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【どうする家康】岡部大が演じる”ゆるキャラ”平岩親吉とは何者なのか?

NHK大河ドラマ『どうする家康』で、お笑いトリオ「ハナコ」の岡部大が扮している、平岩親吉。初回から登場しているが、岡部大が演じているため、「実在した人なのか?」や「どんな人だったのか?」と疑問を抱く人も多いだろう。

結論から言えば、徳川十六神将に挙げられるほどの重臣で、松平の頃から終生、徳川家の家臣であり続けた。

今回は、そんな平岩親吉の実像に迫っていく。

※トップ画像は『平岩親吉像』Wikipediaより

■生まれたときから家康と一緒だった幼馴染

平岩(七之助)親吉ちかよしは、平岩親重の次男として、三河国額田郡坂崎村(現在の愛知県額田郡幸田町坂崎)で誕生した。

平岩親吉の父である平岩親重は、徳川家康の高祖父にあたる松平長親の代から、松平家に仕えた人。さらに先代も松平家の家臣だった。

徳川家と家康以前の松平家の譜代ふだい……つまり古くからの家臣は、どの時期から家臣だったかにより、安城(安祥)譜代ふだい、岡崎譜代ふだい駿河するが譜代ふだいに区分される。だが平岩家が松平家に仕え始めたのは、家康の属す安祥松平の本家筋だった、岩津松平家の時代からの家臣……岩津譜代ふだいに属すとする歴史家もいる。やや曖昧な区分だが、家臣団の中で最古参の家の一つだったことは確実で、代々が松平家と苦楽をともにしたと言っていい。

さて、そんな平岩家に、七之助……平岩親吉ちかよしが生まれたのは天文11年(1542年)のこと。天文11年12月26日(寅年寅の日)の寅の刻に生まれた家康(幼名・竹千代)とは同い年なのだ。

そのためもあっただろう。家康が5歳(数え6歳)で今川氏の元へ人質として送られた時には、平岩(七之助)親吉ちかよしも、駿府へ小姓として付き従った(織田家での人質時代にも一緒だったとする人もいる)。

ドラマによっては、今川家の本拠である駿府の人質時代の家康は、孤独な少年として描かれることがある。だが、少なくとも駿府からは、平岩親吉が常に側にいた。家康にとっての平岩(七之助)親吉ちかよしは、単に重臣の息子というだけでなく、幼馴染……あるいは竹馬の友といった関係だったとしても、不思議はない。

■矢を受けて絶体絶命! その時に命を救ったのは!?

人質として、織田家で2年間を過ごした家康は、数え6歳の時に今川氏の本拠である駿府すんぷへと送られる。

人質とはいっても、極貧生活を強いられていた事実はない。むしろ三河の有力豪族の一人として、教育も受けさせられていた様子であるし、家康が数え14歳(1555年)で元服する際には静岡浅間神社で儀式を行い、今川義元が烏帽子親を務めつつ紅糸威べにいとおどし腹巻はらまきを授けている

そんな家康に付き従っていた同い年の平岩(七之助)親吉ちかよしも、おそらく家康同様に数え14歳前後で元服を済ませたはずだ。そして、その3年後の永禄元年(1558年)には、家康とともに寺部城の戦い初陣ういじんを果たしている。きっといくさの後には、家康とともに「あの時は、大変だったなぁ!」などと興奮気味に語り合ったことだろう。(ちなみに寺部城の戦いは、今川氏から離反して織田信長に付いた、鈴木氏がこもる寺部城を攻めたもの。戦いに勝利し、その後の鈴木氏は今川氏の元に復帰している)

そして数え19歳の永禄3年(1560年)に、二人の人生を一変させる事件が起こる。桶狭間おけはざまの戦いだ。

桶狭間合戦イメージ
今川方の松平元康(家康)は大高城へ兵糧入れした後に、織田方の丸根砦を攻撃して落とす。同時に鷲根砦も今川方が攻略。次の中島砦の攻略へ向かう。この頃に今川義元の本隊は、大高城へと向かうべく沓掛城を出立。だが、その前に手勢のみで清洲城を出た織田信長は、熱田神宮で家来を待ち、一気に鳴海城経由で善照寺砦、さらに、松平隊に攻めかけられている中島砦へ。だが今川義元が桶狭間に差し掛かると聞いて、織田信長は中島砦を飛び出し、桶狭間近辺にいた今川義元の本隊を急襲して義元の首級を挙げる

