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ペスカタリアンという生き方

小学生の頃、運動会のお弁当には必ず鶏の唐揚げが入っていた。大好物だった。今では信じられない。
どうして信じられないのか、頭の整理がてらここに綴っていきたい。



突然なようで当然の決断


高校1年の冬、環境問題に関心を持ったのをきっかけに肉食をやめた。きっかり食べなくなったのではなくて、だんだんフェードアウトしていったというほうが正しい。

(厳密には、ベジタリアンの中でも"Pescetarian(ペスカタリアン)"食生活である。肉は食べないが、魚・卵・乳製品は食べる。全然食べている。)

ベジタリアン生活を始めてから、うどんとかそばを食べる機会が急増 :)

環境問題に強く関心を抱き始めてから、工業畜産の情報を次から次へと見続けた。ヴィーガン(完全菜食)を実践している人の発信も追った。告発映像を見ては涙した。工業畜産が地球に与えるダメージは当然のこと、動物好きの私には何よりその飼育環境・家畜の扱いがショックだった。誰も何も思わないのか。率直なその問いは、そのまま自分に刺さってくる。

家畜は、肉になるためだけに育てられる。よくよく考えると残酷だ。その残酷性に気がつかないくらい、社会は麻痺していると思う。私も麻痺していた。

彼らは人間社会の大きなシステムの中で、食料として切り捨てられる。スーパーに並んでいると、そんなことは微塵も考えられない。パックに詰められている肉片を見ても何も思わない。

「家畜は食べられるために生まれてきたんだから。」こんな言い訳を、自分はこれからも続けていくんだろうか。いや、できない。少なくとも自分の中で答えが出るまでは。だから、私は肉食をやめた。

親戚や友人には驚かれるけれど、自分の中では割と自然な変化だった。「自分、どこまでできるかやってみな」という感覚かな。

人生の軸に据えられたもの


横浜の気候変動対策を訴える若者ムーブメントに参加して、理想の自分と現実とのギャップに頭を抱えていた時、「できることから」というフレーズに随分心を救われた。「知識がなくても、やりながら知っていけばいい」

何かしたくてうずうずしていた私にとって、肉食をやめることは1番手っ取り早い方法だった。日常から環境問題を意識して生活すること、これが自分の生き方の軸になった。それまで何を考えていつも生きていたのか分からない。今は、時々無力感に飲み込まれたり遠回りをしている気持ちになることもあるが、過去の自分とは価値観も思考回路もやっぱり違う。

根掘り葉掘り聞いていいよ


「なんで?」と理由を問われて、すぐにパッと答えられない自分が不甲斐ない。確かに「環境保護」「動物愛護」の観点からの行動ではあるものの、四字熟語で伝えられるほど問題は簡単でもなくて、かと言ってそれをすべて説明できる自信もない。目の前にある食べ物を「ペスカタリアンだから。」と言って粗末にすることもしたくない。だから、出されたものは食べるスタンスでいる。

「なんで菜食?」と聞かれるといつもいつもこの葛藤が頭でなされる。うーん、あーでもないこーでもない。それで結局、曖昧なよく分からない返事をしてしまう。

「魚はどうなの?」とか「ジビエだったら?」とか、気になることを質問してくれると嬉しい :) 自分でもどこまで問題意識があって何を許容できるのか、分かっていない。人と話しながら比較して自分を知っていくプロセス、そこに時間はかかるものの、得られるものは大きいんじゃないかな。

恵まれた環境で

ペスカタリアン生活をしていると、本当にひとりではこんなこと続けられないと感じる。家族の協力も然り、周りの理解も然り。団体行動をしているとその難しさをひしひしと感じるが、今のところ、私の考えている以上に社会は寛容だ。頼めば何とかなる。すごく嬉しい。でも、同時に社会が初めからそういう選択を提供してくれればどれだけいいか想像する。

2月に訪れたフィリピンでのご飯。団体行動だったが、行く先々で別メニューで対応してくれた。

自分の人生の指針に何を据えるか、それをどう実現していくのか。そんなことを考えて、応援や支えを糧に前に進めることは特権的なこと。ふとそう思った。

肉を食べている人を軽蔑したり嫌いになったりしない。私が選んだ気候変動へのアクションがこうであっただけ。

私がペスカタリアンになったわけ、その後の葛藤が伝わったら嬉しい :)


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