。
その一方で、自分の解釈(すなわち味付け)をしないようにしないようにと意識しながら鑑賞する人もいる。私も時折そうやって鑑賞します。自分の解釈だけで作品を食することが、作家に対して失礼ではという怖れからです。
ちなみに音楽的な素養のある方は、写真から音楽を感じることもあるといいます。私には声や音楽は聞こえませんが、感じるものの多くは自然の音です。私が都市部で生活していないので、ストリートスナップもどこか無音で静止しているように感じられることが多いです。
私の写真について、ここ何か月かの間に感想を頂いた中で多かったのは、「落ち着いた」「静けさを感じる」といったことです。「感じた」ということは、その写真から何かしら想起している。何かしら、いや「静けさ」と言っている。静寂という音を受け取っておられるのだと解釈しています。私自身が好む静けさが、届いていればいいなと思います。
目に見える音と相対する
さっき音は写らないと言いましたが、先ほどの話とはまた違った要素としての音は存在します。人によってはそれを雑音(ノイズ)と呼ぶかもしれません。煩わしく感じるかどうかは、受け手の感覚によるところが大きいので、良い悪いの話ではありません。しかし、ひとつの画に対しての気持ち良さというものを感じる際、その感覚の網目を細かくしていったときに、ひっかかってしまうポイント(その、小さな音)が出てくる時があります。それが、その人にとっての雑音、音です。自分の感覚とのギャップから生じる音と言ってもいい。
自分の作品に対してであれば、それはより自分を洗練する切欠になるので良い気付きだと思います。他者のそれが気になったとしても、私自身の考えとしてはそれはその当人の作った何かしらの意図として読むようにしています。そこで正しく批評できる人は、講評などできる人なのでしょう。私はそのような意識も立場もないので、自分が気に入るか気に入らないかという一点のみで鑑賞します。
写真の他者からの評価ということで思い悩む人は、私を含めSNSというものに関わっている以上、SNS自体が人々の関係性そのものでありますから、その問題に突き当たることが多かろうと思います。もし写真を自己表現としてとらえているが突き抜けきれないという人は、どこまでも傲慢に自分自身の写真が最高だと、好きになってください。自分の感覚で生み出された我が子(写真)はあなたにとって、共に育っていく大事な存在であってほしいと思います。
最後に
三つ目の音、自分の写真の音をきいてください。声かもしれない。それが自分の写真の歩いている方向かもしれませんので。私はことばと写真と共に歩みたいと思います。誰からも理解されなくても、少なくともことばと歩むことを決めたのは曲げてはおりません。自分の腹の底にあるやもしれぬ、外から降って来るやもしれぬ。
そこまで重く写真というものと付き合うつもりはない、という認識であれば、それはそれです。どこかで何度も繰り返しておりますように、自分とそれとの付き合い方は他者の関係性とは無関係です。なんにせよ、無理なく、楽しくいきたいものです。
それでは、よき写真生活を。
追記(2019/11/11 教養のエチュード賞の結果発表のあとで)
本日、教養のエチュード賞の結果発表があり、入賞作品などが発表されました。私のこのnoteは入賞はしませんでしたが、その後発表された20選に挙げていただきました。びっくりしましたが、とても嬉しいです。(ただ、応募時に書いているように、嶋津さん本人が読んでくださり、その後Twitterでコメントもそれぞれくださるという丁寧なご対応で、正直私自身のゴールは達成していたようです)
あらためてnoteを書き起こすのも、と思ったので、本noteに追記という形で記録しておきます。
ちなみに投稿時Twitterでは、
とご紹介いただきました。賞について発表されてすぐにそのとき書きたかったことを書いて、そのまま応募したので一番早かったようです。
そして20選の発表のnoteがこちらでした。
1番目に私のnoteが以下のように紹介されています。
写真家の薄明さんによる記念すべき最初の応募作品です。
写真から感じる「音」について。ヴィジュアルが奏でるメロディやアンビエント。鑑賞において、自分の中に湧き起こるもの。つまり、つくり手のクリエーションと受け手のクリエーションが交わった時に、身体的な感覚へと結びつけることができるか。美しい写真と呼応するような論理的な言葉に惹きつけられます。表現のヒントが散りばめられた珠玉の作品です。
応募作品すべてを3回以上読んで、それぞれコメントや感想を送ってくださったそうです。お仕事でもない、個人的な取り組みの中で、色んな人のいろんな想いが書き込められたひとつひとつに、真摯に向き合ってご自身の言葉を下さる、これはなかなか出来ることではありません。参加してよかったと、本当に思いました。
これを投稿したあと、やはり写真に関するnoteをいくつか書いたりして、中には編集部おすすめに選んでいただいたものもあったりしたので、応募作品を替えたほうがいいのかなと思いましたが、一度送ったものを差し替えたり、書き直したりするのも自分の中では少し違うかなという考えに至り、そのまま結果を待ちました。入賞された作品も、同じく入選された作品も、応募された作品それぞれが言ってみればテーマ自由ゆえのてんでばらばら、いかに広く多くの視点と思いがあることか。
言葉はままならないものですが、こうして一つのつながりの形をつくってくれる、大事なものです。写真もまた、言葉の形のひとつとして、寄り添っていけたらと思います。