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青木繁『海の幸』が描かれた場所へ〜安房 布良(めら)の小谷家

『海の幸』(↑トップ画像の絵)が描かれ、または『わだつみのいろこの宮』などの名作の着想を得ただろう場所が、房州富崎村の布良めら(現:千葉県館山市布良めら)です。

青木しげるさんが、友人3人と布良めらを訪れ、約40日間逗留とうりゅうしたのは、彼が東京美術学校(現:東京藝術大学)を卒業して、数日後……1904年(明治37年)夏のことだったそうです。まだ鉄道のなかった時代、彼らは東京の霊岸島(現在の中央区新川)を、夜に船で出発し、早朝に館山に到着しました。館山の海岸の茶屋でかき氷を食べると、すぐに出発。房総半島のほぼ南端にあたる布良めらを目指して歩きはじめました。

彼ら4人は、布良めらにつくと、吉野屋という旅館に一泊します。それからすぐに街の人の周旋により、小谷喜録きろくを紹介されます。それからの彼らは、小谷家の「オクフタマ(奥二間)」で40日間を過ごすことになります。

青木繁さんが逗留した小谷家

小谷家旧宅の解説パネルには「布良めらは潮流が激しく古くから魚介類の宝庫で、延享年間(1744〜1748年)には、まぐろ延縄漁はえなわりょうが創始されるなど、漁村として栄えました」と記されています。小谷家は、そんな布良めらのなかでも、江戸時代から続く船主の家柄。明治期には布良めら村の漁師頭を務めていたといいます。

小谷家旧宅は、2009(平成21)年に館山市有形文化財に指定され、2016(平成28)年4月29日から『青木繁「海の幸」記念館』として公開が始まりました。

わたしがフラッと同記念館を訪れたのは、半ば偶然によるものでした。義父母を含めた家族で館山を訪れたのですが、わたし以外は、釣りをするのが目的の一つでした。わたしは釣りが苦手なので、一人で館山周辺の神社仏閣を巡ってみることにしました。その途中で、青木繁さんが『海の幸』を描いたのが、布良めらのあたりだと思い出し、それで彼が見た景色を見てみようと、布良めらへ向かいました。

布良めらに着くまで、現在その場所に何があるのかを知りませんでした。それでテキトウに集落を散歩していると、布良めら崎神社があり、神社の前の地域の旧跡を記した看板を見て『青木繁「海の幸」記念館』が、すぐ近くにあることを知ったのです。

屋根は桟瓦葺きさんかわらぶきで、主屋西側の壁と軒周りは大壁造り漆喰塗り

布良めら崎神社から数分歩くと、下っていく坂道の先に、小ぶりだけれど立派な建物がありました。どうやらココが『青木繁「海の幸」記念館』だなと思いつつ近づいていくと……記念館の向かい側の家から一人のおじさんが出てきて「記念館を見て行かれますか?」とわたしに声をかけながら、記念館へと入っていきました。

実はわたし……キャッシュレス化を進めていて、普段は小銭入れしか持ち歩いていないんです……。その時、小銭入れには100円すら入っていない状態で……「見て行かれますか?」と聞かれても、入館料の300円が現金で支払えるか分からず……「あ……ええと……あぁ……いきたいです……」など、わけの分からないことをつぶやき、バッグの中をがそごそとお金を探しながら、おじさんの後に続いて記念館に入りました。結局、バッグのあちこちを探すと、小さく折り畳んだ一枚の1000円札が出てきました。ホッとしながら会計を済ませると、「説明しましょうか?」というお言葉。ありがたく、「それではお願いします」とブツブツっと答えて……まぁわたしは普段から、滑舌が悪い上に、知らない人とハキハキとは話せないんです。

解説パネルの小谷家旧宅の間取り図

上の写真は、玄関を入ってすぐの「座敷(ザシキ)」です。正面には布良めら崎神社と大書された……なんでしょう? その上には、同神社を明治期に再建した時に、あまった建材で作ったという神棚があります。その左側には、同じく明治以前に建て替えられた時に作った神棚、右側には仏壇があります。

オクフタマ(奥二間)

玄関を上がった座敷の右側の板戸を開けたところが、客間として使われていた「奥二間(オクフタマ)」です。青木繁さんら4人が40日間を過ごした場所が、そのまま残っています。

