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『京都・智積院の名宝』〜真言宗智山派とは?〜

先日、六本木の東京ミッドタウンへ久しぶりに行ってきました。サントリー美術館で開催されている『京都・智積院ちしゃくいんの名宝』展へ行くためです。

京都の東山にある智積院ちしゃくいんといえば……なんて、とうとうと語りたいところですが、それほど知っている寺院でもないため、まずは同展の説明文を読んでみました。

京都・東山に建つ智積院は、弘法大師空海(774~835)から始まる真言宗智山派の総本山で、全国に末寺約3,000を擁します。高野山中興の祖といわれる興教大師覚鑁(1095~1143)の法統を受け継ぎ、後に隆盛を極めた紀伊国根来寺山内で室町時代中期に創建されました。天正年間には豊臣秀吉政権の下で一旦衰退しますが、その後、徳川家康の寄進を受け、江戸時代初期には現在の地に再興を遂げました。

サントリー美術館HPより

いろんな固有名詞が出てきて、じっくりと読まないと、頭に入ってきませんね……というか、日本語が難しくて途中で読むのを挫折しかけました。ただ、Wikipediaなどで調べて見てから分かったのですが、この智積院ちしゃくいんの歴史は、部外者からするととてもややこしいです。どこかから怒られそうですが、宗教の派閥争いというのは、本当に凄惨なものだったんだなぁと思わざるを得ません。

まず空海の真言宗しんごんしゅうというのは(最澄の天台宗(比叡山)もですが)、奈良の仏教寺院が勢力を拡大しつづけていた頃に、そのカウンター勢力として、空海が高野山で興した宗派です。

大手企業であれば、今ではアメリカの大学のMBA(経営学修士)を取ってきたなんて人材も珍しくないでしょうけど、20年〜10年前にはMBAの人が企業のマーケティング会議で何かを発言したら、もう周りは反論できなくなる……なんて雰囲気だったんじゃないでしょうか。空海って、日本仏教界で初めてMBAを取ってきた人……そんな雰囲気だったんじゃないでしょうか。とにかく理屈っぽくて、ああ言えばこう言う……。そんな人が、旧態依然とした既得権益だけで出世してきたような、既存の仏教勢力の僧たちとうまくやっていけるわけがありません。

それで空海は、奈良からも朝廷のいる京からも離れた、紀伊国(和歌山県)の高野山に、真言宗を開祖したんだとわたしはイメージしています。そんな最先端の仏教には多くの人たちが飛びつきました。多くの僧侶もですが、皇族や公家なども、羨望の眼差しをむけていたことでしょう。

そして、真言宗はすぐに巨大な勢力を持つまでに成長していきました。勢力が拡大すれば派閥ができて、どんどん分裂していきます。そして勢力争いへと発展していくのは、俗世も僧侶も同じなのでしょう。

空海が生きたのは774年〜835年ですが(いちおう現在も修行中ということになっています)、時代が下って1100年代になってくると、真言宗も一枚岩ではありません。いまはどうか知りませんが、たいていの組織は、時代を重ねるごとに堕落していきます。高野山、真言宗もそうだったのでしょう。

そんな高野山を……つまりは真言宗を「もう一度、ちゃんとしようよ!」と言って立ち上がったのが覚鑁かくばんという僧侶でした(当時、30代の後半で金剛峯寺座主…高野山の実質的なトップでした)。冒頭の引用文で言うところの「興教大師覚鑁かくばん」です。

ただし「ちゃんとしようよ!」と言っても、ちゃんとする方法は人によりさまざまなので「お前に言われたくないわ!」と怒る僧もいたでしょうし「今までどおり、自堕落な僧侶として生きていきたいんだ!」と反発する僧もいるわけです(まぁどちらが“ちゃんとした僧”だったのかは、なんとも言えませんけどね……)。

そうして、真言宗の高野山の中でも、覚鑁かくばんに対抗する僧侶が、高野山中の覚鑁かくばんが暮らしていた寺院を焼き討ちしたそうです。覚鑁かくばんが生きた、平安時代後期には、すでに僧が武装し始めていたころです。全員ではないでしょうが、とにかく血の気の多い僧が多い。

「あぁ……もうコイツらをさとしても無駄だな」と、覚鑁かくばんが思ったかは知りませんが、彼を慕う弟子たちだけを連れて高野山を下ります。そして近くに寺を建てるわけです。はじめは小さかった寺は、覚鑁かくばんの思想が素晴らしかったからか、どんどん規模を大きくしていき、根来寺ねごろじが形成されていきました。それが平安時代後期の1140年の、そろそろ平氏や源氏が活躍し始める頃です。

そして根来寺を本拠地とした一派は、鎌倉から室町へと時代が変わっていくなかで、どんどん勢力を拡大していきました。最盛期の室町時代の後半には、寺領が72万石にもなっていたと言います。江戸時代の石高と比較して良いのか知りませんが、大大名の規模ですよね。

その最盛期の室町時代の後期は、群雄が割拠し始める不穏な時代です。もともと高野山と対抗する必要からも武装化が進んでいた根来寺は、この頃には1万以上と言われるほどの僧兵軍団を形成するまでになっていたと言います。さらに寺の関係者、津田監物が種子島から火縄銃を伝え、寺の近くで量産化を始めます。戦国時代の鉄砲隊といえば、根来衆と、その関連団体である近所の雑賀衆さいがしゅうが有名です。

