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私の美意識はどこからやってきたのか

こんにちは、薄明です。嶋津亮太さんの「第三回教養のエチュード賞」が開催され、応募締め切りが今月中ということでまた書いてみたくなりました。しかし書きたいことのまとまりがつかないので、即興劇の名の通り思いつくままに書いていきたいと思います。

一般論のお話ではなく、例によって自分自身の内面の掘り下げなので、こういう人もいるのだなというくらいで読んで下さるとありがたいです。

私たちは見るもの感じるものに対して、美しさという個々の指標を持っています。一般的に「美意識」や「美的感覚」と呼ばれるようなものです。

辞書で「美意識」を引くと、

【美意識】美を美として感じ取る感覚。(新明解国語辞典第七版)
【美意識】美に関する意識。美に対する感覚・態度。(岩波国語辞典第七版新版)
【美意識】美を感得する意識。美醜を判別する意識。(新潮現代国語辞典第二版)

とあります。何をもって美とするかは、それぞれ個人個人の感覚によるものなので、辞書から美意識の具体的なものを読み取ることはできません。私の趣味は写真や詩、文字なのでベースとしてはそのあたりにはなるのですが、実際のところこの「美意識」というものは、個々人の内的および外的「世界への態度」というものだと考えています。そして「自分が美と感じるものへの感応性」です。

「美意識」ということばは日本語の中では割と行動そのものに対して持っているかどうかを判断されるものですが、私はどちらかというとその人の美に対する感性という意味に重きを置いていますので、今回はそういう方面に話は絞られます。(なので以降「美意識」という単語は、個人の持つ美への感性の傾向や感応性を指しています)

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自分の中の美意識によって、いいなと思うものであったり、自分自身が作り上げていくもののテイストが方向づけられていきます。正確に言うとその美意識の通りになるわけではなくて、それ以外の短期的に会得した情報や感覚、練られた思考が結果に影響を及ぼしていきます。

まずは自分自身が見る方から考えてみます。題材は絵画でも彫刻でも工業製品でもティッシュでも葉っぱでも生物でも人間でもなんでもいいのですが、私がとりあげる題材は大抵写真ですので、写真を見ることにします。ので、主として論じるのは「視覚的感覚」となります。

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写真の鑑賞は私は二通りあると思っています。ひとつは写真を見て、直感的に受け取っていいなと思う、美しいなと思うこと。もうひとつは、写真のつくり、バックグラウンドを読み解いていき、その作品の前後を含めて評価すること。ここで私が言う美意識は当然どちらにも及ぶ話ではあるのですが、前者の方を取り扱おうと思います。(ちなみにどちらが優れた感覚・評価方法かという考えはありません)

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個人的に前者と後者の違いは、能動的か受動的か、そしてその精度だと考えています。見た写真がきらびやかで華やかであるかとはまったく別の基準で、直感的にいいと見た瞬間に思うのは、美意識の受動的な感受性の部分です。対して後者の読解力はその画面やバックグラウンド、そこにいる作者に至るまで能動的に探り、潜ってゆかねばなりません。そして対している作品へ切り開き、かき分けて進んでゆく力が必要です。

ここで思うのは、私の言う美意識がより深くかかわっているのは前者の方で、後者はそこから芽を出し育って枝葉を伸ばしていくより後天的な感覚だなということです。

では美意識は先天的なものなのか?

美意識の基準は先天的なのか後天的なのか

私としては、この美の基準のようなものは後天的に習得する部分が大きいと考えています。学術的な根拠があるわけではありませんが、やはり生まれ育ってくる環境の中で、どんなものを見てきたか、どんな体験をしてきたかが、その人が何に美を見出すのか(美意識)を形作っていっていると思います。

なにも高名な画家の作品や写真、作品を見ないとそれが育たないというわけではありません。道端の花や自然から、そこに生まれている美しい比率や色、形などを感じ取ることもあるでしょうし、人工物や建造物に同じように美を学び取ることもあるでしょう。

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そしてこれらはビジュアルのことを主に言っていますが、私の考える美意識はことば、しぐさ、行動、対人・対物コミュニケーション、生活習慣、衣類、設え、住まい、音感、温度感、味覚、匂いなどあらゆるものに及びます。言語的コミュニケーションも非言語的コミュニケーションも。

それらがそれぞれの人に存在しています。

経験が美を成している。ただ膨大な経験を、どうやって美を感じ取るセンサに持っていくのか。

私の美意識はどこからやってきたか

私の場合、表装(掛け軸や屏風、襖、障子など)を修繕したり仕立てたりする表具師という職人の家系に生まれました。代々の願いを蹴って私はいま別業種の仕事をしていますが、成人するまでは継ぐことを前提として育てられましたので、私の好むと好まざるに関わらず、表装に関するものは目にしてきたようです。