松平元康や平岩(七之助)親吉ちかよしなどの三河勢は、大高城への兵糧入れを成功させるものの、主家の今川義元は自刃。敗れた今川氏に付いていた松平元康や平岩(七之助)親吉ちかよしなどの三河勢は、そのまま駿府には戻らずに父祖の地である岡崎城へ、入城することになる。そして織田信長と和睦しつつ、三河平定に着手していくのだ。

そして永禄5年(1562年)、松平元康はついに今川氏から離反して、織田信長と清洲同盟を締結。三河平定を推し進めていく。だが、三河を順調に平定していくと思いきや、翌年の永禄6年(1563年)には、一向一揆が活発化。家臣からも松平から離反して一向衆側に付くものが現れ、三河平定の足かせとなっていく。

そんな一向衆との戦いで、もちろん平岩(七之助)親吉ちかよしは、松平元康(家康)の側近くで戦った。だが一向衆に付いた元家臣のかけい正重との合戦中に、平岩(七之助)親吉ちかよしは矢を射掛けられて倒れてしまう。かけい正重が平岩(七之助)親吉ちかよしの首を取ろうとすると(つまりは殺そうとすると)、必死で助けに来たのが松平元康(家康)だったという。

以上は、史実にもとづいた話なのかは不明。ただし、かけい正重も代々の松平家に仕えた家系で、平岩(七之助)親吉ちかよしらの19歳年上。この頃は、松平家の少なくない家臣が一向衆に合流していて、かけい正重も、その一人だったということ。Wikipediaには「(一向一揆での)小豆坂の戦いでは平岩親吉と矛を交えて手傷を負わせている」とあるので、上記の逸話は、その時の話を元にしていると思われる。ちなみに筧氏は、一向一揆の平定後には、松平家に帰参している。

■家康の長男の補佐役を務める

さて、竹馬の友である平岩(七之助)親吉ちかよしの、主君松平元康からの信頼は、篤いものだった。まだ桶狭間合戦の前、2人が18歳になると松平元康(家康)に、長男、のちの松平信康が誕生する。

松平元康(家康)は、さっそく平岩(七之助)親吉ちかよしに、傅役もりやくを命じます。「おれの息子を立派に育ててくれ! 期待しているぞ!」といった感じだったはず。まだ駿河するが駿府すんぷにいる時のことです。

それから2人は桶狭間の合戦、織田信長との清洲同盟、そして三河の平定を経ます。そして25歳の時に、松平元康は、代々の「松平」から「徳川」へと名を改める。まだ織田信長には頭の上がらない頃だったはずだが、この時に「天下を狙える」と思ったのかもしれない。

翌永禄10年(1567年)には、数え9歳の長男が、織田信長の娘(徳姫)と結婚。それからは織田信長とともに徳川家康も、怒涛の勢力拡大期に入っていく。織田信長は京へ進出するのと同時に、徳川家康は隣の遠江国へ進出。息子たちの婚儀の翌月には、浜松城へ拠点を移し、今川氏真を追いやっていく。そして遠江とおとうみ国を、1569年(28歳)に手中に収めた。

おそらく、この勢力拡大期から、徳川家康と平岩(七之助)親吉ちかよしは、めったに顔を合わせることがなくなったと考えられる。徳川家康は、どんどん東へ東へと駒を進めていく一方で、平岩(七之助)親吉ちかよしは、家康の長男、松平信康の傅役もりやくとして、岡崎城を守る役割を担っていただろう。岡崎は松平家代々の居城であるとともに、織田信長とつながっているための拠点でもあり、大事な場所だからだ。

だが1570年(29歳)になると、徳川家康は織田信長とともに浅井朝倉の同盟軍と戦う。また、松平(徳川または岡崎)信康が正式に岡崎城主となる。

織田信長が近畿一体の平定を急いでいる間に、あの武田信玄が、とうとう三河に食指を伸ばし始めた。そして、1572年(31歳)に三方ヶ原の合戦で、徳川家康は武田信玄に大敗する。この三方ヶ原の合戦当時も、松平信康は岡崎城を守っていた。そのため、平岩(七之助)親吉ちかよしも、岡崎城に居たと考えられる。

それから3年後。家康と平岩(七之助)親吉ちかよしが、34歳の1575年に起こった合戦が、長篠の合戦。甲斐かい国(山梨県)から南下してきた武田勝頼を、織田・徳川連合軍が打ち破った戦いだ。この時には、松平信康も一軍を率いて参戦。となれば、平岩(七之助)親吉ちかよしも近くにいた可能性は高い。