根来寺の僧侶の全員が鉄砲隊や僧兵だったわけではありませんが、根来寺は根来衆ねごろしゅうという武装集団の本拠だったのです。いわば根来寺を形成する山は、根来城と言っていい存在だったでしょう。関東在のわたしからすると、根来ねごろと言えば、寺よりも先に鉄砲隊が思い浮かべるほどの大勢力です。

そんな根来衆は、鉄砲という最新の武器を手に、様々な戦国武将の味方となり、また敵対していきます。単に根来寺の領地を守るだけでなく、雑賀衆と同様に傭兵としても、各地で活躍しました。そして1570年に、織田信長が石山本願寺を攻めた石山合戦において根来衆は、ある時は本願寺につき、ある時からは織田信長に味方して参戦しているんですよね(この時、雑賀衆は本願寺側につきます)。

さらに、ポスト織田信長の覇権を豊臣秀吉と徳川家康で争った小牧長久手の戦いでは、根来衆=根来寺の僧兵は、雑賀衆とともに後の豊臣秀吉、羽柴秀吉の拠点である大阪方面へと攻め込んでいます。秀吉が大坂を留守にして小牧長久手へ向かうタイミングで、大坂を攻め取ろうという魂胆です。まだ当時は大坂城が完成する前だったため、無防備だった大坂の街は、広範囲に被害を受けた……つまり焼き討ちにあったとも言われています。

羽柴秀吉が、これに怒らないわけがありません。根来衆というか、雑賀を含めた紀州勢が攻め入って来たことで、小牧長久手の尾張へ向けて出発した羽柴秀吉は、大坂に戻ってこなくてはならない事態に陥りました。激おこプンプンだったはずです。

そして、当然でしょうと言う感じですが、小牧長久手の戦いで徳川家康と和解した後に、羽柴秀吉は「あやつら根来や雑賀衆は、許してはおけん!」ということで、大軍勢をもって紀州攻め……つまり雑賀と根来衆を攻めることになります。

羽柴秀吉の肩を持つわけではありませんが、紀州攻めの前には、いちおう和議のための僧侶(使者)を、秀吉は根来寺に送っています。で、根来寺側がどうしたかといえば……その使者が泊まっている僧坊に向かって、鉄砲を撃ったそうです。

ということで羽柴秀吉の紀州攻めが始まり、根来寺は完膚なきまでに叩き壊されるわけです。これを根来寺側では、焼き討ちと呼んでいますが……どうでしょうね……けっこうな武装勢力ですからね。寺が焼かれたというと「秀吉はなんて酷いことをするんだ」と、かつての平重衡が東大寺などを焼き討ちにした南都焼討や、織田信長の比叡山焼き討ちを思い浮かべるでしょうけど、根来寺はねぇ……武装集団ですから……秀吉からすれば、懐柔できなければ潰すしか選択肢はなかったとも言えそうです。

そして根来寺の関係者は焼け出されて、散り散りになりました。純粋な僧侶たちは、この時に別れて、その一派が真言宗“智山派”や真言宗“豊山派”を形成するわけです(もう一派、代表的なのが豊山派です)。

智山派は、江戸時代に江戸幕府……徳川家と密接な関係になりました。どうしてでしょうか?

羽柴秀吉の根来寺焼き討ちで散り散りになったのは、純粋僧侶だけではありません。僧兵たちも散り散りで、その一派は徳川家康の元へも行くんです。純粋僧侶と僧兵とがセットで、徳川家康の元へ駆けつけたのかもしれません(ほかに毛利家などへ行った一派もありました)。

徳川家康の元へ駆けた僧兵たちは、その後の関ヶ原や大坂の陣などにも参戦。江戸幕府が開かれてからは根来組という百人組を編成して、伊賀組や甲賀組、二十五騎組と交代で江戸城大手三の門を警衛したと言います。

江戸切絵図を見ると、ここ根来組の同心たちは、牛込(現在の弁天町)に住んでいたようです。

江戸切絵図 市ヶ谷牛込絵図(国立国会図書館デジタルコレクション)

京都・東山に建つ智積院は、弘法大師空海(774~835)から始まる真言宗智山派の総本山で、全国に末寺約3,000を擁します。高野山中興の祖といわれる興教大師覚鑁(1095~1143)の法統を受け継ぎ、後に隆盛を極めた紀伊国根来寺山内で室町時代中期に創建されました。天正年間には豊臣秀吉政権の下で一旦衰退しますが、その後、徳川家康の寄進を受け、江戸時代初期には現在の地に再興を遂げました。

サントリー美術館HPより

徐々に冒頭であげた、サントリー美術館の智積院や真言宗智山派に関する文章の内容が分かってきました。

要は「真言宗の中でも智山派こそが、空海の考えを正しく継承した覚鑁かくばんの法統(教え)を引き継いだ、正統な宗派である」と言いたいのだと思います。この基となる文章を智積院から渡されて、サントリー美術館が、ここまで短くまとめたのでしょう。そして、智積院の言い方によれば「根来寺を秀吉に焼き討ちされて…」となるのですが、サントリー美術館では、焼き討ちに関しては言及を避けて、焼き討ちに遭った後の「豊臣秀吉政権の下で一旦衰退します」としたということ。

また智積院からすると「根来寺を焼き討ちにした、豊臣秀吉が力を注いで建てた祥雲寺(祥雲禅寺)を、のちに根来寺由来の智山派が引き継ぐことになるとは、人生とは数奇なものだ」と言うことになります。まぁ武装勢力としての根来寺や根来衆にだけ正義があるとも思えないのですが……。

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