小さなころから父に連れられ作品を納品しにいったり、もちろん普段から家での遊び場は職人の仕事場(で、いらない紙に絵を描いてすごしていました)。私自身は書道も絵画もやったことはありませんが、持ち込まれる書作品や日本画など、自分が好きとは思わなくてもずっと目にしてきました。父も日本画が好きなのか、たびたび美術館へ連れて行っていたように思います。

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しかし私はこれらの美術的に恵まれた環境にいながら、能動的な興味はほとんど内から発生していませんでした。面白味を感じない。美しく描かれている(書かれている)ことはわかる。当時は嫌々ついていっていたこともあったろうと思います。行ってもただぼけっと眺めて過ごしていました。

けれども私の写真の構図を無意識に支えているのが、なんとなくこの幼少の頃の日本画を見ていた経験だったのではないかと、今になっては思うのです。自分の感動が存在しなくても、単純に洗練された作品をたくさん目にすることは、自分の目を通してつくる写真というものにも影響があるのだと思います。私が日本画の構図を写真に落とし込んでいるわけではないですが、日本画や掛け軸を見て落ち着く静かな心地よさの余白のようなものを、写真でも求めがちな気がします。

それで何も日本画をたくさん見よという意味ではなくて、色んな作者の視点や、美だと主張するもの――もちろん写真も含め――を目にしていくことで養われるものがあるのではないか、ということです。そのまま得るだけでなく、それまで自分が持っているものとの対比、融合、影響しあうこと、そして「対話すること」。

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個人的にはそこに「これは私は美しい・気持ちいい」と感じるものがあれば、なおさら自分に対する影響力は大きいだろうと思います。そして「自分が何を見て好きや気持ちよさを感じるか」ということを、感得していくと考えています。

※ちなみにフォローしておくと、今は日本画や表装など見るのが楽しいです。いつから、なぜ楽しく感じられるようになったかはわかりませんが、実家を離れたことが大きいのかもしれません。自分が継ぐべき職業と作品が強く結びつきすぎて、作品と正対できないでいたのかもしれません。今はいつも言っているようにひたすら自分という存在を探るように、掘り当てるように向き合い、そして外の世界を見ています。自分の奥に存在する美への感応をもとめて。

感性という土壌と、種と花

私たちの感性は土のようなもので、いわば土壌や畑というように言い表していいと思います。そこに種や花を植えたりするのですが、種から時間をかけて根付くようなものもあれば、咲いている間だけそこにあって、短期間で枯れてしまうものもあります。もちろん種であろうが花であろうが、土と相性が悪く、合わないものもあります。

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花はすでに色づいていて、自分の畑や花壇に植える前から美しい、他の人もいいね、綺麗だねと言っています。そのまま自分の花壇を飾ってくれたら華やかです。種から育てたとしても、結果的に同じ花が咲くかもしれない。咲かないかもしれない。感性は現実の花そのものではない。自分に根付いていく過程で、自分の好きなものが形作られて美意識としてあなたの花壇を彩ってくれるかもしれない。その色がたとえ、周りの誰もが目を向けるようなものではなかったとしても、自分が好きなものとして育ったのであれば、大事にしてほしいと思います。華やかで煌びやかなものも一つの色で、そうでなかったとしても一つの色です。お互いに対等な色という存在です。

具体的に自分で言い表せるとも限らない。自然と自分の育った環境から、好きなものの傾向が作られる場合もあります。いま「自分が好きなものがわからない」「自分らしい写真というものがわからない」と思っていたとしても、きっと根っこの方には、自分の感応するものが眠っていると思います。あとは自分で色んなパターンを試してそれを探し当てるか、いろんな人の作品を見て探し当てるかだと思います。

自分が美しいと思うものを自分の手で作り上げることは、また別の難しい過程を経ていきますので、今回はあくまで「感じる」部分、「美への感応する」部分にとどめたいと思います。

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いまこの年になっても、自分が好みであるかどうかはさておき、いろんなものを見て行った方がいいなと思うのは、上に書いたような理由からです。人は年を取ると積極性が落ちていきがちです。全員がとはいいません。けれど、それが老いるということなのだと思っています。好奇心が低下し、単純化していく。必然的に感応する幅は狭まっていってしまうのではと思っています。もちろん一部に深化していく人もおられますが。

自分がこれからどのようなものに感応するのか、それは写真だけにとどまらず、自然もひとも人工物も、ことばも現象そのものも、出来ることなら自分自身に興味と好奇心をもって掘り進んでいきたいと思うのです。

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美意識にかかわる一節でした。もっといろんな分野にこの美への感応性は存在していて、話せることはありそうなのですが、今回はこのあたりで失礼します。これを読んだ人が自分自身の好きなものを少しでも多く見つけられますように。

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