見出し画像

落語を迎えに行けない

落語を聴きに行ってるとたまに、面白くないなーと思うことがある。理由はいろいろ。
芸が未熟、噺自体がつまらない、噺や演者の感性が古い、私に知識が足りない、体調が悪い、などなど。
他にも会場が暑すぎるとか、隣の客がずっと喋ってるとか、集中できなくてつまらなくなることもいくらでもある。

こういうことは、映画でも博物館でも遊園地でも起こる。
けれどそういうとき、とくに落語に顕著に表れる感覚がある。
虚しさだ。

つまらないなーと思う落語を観ているとき、急に世界への熱が冷めていく。
どうしてここにいるんだろう。
どうしてこんなものに時間を使っているんだろうと、生きるエネルギーがしぼんでいくような感覚に襲われる。
なにかはわからないけど確実になにか損をしているような、たまらない気持ちになるのだ。
この感覚は落語や、ごく一部の博物館でも起こる。
人によって感覚は違うんだろうけど、少なくとも私はどんなにつまらない映画を見ても、こういう虚しさを感じたことはない。

話はすこし逸れる。
以前、恋人とディズニーランドに行ったときの話だ。
私はあまりディズニーランドに行きたいタイプではないんだけど、恋人が行きたいというので、まあいいかと約束した。
相手は忙しい人で、当日はディズニーランドの前で待ち合わせることになった。
私は待ち合わせ時間の少し前に着いた。
時間を過ぎても来ないので連絡してみたら、いま起きたという。
彼は鎌倉の方に住んでいたので、舞浜までどんなに急いでも2時間以上かかる。
チケットは彼が持っていたし、どこかの店でお茶するには感情がおさまり切らない。
私はディズニーの施設がよく見える駅前のベンチに座って、待った。
目の前をミッキーの形の窓をしたモノレールが通過していく。
一体何度ミッキーの小窓を見ただろう。
結局2時間半待ったあたりで、彼がめちゃくちゃ気まずそうに現れた。
2時間半も経てば感情は沈下する。
ぶつけるほどの怒りはもうないし、かといって不機嫌を隠せるわけでもないまま合流して入口のゲートを抜けると、すぐ目の前の広場にミッキーがいた。
正確にはミッキーの着ぐるみだけど、所謂ミッキーだ。
ディズニーも着ぐるみも特に好きではない私でも、園内でミッキーに会えるのが珍しいのは知っていた。
「わ!ミッキー!!!」
私のテンションはここでぶち上がり、小走りで写真を撮りに行った。
機嫌も一瞬でなおった。

この経験を落語の何と比較したいのかは、まだうまく言えない。
けれど落語とディズニーランドが、同じエンターテイメントというジャンルに分けられることを考えると、形容しがたい恐ろしさが湧きあがる。
私が単純だっただけとも言えるけど。

落語は100年以上続く伝統芸能だ。
同じ伝統芸能でも歌舞伎のように華やかな舞台も衣装もない。
座布団のうえにひとり、着物を着た人が座って話をするだけ。
大正時代から内容がほとんど変わってない話もたくさんあるし、現代ではきっとここでしか聴けない、ここにしか残ってない古い駄洒落を言ったりもする。
だからこそ一緒に空間を作るように、前のめりで観客側から迎えに行かないと入ってこないことがある。
もちろん4DXの映画にもディズニーのアトラクションにも負けない、魔法みたいな没入感で演じてくれる落語家もいる。

でもやっぱり、たまに虚しくなるときがある。
一部の博物館や、あと浪曲を聴きに行ったときにもあるこれは、たぶん構造の問題。皆さんにもこういうのないですか。

最近、知人が落語家人生を歩み出した。
私は聴く専門だから弟子入りすることはないけど、疑問に立ち止まらず世界に飛び込めるのっていいなと思った。
私は立ち止まってばかりだな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?