こういった旧跡は、各地の城を含めて今までに何箇所も来たことがありますが、今回ほど、青木繁さんを含めて住んでいた人たちの息遣いが感じられたことはありませんでした。記念館のおじさんの話を聞いていると、当主の小谷喜録きろくさんが暮らしていたのも、青木繁さんらが逗留して『海の幸』を描いたのも、ついこの間のことのように感じられます。

『海の幸』アーティゾン美術館蔵
オクフタマ(奥二間)
『海の幸』の中央部は、後から描き替えられたと伝わっています。布良めらへ一緒にいった仲間たちや、当時の小谷家の当主がモデルだったとされています

絵に描かれている魚は、サメなのだそうです。実際に当時の布良めらの漁師たちは、サメ漁を行なっていました。また、当時の布良めらの漁獲量を調べると、マグロ漁が盛んなのが冬。逆に夏の数か月は、マグロが全くとれなかったそうです。一方のサメは、一年中、漁獲されていました。真夏の40日間を布良めらで過ごした青木繁らも、船からおろされるサメを見たかもしれません……と言っても『海の幸』で描かれた情景は、青木繁が想像したものですけどね。漁師が上下とも裸で、サメを担いだりしませんし、もりを進行方向に向けて歩いたら危険です。

オクフタマ(奥二間)

床の間に架かる「大漁」と大書された掛け軸は、当時からあったものか分かりませんが、いかにも漁師頭だった小谷家にふさわしいものです。また、下の写真のような、ちょっとした物も、青木繁さんが、40日間毎日、目にしていたものなんだろうと思われます。

下の写真の魚の絵が描かれた3枚の額は、「奥二間(オクフタマ)」の、二間を分ける場所に架かっています。実はこの絵は、青木繁さんらが逗留していた頃にも、同じものが架かっていたそうです。現在は複製品なのですが……って、この魚の図鑑のような絵そのものが、複製を作るほど貴重なものだということです。

この絵は明治21年(1888年)に、農商務省の水産局が作成し、造幣局で印刷された『日本重要水産動植物図 第一図』です。日本近海に生息する魚たちが、写実的に描かれているのですが……これってカラー印刷なんですよね。

そして記念館のおじさんが、説明しながら原画……というか、架かっている複製ではなく、本物を見せてくれました。その原画が置いてある場所が……そんなところに保管しているんですね(笑) というような場所でした。

記念館のおじさんは、青木繁さんらが逗留していた奥二間(オクフタマ)の戸を開けて、ぐるっと巡る回廊を通って、ナンド(納戸)に誘ってくれました。なにか個人のおうちを案内されているような気分です……まぁもともと個人宅だったのですけどね。

その「納戸」という狭い部屋は、物置のようなものかと思ったのですが、当主などが布団で寝ていたといいます……ということは、つまり寝室なんですかね? 今は、青木繁さんが1904年に描いたという『布良めらの海(海景)』(石橋財団ブリヂストン美術館蔵)と、同時期に描いた『海』(石橋財団アーティゾン美術館蔵)の、2枚の複製画が飾られています。この2枚の絵は、一つの下絵を描いた後に、油絵にしていく過程のどこかで2枚に分けられたのかも……という説が出てきました……という話を解説してもらいました。

詳細は<<<コチラ

布良めらの海(海景)』(石橋財団ブリヂストン美術館蔵)画像:Wikipediaより

この布良めらの海を描いた2枚は、石橋財団の東京と久留米という離れた2つの美術館に所蔵されています。とはいえ、なぜどちらも石橋財団の所蔵なのか……というのを調べていくと、タイヤメーカーのブリヂストンの創業者、石橋正二郎さんに行き着きます。

布良めらに逗留したメンバーの一人に、青木繁さんと同郷の洋画家、坂本繁二郎さんが居ます(この方も有名な画家なのだそうです)。その坂本繁二郎さんは、石橋正二郎さんの高等小学校時代の図面教師だったのです。そして坂本繁二郎さんから「青木(繁)の作品を集めて美術館をつくってほしい」と言われます。その言葉に感じ入った石橋正二郎さんは、青木繁さんや坂本繁二郎さんの絵を集めていきます。これが、石橋正二郎さんの美術蒐集の一歩だったそうです。

