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私が写真を撮るべき理由に思い至ったのは、初めてだった

私は人の顔を覚えるのが苦手だ、というのは長い間の悩みでもあり、諦めでもある。

とはいえ、日常生活に本当に支障をきたすほどではない。毎日顔を合わせていれば覚えていられる。けれど、そうでない人も覚えている場合がある。それを単なる個人の思い入れと片付けるには、私は釈然としないものを抱えていたのだった。


ところが、ふと今日書き留めた詩案から、ひとつの着想を得た。

それこそ単純で、先述の理由に近いものであったが、要するに私にとって「生きて動いている人間の表情というものは流動的すぎて記憶に捉えられない」(もう少し正確に言うと、顔として認識はするが、その細部を記憶に留めることが難しい。脳内に再生しようとしてもちらちらと激しく点滅して定まらない)が、「写真や静止画のように、止まっている顔は記憶しやすい」ということだった。静止画を何度も何度も見返して、その表情をその人のものとして私は記憶しているのだ。

色んな人の写真をSNSや写真集、街中の印刷物などで見る。動画や直接見ているだけでは覚えにくい。静止画、こと私のフォローしている方々は写真を撮るか、撮られるかの人が多い。その顔を繰り返し見ていることで、かろうじて顔を記憶していっている。


そして思った。私は人を撮ることが苦手で、怖い。私が撮った写真では喜ばれないのではという恐怖。レンズを通して見られていることの恐怖。これらの理由からあまり人を撮ってきていない。が、私の記憶の中で刻一刻と融けて行ってしまう人々の顔を、少しでも繋ぎとめるためには――逆に、撮るべきなのではないか。義務ではないにせよ。


思い出を残すため、という言葉にも至らない。私はなんと不完全な人間なのだろうと思う。記憶は変わっていってしまう。私が撮ろうとして撮れなかった人たち。消えていってしまう人たち。いや、私だけではないか。誰もが、少しずつ記憶を零していっているのか。それなのにどうして、どうして皆まともに普通で居られるのだろう。

怖くとも撮った方がいい、と私は言う。せめて肉親くらいは。私が私自身を記憶するために、どうしたら写真に残るだろう。そもそも、写真に残すのが適切なのかどうか。


これらの書き殴りは、私自身や私の問題のすべてを書き記したわけではない。しかしながら、何かしら気づきのとっかかりを得たので書き残しておきたいと思う。付属した写真に関連した意味はない。

私が写真を撮る理由を考えたことはあったが、私が写真を撮るべき理由に思い至ったのは、初めてだった。


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