■辛い仕事が続く平岩(七之助)親吉ちかよし

長篠の合戦の大勝で、勢いづいたはずの徳川家。その一方で、このあたりから家族や家臣の間に、不和が多くなる。

まずは長篠の合戦の翌年、天正4年12月(1576年1月)に、平岩親吉は、信長の指示を受けた家康から、家康の叔父(母・於大の方の兄)である水野信元を誅殺するように言われる。水野信元といえば、家康を織田信長に引き合わせた功労者と言っていいだろう。

『どうする家康』で言えば、寺島進がハナコの岡部大に刺殺されるということだ。しかも場所は、桶狭間合戦後に、当時の松平元康(家康)が切腹しようとした地、大樹寺だという。「厭離穢土えんどえど 欣求浄土ごんぐじょうど(汚れた世を浄土にすることを目指せ)」の言葉を胸に歩むことを誓った場所でだ。

惨事は、それだけでは終わらない。

3年後の1579年には、平岩親吉が補佐役を務めてきた松平信康に、武田方への内応の嫌疑がかかり、織田信長から切腹を命じられている。同事件に関しては、諸説が入り乱れているので、あまり詳細を記さないことにする(記せない)。

ただし、ここで平岩(七之助)親吉ちかよしは、傅役もりやくとしての責任を感じている。それはそうだろう、20年間育ててきた松平信康が、理由がどうであれ、切腹を命じられてしまったのだから(諸説あり)。そこで平岩(七之助)親吉ちかよしは、涙ながらに「私の首を、信長に差し出してください」と懇願したという。その願いは聞き届けられず、そのまま平岩(七之助)親吉ちかよしは、謹慎することになる。

だが、その後に、徳川家康から「早く出仕せよ」という度重なる要請を受けて、復帰している。この時、平岩(七之助)親吉ちかよしも辛かっただろうが、妻子を同時に失った……そうなんです……家康の心痛もいかばかりか……。徳川家康も、癒やし系の平岩(七之助)親吉ちかよしが、早く戻ってきてほしかっただろう。

■本能寺の変

織田信長とともに勢力を拡大していった徳川家康だが、息子の松平元康や妻の瀬名姫、叔父の水野信元の件もあり、織田信長に対して思うことはあったはず。そんな複雑な心境だったのは、徳川家康だけではなかった。

天正10年(1582年)、家康と親吉の2人が41歳の時に、本能寺の変がおこる。

家康は、家臣団と伊賀の山の中を命からがらに落ち延びながら、「どうする?」が、頭の中で巡っただろう。そして織田家の中のごたごたを眺めながら「急ぐべからず……急ぐべからず……及ばざるは過ぎたるよりまされり……及ばざるは過ぎたるよりまされりじゃ」とつぶやきながら、甲斐(山梨県)の平定に集中していたのではないか。

■武将ではなく優秀な行政官だったか?

ところで、平岩(七之助)親吉ちかよしの武勇をあまり聞かない。本能寺の変後の伊賀越えのメンバーにも加わっていない。

平岩(七之助)親吉ちかよしの名前が出てくるのは、家康が甲斐を平定した1583年以降こと。城の無かった甲府に築城を命じられつつ、武田の遺臣を徳川の家臣にしつつ、甲斐の行政官のような任務を担っていたようだ。

数え49歳で、豊臣秀吉による小田原征伐に、平岩(七之助)親吉ちかよしも参加している。この時に、おそらく大した功を挙げたとも思えないが、戦功を挙げたと言われている。同時に、徳川家の関東への大移動が命じられて、この時に平岩(七之助)親吉ちかよしは、厩橋3万3,000石を与えられた。

関ケ原の合戦後の1601年に、甲府6万3,000石へ。また徳川幕府が成立した1603年には、その甲府を含めた甲斐一国を、2歳の徳川義直が治めることになる。もちろん2歳児なので甲斐へは行かずに、家康や母などとともに駿府城にいたという(Wikipedia)。その代わりに、徳川義直……というか「徳川義直」というシステムを構築すべく、家臣団が編成される。なかでも中心的な役割を果たしたのが平岩(七之助)親吉ちかよし

