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刀剣の撮影は難しい〜東京国立博物館で、いま見られる刀剣【2023年7月】〜もしかして龍馬の愛刀?〜

東京国立博物館(トーハク)へ行った時に、刀剣を撮影する練習をしてきました。刀剣は、焦点を合わせるのが難しく、AF(オートフォーカス)でピントを合わせようとすると、照明との相性の悪さもあって、いつまでたっても合焦しません。ということで、先日からMF(マニュアルフォーカス)に切り替えたら、少しストレスが減りました。しかも1度フォーカスが合えば、ケースのガラスから展示品までの距離はほとんど同じ。MFであれば、次から次へと合焦させることができると分かりました……今さらですけど……。

ただし、露出や色味が難しいですね。現状はあまり気にせず、オート設定で撮っているのですが、帰ってきて写真を確認すると、同じ展示品を撮っても、撮るたびに異なり……残念。

ということで、


■《短刀 保昌貞吉(号 大保昌)》

《短刀 保昌貞吉(号 大保昌)》鎌倉時代・1317年
銘:南都高市郡住藤原貞吉 文保元年巳年二月吉日
渡邉誠一郎氏寄贈(加賀藩主前田家伝来品)

柾目(まさめ)の地鉄(じがね)と沸づいた直刃の刃文が特徴の、保昌(ほうしょう)派の刀工。大振りで厚みのある刀身から「大保昌」の号がある。

《短刀 保昌貞吉(号 大保昌)》鎌倉時代・1317年
《短刀 保昌貞吉(号 大保昌)》鎌倉時代・1317年

■《長船勝光・宗光》

《長船勝光・宗光》室町時代後期・15〜16世紀
銘:備前国住長船次郎左衛門尉勝光 同左京進宗光
川田龍吉氏寄贈

本作は、刃渡りが短く先反りのついた刀身に、互(ぐ)の目乱の派手な刃文を焼入れ、 未備前の特徴をよく示しています。勝光と宗光は、叔父と甥の関係で、2人の合作。

《長船勝光・宗光》室町時代後期・15〜16世紀
《長船勝光・宗光》室町時代後期・15〜16世紀
《長船勝光・宗光》室町時代後期・15〜16世紀

同じく2人の合作に、坂本龍馬の脇差しがあります。坂本家の七代目当主・坂本弥太郎の記録には、「此刀ハ龍馬ガ特ニ愛セシモノ也」と記されているそうです。

ということで改めてトーハクの《長船勝光・宗光》の寄贈者は誰? と思い出してみると、川田龍吉さんです。それって誰? ってことなのですが、お父さんの川田小一郎さんは、坂本龍馬と同じ土佐の郷士の身分の出身。土佐藩の海運業を取り仕切った九十九商会を、岩崎弥太郎さんなどと興しています(九十九商会は、後に川田小一郎さんなどが代表になって土佐藩から分離し、その後すぐに岩崎弥太郎さんが社主となり、三菱商会となります)。当然、坂本龍馬の海援隊とも繋がりのある会社ですよね。

その子の川田龍吉さんは、1856年生まれなので、幕末維新の時期には12歳前後です。お父さんとのつながりで、もしかすると坂本龍馬さんとも会っていたかもしれません。その後、三菱製鉄所や日本郵船などの三菱グループの社員を経て、実業家となります。「男爵いも」の名前の由来となった人らしいのですが、しりませんでした……。

ところで《長船勝光・宗光》は、結局、龍馬と関係あるのか? は、分かりませんでした。トーハクの学芸員に聞いたら、調べているかもしれませんね。

■《伝筑州左(ちくしゅうさ)》

《伝筑州左(ちくしゅうさ)》南北朝時代・14世紀
金象嵌銘(きんぞうがんめい):本阿(花押)・左

銘の「左(さ)」は、左衛門三郎の略とされ「左文字」とも呼ばれます。本阿弥家11代の光温が左の作と見極めたもの。刀身は大鋒(きっさき)で力強く、小板目の地鉄に沸づいた小乱の刃文を焼き入れています。

《伝筑州左(ちくしゅうさ)》南北朝時代・14世紀
《伝筑州左(ちくしゅうさ)》南北朝時代・14世紀
《伝筑州左(ちくしゅうさ)》南北朝時代・14世紀

■《畠田守家》

《畠田守家》鎌倉時代・1272年
文化庁(福井藩主松平家の伝来品)
銘 備前国長船住守家造 文永九年壬申二月廿五日
《畠田守家》鎌倉時代・1272年
《畠田守家》鎌倉時代・1272年
《畠田守家》鎌倉時代・1272年
《畠田守家》鎌倉時代・1272年

鎌倉時代に活躍した備前国(岡山県) 畠田派の典型作で、映りが立つ板目の地鉄に、守家が得意とした丁子乱の刃文を焼入れています。

以上です。

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