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赤子と紙幣

友人の幼い息子が、私の財布から紙幣を不器用に持ち上げ、その柔らかく小さな口に放り込んだ。
邪性のない、おおらかな粘液の海に、乾き疲れた冬の木の葉が沈んでいく。私の膝に、彼の軽い重みが乗って、感動的に温かい。
友人は、一万円札を咥えた息子を叱っている。
言葉も通じないほど幼い子に、お金というものの価値を、物理的かつ概念的な、その深い汚れを、そして他人のものであるという所有の概念を、言葉にして浴びせている。
私はこの幼子の小さな頭から発せられる熱を感じながら、その言葉達の実感のなさ、重みのなさが妙に味わい深くなった。

「こんな紙きれ一つに、こうも一生懸命になれる、人間はくだらないね。」

思わず口をついて出た言葉に、毒性はなかった、と思いたい。
自分の耳へ入る自分の声、脳内で再度再生され、自分の発言であることを認識した、それは無意識の出来事だった。
友人は言葉を失っている、ように見える。
開閉を繰り返す友人の口から規則的に現れ、幼子の耳へと行進していた言語の群れは、まだ規則のない脳に幽閉されたのだろうか。
小さな子供の頭の檻に、葉っぱの兵士が捕まって、何か叫んでいる。
間抜けたカートゥーンでも見ているかのようだ。
とうとう立ち上がって、物理的に息子の口から一万円札を取り出し、私の膝から子を抱き上げた友人。
「まだ、そんなこと分かんないでしょ。」
その通りであるし、誤っている、と瞬時に言語が頭を飛び交った。
私の脳には、幼子の脳より言語を多く、乱雑に幽閉してあり、それら全て、私の好きなように改造を施してある。
自発的に作動する各言語たちは、外部の言語に対し、常にやや批判的であり、母体である私はその集合を出力したり、溜め込んだりする。

「だ」

立派な装備と武器を奪われた葉っぱの兵士が、素っ裸で赤子の檻から飛び出した。

「だ?」

反芻する私と友人、あまりに間抜けな言語は、私達の檻へと受け入れられないようだ。
その檻には、お金という共通のものが潜んでおり、こいつは綺麗な格好で、自由に檻を出入りできる模範的な言語である。
乱雑な檻と言語の母体である私は、こいつをあまり好いていない。
どこに行ったって同じように行動し、同じような顔で、同じような態度で、同じように扱われ、同じように帰ってくる。
こいつ、生き物のようでいて、生き物ではないのだ。
そんなどっちつかずで、自由気ままなこいつは、我々の中に住んでいる。


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