ちなみに『青木繁「海の幸」記念館』は、開館するまでに多くの試練があったそうですが、全国から多くの賛同者を得られたことで開館することができたといいます。庭には顕彰碑があるのですが、その中に、政治家の鳩山邦夫さんがいました。なんで鳩山さんなんだろう? と思いましたが、石橋正二郎さんは、鳩山邦夫さんの祖父にあたるんですよね。その縁もあって、同館設立にも協力したのかもしれません。

同じく納戸には、布良めらに逗留メンバーの一人で、のちに青木繁の妻になる、福田たねさんの描いた作品も展示されていました。福田たねさんは、青木繁さんとは授かり婚に至っているのですが、青木繁さんと数年過ごした後に離婚しています。そして納戸に架かる絵には、東京から船に乗ってきたメンバーが、館山の茶店でかき氷を食べる情景が描かれていました。その他にも、いつ描かれたものか分かりませんが、青木繁さんが詠んだ詩を元に描いた作品が展示されています。

青木繁さんは明治40(1907年)に、東京勧業博覧会に出品するために、代表作の『わだつみのいろこの宮』を完成させます。相当の自信作だったようですが、結果は三等末席という残念なものでした。当時は、美術の選考に黒田清輝の好みが反映され過ぎだと、多くの問題が提議されていた時代だったそうです。青木繁さんも、自信作の三等末席という結果に衝撃を受けて、美術雑誌で黒田清輝批判を展開してしまいます。以降、日本美術のメインストリームからは外れていったと言われるゆえんです。と同時に、この年に九州に帰郷した後に、二度と東京には帰ってきませんでした。

重要文化財『わだつみのいろこの宮』アーティゾン美術館蔵

一般的には、1910年(明治43年)11月に、不遇のうちに28歳で亡くなったとされています。ただし、色々と聞いてみると、28歳の若さで亡くなったのは不遇だとしても、その他については不遇ではなかっただろうなと。

おそらく青木繁さんは、かなりのわがままで自尊心が強い、わたしなどは絶対に仲良くなれない性格だったと思われます。それでも一緒に布良めらに逗留した福田たねさんや坂本繁二郎さん、それに坂本繁二郎さんと同様に郷里の親友だった梅野満雄さんなど、多くの理解者がいたなぁと思わざるを得ません。おそらく難有りの性格だったはずですが、それでも一緒に居たいと思わせる強烈なカリスマ性があったのでしょう。

亡くなった後には、先述の通り、石橋正二郎さんや梅野満雄さんなどによって遺作が守られ、美術館に展示されていきます。ため、坂本繁二郎さんの死後には、遺品の中から、青木繁さんが学生時代に描いたスケッチなどの未発表作品が見つかったと言います。そうしたこともあり、『海の幸』や『わだつみのいろこの宮』の2作が、重要文化財に指定されることになるのです。

3月17日から東京国立近代美術館で始まる、企画展『重要文化財の秘密』では、青木繁さんの、『海の幸』は分かりませんが、『わだつみのいろこの宮』については確実に展示されるようです。布良めらへ行き、『青木繁「海の幸」記念館』のおじさんに話を聞いたことで、実際に観てみたい作品の一つになりました。

ちなみに話をしている途中で知ったのですが、記念館のおじさんは、小谷喜録きろくさんの曾孫にあたる、現当主の小谷福哲さんなのだそうです。青木繁さんなど4人が、さっきまで逗留していたんじゃないか? と感じさせたのは、きっと小谷さんのおかげだと思います。

■秘密の続き

実際には『青木繁「海の幸」記念館』で記念館のおじさんの話を聞く前に行った場所なのですが……近くには布良めら崎神社という小さな神社があります。

そこもまた『海の幸』と関係が深そうな場所です。

以下は布良めらの風景と、布良めら崎神社の写真です。

『青木繁「海の幸」記念館』のおじさんからは、「この先にある青木繁記念碑の場所は、ぜひ見に行ったほうが良いですよ。すぐそこですから」と何度か言われたのですが……実は、宿の夕飯の時間が迫っていたので、すぐに記念館を出たあとは、その場所へは寄らずに宿へ向かってしまいました。また次回、館山に来た時の課題として残しておきたいと思います。

<参照サイト>
なぜ青木繁は『海の幸』を描いたの?(『南房総花海街道』内)
アーティゾン美術館
Wikipedia(青木繁)

<関連note>

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