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自由律独りしりとりが楽しい

こんにちは、薄明です。間違っていなければ、これが50本目のnoteとなります。だからといって特別なことはないのですが、9月から書き始めてもうすぐ一年になるのだなあと…のんびり続けられております。

最近、Twitterでサブアカウントを作りました。

「薄暮」(はくぼ)といいます。創作名で姓名を登録するときに、「薄明」だけだと弾かれたりするので、「薄明 薄暮」と入力したりしていたので、そこから引っ張ってきました。ちなみに意味は

ハクボ【薄暮】 夕方、暗くなりかかりのころ。夕ぐれ。たそがれ。
(新潮現代国語辞典第二版より)

です。ついでに書いておくと、薄明は

ハクメイ【薄明】 日の出前、又は日没後しばらくの間あかるいこと。うすあかり。
(新潮現代国語辞典第二版より)

です。どちらも好きな時間と暗さです。

周りの写真系アカウントの方たちのサブアカウントというのは、大体はおしゃべり中心のものであったり、あるいは逆に一切喋らずひたすら写真だけアップするか、特定のコンセプトの写真だけで運用しているなどだと思います。私もネタ系アカウントとして立ち上げて、ネタが尽きた後無言でフェードアウトしそうな気がしていたのですが、ある遊び(遊びといってもいい加減な遊びではありませんが)を思いついたので、しばらく続けられています。

アカウント名は薄明と同じでもよかったのですが、最初ネタ系ネームで「薄米」にしていました。(翌日「薄暮」に変更) そして最初に「勢いでサブアカを作ったものの何を呟くの」と呟いて手が止まってしまいました。そんな面白い日常ネタがあるわけでもない。じゃあやっぱり写真か?いや、写真はほとんど余さず薄明でアップしている。となると何か特定のルールに則ったつぶやきか写真…中判写真だけならtumblrで既にやっている。と、ふと思いつきました。

「しりとりでもやってみよう、ひとりで」

しりとりをやるとはいっても、単語でしりとりを続けていくくらいでもよかったものの、写真だけでしりとりというのも考えました。しかし写真だけでしりとりをしても、見てもわかりづらい。私自身も時間がたったらわからないかもしれない。

じゃあ短歌で? いや、歌をつくるのはあまり得意ではない。私の詩はもっとゆるいものだし、かといって詩でしりとりをすると語尾が定まりがちで苦しくなりそうでした。じゃあ短歌と詩の間をとって、自由律短歌、いや短歌でなくてもいい、いつもの自分の詩とはまた違った形態でやってみるのもよいなという結論になったのでした。結果、「自由律 独りしりとり」

これが縛りがあるようでないようで、おもしろい。

先述の自分の最初のツイートの最後の音が「の」からスタートしました。あとは自分が思いついた自由律(詩)の最後の音で繋いでゆけばよい。ただし私の詩は句読点はつけたりつけなかったりするし、ことばの区切りはある程度表現としても存在しているけれど、今回はそれもなしにする。歌集なども句切りはないのでそれに倣う。とりあえず書いてみて、適当に再掲載の写真でもつけてみよう、そして無理にはやらない、という超ゆるルール。あまりきっちり決めすぎると面倒になって辞める確率が高いので。

「の」から「ひ」。ここから「日をなぞるレンズの隙間から咲く花」「何を送るのか何を悼むのかたたずむ河」「忘れがちな私たちの街に適合する枠枠」などと続いていきます。

以下、非連続ですがいくつかピックアップしました。

今のところ毎日最低1ツイート程度で30余り続いています。ある程度まとまったら冊子(薄明詩集)にまとめる予定です。前回のフォトブックは多くの方に手に取っていただけて嬉しかったですが、こちらは写真より詩がメインの内容…5,6部頒布できたらラッキー。

ただ、先述の通り「写真に合わせて詩を書いている」のではなく、詩だけでいいけれどなんとなく目に留まった過去の写真を添えている、ということから、どうしても内容と写真から受ける印象のズレを感じる人は多いだろうなあと思います。そのあたりをどうしようか思案しています。

内容ですが、最初の頃は自由律とはいってもやや定型詩寄りのことばづくりであったように思いますが、やはりその時の心情に引っ張られてずるずると書いてしまっています。

先ほどの最後に貼ったものも、吐き出すように書き連ねたそのままという感じです。これに関しては数人から引用RTで感想を頂戴して嬉しいです。それと同時に「自分のことばづくりにおけるルール」と「中に含まれるメンタリティとその表現」が、他人の中で異なったひびきや音となって感受され、何かしらの思いをさざ波立たせることとなったのは、ほんとうにおもしろいことです。(そして中には不愉快に感じた人もいることでしょう、そういうものです)

句読点が存在しないことから、私の考えることばの区切りはもしかしたら読み手によって異なるかもしれない。ことばの流れのはやさも違うかもしれない。そして答え合わせは全く必要ありません。

人によってはただの「しりとり」です。でもある人によってはそれがただのことばの繋がりではないかもしれない。私も遊びとはいっても、ひとつひとつは大真面目に書いています。誰のために?私のためです。私に向けて書いている。そしてそれを見た人が、もし何かしら共鳴するものを持っていたならば、それは私と近しい領域を共有できる何かがあるのかもしれませんし、それが私にとっては嬉しいことです。

飽きたらやめるかもしれませんが、これもまた私のひとつのことばとの向き合い方の一側面として楽しんでいきたいと思います。お読みいただきありがとうございました。しりとりって意外と楽しいね!(気を付けているのは最後の音があまり同じものばかりにならないようにしていることです!自分の頭を苦しめてしまうからね!)

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