さらに徳川義直が尾張藩主に転ずると、義直の附家老として尾張に移り、藩政を執行。同時に犬山藩主として12万3,000石を領した。「附家老」なので、徳川義直を補佐するために、出向している感じだ。尾張藩の藩士ではなく、あくまで徳川家康の直臣であり、犬山藩主なのだけど、尾張藩の取り仕切る。このあたりの行政手腕に優れていたのかもしれない。

■忠誠心の確固さ

平岩親吉は、徳川家康が遠江や駿河に注力している時には三河の岡崎を、そして武田氏を滅ぼしてからは甲斐の甲府を、徳川幕府の開府後には、甲斐の甲府、そして尾張の名古屋を任される。いずれも、他勢力からすぐに攻め込まれる場所ではないが、徳川家にとって、盤石を期したい土地であるといえる。

当然、そうした場所には、行政能力に優れるだけでなく、絶対に裏切らない股肱の臣を配置したい。いずれも、その場所で離反されれば、致命傷を受けかねないからだ。

その点、平岩親吉であれば安心だっただろう。史実なのかは分からないが、こんな話が『名将言行録』に残っている(以下Wikipediaより)。

まだ豊臣秀吉の治世の頃。1594年に伏見城が完成する。その祝いのあとに豊臣秀吉は、井伊直政や本多忠勝、榊原康政、平岩親吉に歳末の祝儀として密かに黄金を百枚ずつ与えた。

井伊直政と本多忠勝はそのまま黄金を拝受して家康には告げなかった。

榊原康政は「どうしたらよいでしょう」と家康に告げ、家康は「下し賜れた物は受け取るものだ」と言ったという。

唯一、豊臣秀吉からの下賜を断ったのが、平岩親吉だった。受け取らなかったばかりか「臣は関東奉公の身にて、その禄を受け衣食は常に足りている。今主君の賜り物を貪っておいて、受け取ることなどできはしない」と、使者を返した。

主君の徳川家康から十分な俸禄をもらっているから、そのような黄金は不要だということ。つまりは馬鹿が付くほどの正直者キャラだったのだろう。これには、豊臣秀吉も苦笑したかもしれない。

ただし、徳川家康は家臣たちの話をじっくりと見ていたはず。何も受け取った井伊直政や本多忠勝、榊原康政が、信を置けない奴らだ…と感じたとは思わない。当然のように受け取る家臣もいて、どうしよう? と悩む者もいて、そして断固として断る人間もいる。このキャラクターの異なる忠臣が揃っていることが、徳川家康の力の根源だからだ。

そして、それらの家臣を適所適材に配置していく。平岩親吉に、松平信康と岡崎の地を任せたのに続いて、徳川義直と甲斐や尾張の地を任せたのは、そこが平岩親吉の適所だと見たのだろう。

■平岩親吉の子孫

平岩親吉は、慶長16年(1611)に、名古屋城で亡くなります。69歳なので、その頃の寿命だったと言っていいでしょう。平岩親吉は名古屋城に登城していたが、「主の城で死んでは申し訳ない」と言って、城下の自邸に移ってから息を引き取ったという話も伝わっています。いずれにしても、徳川家に最期まで忠を尽くした人生だった。

平岩親吉の家系は、その後、続くことはなかった。平岩親吉に男子がいなかったからだ。平岩家の断絶を惜しんで、徳川家康は、実子の八男である仙千代を、平岩親吉の養子にしている(仙千代ではなく松千代だったという説もある)。

徳川家康には16人の子供がいたが、その中で男子は11人。この中で、成人したのは、二代将軍の徳川秀忠ほか、御三家となる3人、それに結城家や武田氏を継いだ2人など、わずかだ。譜代の家臣に養子へ行ったのは、この平岩家と長沢松平家のみ。徳川家康が、どれだけ平岩親吉を大切に思っていたかが分かる。

だが1595年前後に平岩家に入った仙千代は、5歳で亡くなってしまう。その後も養子縁組の話なども進められていただろうし、甥の平岩吉範が継いだという話も残るが、いずれにしても平岩親吉の死によって、平岩親吉の家系は断絶。犬山藩も、同僚であった尾張藩附家老の成瀬家が、幕末まで治めることになる(平成14年の2004年まで成瀬家が所有)。

平岩親吉の葬儀は、親吉が創建した名古屋にある平田院で執り行われた。墓は、その平田院の墓域内である平和公園にある。そのほか、平岩家代々の檀那寺である、岡崎市内の妙源寺にも墓が残っている。

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