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『法然と極楽浄土』を見る前に知っておくと良いかもしれないことなどを徒然に……@東京国立博物館

特別展『法然と極楽浄土』が、東京国立博物館(トーハク)で始まりました。報道陣向け内覧会へ潜入した時の様子は、下記サイトで記事となっているので、写真をはじめとする詳細については、興味があれば(いや、興味がなくても)同サイトを読んでもらいたいと思います。(来館者による撮影は、最後の最後にある1部屋以外は禁止です……残念……)

上の記事の後半にも記しましたが、今回の展示品には、「これはすごいな」とか「すごく美しい」など、感覚的に凄さを体感できるような作品が多くありません。そうした美術品的な展示ではなく、平安後期から江戸時代に描かれ作られた、歴史的な価値の高い絵巻や像などを見ながら、法然房源空さんと、その弟子たちの事績を振り返っていこう、という展示ラインナップになっています。

左が東京国立博物館のチラシ
右が京都国立博物館のチラシ

そのため、法然さんのことや法然さんが提唱した専修念仏(せんじゅねんぶつ)、または弟子たちが結成した浄土宗について知ってから行った方が、より興味深く展示会場を巡れると思います。そうすると、今まで歴史の教科書の中でしか知らなかった法然房の源空さんが、より立体的にイメージできるようになります。

というのも、歴史の授業で習うというか、学期末テストや受験などで必要な知識は、「鎌倉(時代の)仏教=浄土宗=法然(ほうねん)=選択本願念仏集」などのキーワードでしかなく、それらがどう関わっているかを知る機会は少ないように感じるからです。

「わたし宗教とかそんなに興味ないんすよねぇ…」っていう方は仕方ありませんが……でも法然房の源空さんの教えって、かなり日本人の生活の中に知らずに浸透していると思うんですよ。というのも、直系と言われる浄土宗と、我こそが法然様の真の正統です! って言って始まった浄土真宗って、日本最大の信徒数を誇る仏教派閥なんです。だから(浄土宗や浄土真宗ではなく)法然房の源空さんの教えは、宗教っていうよりも文化っていう感じだと思います。わたしたちの多くは浄土宗系の信者ではありませんが、意識しているいないに関わらず、法然房の源空さんの少なからぬ影響下で育っているんだと思うんです。法然房の源空さんってどんな人で、どんなことを言っていたのか? っていうのは、知っておいて損はないはずです。

ということで、ここからは少し、法然房源空さん……いわゆる法然(ほうねん)さんについて、物語っていきたいと思います。


なお、今回のnoteに載せている写真は、最後の法然寺関連の写真以外は、トーハクの常設展(総合文化展)で、過去に撮ったものです。特別展『法然と極楽浄土』では、見られません。

■法然がポッと発明したわけではない浄土宗の教えとは?

法然さんが生まれた平安時代は、優雅な貴族だけが生きていたわけではなく、特に庶民にとっては生活するのに厳しい時代だったと思われます(推測です)。そうした生活の中で、庶民は救いを求めていました(推測です)。でも、当時の仏教で救われるのは、修行をしている裕福な家の出身の僧侶であり、それに帰依する、これまた裕福で文字などが読める=難しい仏教の教えを理解できる、または学ぶ時間のある、都の人たちや公家たちだけだと考えられていました(推測です)。そもそも当時の仏教の主流である、比叡山延暦寺や奈良の興福寺をはじめとする南都の諸寺に求められたのは、鎮護国家であり、貴族以外の安寧にどれだけ関心があったかは疑わしいところです。

そんな中、法然房の源空さんが生まれるずっと前に、一部で注目されたのが、良源さんや空也さんなどが支持した浄土教です(浄土宗ではなく浄土教です)。南無阿弥陀仏をとなえれば、西方の極楽浄土から、阿弥陀如来が観音と勢至菩薩を従えて、自分のところに迎えに来てくれる……救ってくれるという教えです(おそらく…)。

特別展『法然と極楽浄土』の第1章の始めの部分では、この法然房の源空さん以前の、浄土"教"関連の展示品がいくつか見られます。

《当麻曼荼羅縁起 (模本) 巻下》に描かれた、阿弥陀如来が来迎するシーン(特別展『法然と極楽浄土』では、この本物が展示されていた気がします)
詳細は下記noteを参照

たいていが裕福な貴族や地方豪族の出身者である、官製・公認の僧侶のようには「修行をする余裕も時間もありませんし、当然、学もありませんよ」という庶民ですら、「なむあみだぶつ」の七文字を、となえさえすれば良い…救われるのですから、お寺に浄財を納める余裕のない貧しい庶民に、広がらないわけがありません。

特に空也さんは、阿弥陀如来について色々と難しいことを考えなくても(観想を伴わなくても)、ただ一心に南無阿弥陀仏と称えるとなえるだけで救われるとした……称名念仏を説きました(おそらく……)。

ただ、この浄土教に関しては、平安時代に興った革新的な教えなわけではありません。それ以前から、浄土教の考え……阿弥陀仏の信仰……念仏信仰自体を支持する人たち……一派は、もともと比叡山=天台宗の中にあったんですね。

ちなみに輸入元の中国における浄土教の著名僧といえば、6〜7世紀中頃に生きた道綽さんが居ます。その弟子には……浄土教が拠り所とする仏典の一つ、「観無量寿経」の解釈書である『観無量寿経疏』を著した善導さんが居ます。

この善導さんは、法然房源空さんを語る上で、最も重要な人。この善導さんの『観無量寿経疏』を読んだことで、法然さんは比叡山を降りて、念仏一本に絞るきっかけになりました。とはいえ、善導さんが生きたのは、日本でいうと飛鳥時代のことです。善導さん著の『観無量寿経疏』が、いつ日本に伝来したか分かりませんが、飛鳥時代には、既に浄土教の考え自体は日本に伝わってきています。

日本への仏教伝来が6世紀中頃と見られていますから、ほぼ同時に仏教の教えの1つである浄土教も伝わっていたということです。その後、南都(奈良)の寺院へ、そして、それまでの教えを最澄によってブレンドされた比叡山=天台宗にも引き継がれたのでしょう(推測)。平安時代初期には円仁良源が、中期には踊り念仏の空也や、『往生要集』を著した源信が、比叡山の天台宗の中から現れました。

<特別展『法然と極楽浄土』における主な関連展示>
◎重要文化財《往生要集》平安時代・承安元年(1171年)・京都 青蓮院
・《往生要集絵巻 巻第五》室町時代
・《恵心僧都源信像》南北朝時代・滋賀 聖衆来迎寺

以前、トーハクでは、源信さんの『往生要集』をビジュアル化した『往生要集絵巻』の『巻第四』が展示されていました(今も?)。特別展では『巻第五』が展示されています(展示期間を公式サイトなどで要確認)

その他にも浄土教の先輩たちはいましたが、その後に現れたのが、同じく比叡山の天台宗出身の法然房の源空さんです。つまり称名念仏は、法然房源空さんの発明ではありません。では、法然房の源空さんは、どこが革新的だったかと言えば、比叡山を出たことです(個人の見解です)。自分(法然)の考えは、比叡山=天台宗の枠には収まりきらない……もしくは比叡山=天台宗の中から発信するのには限界がある……比叡山=天台宗を離れた方が、多くの人を救える……などと思い、弟子を連れて比叡山を出たのだと思われます。

<特別展『法然と極楽浄土』における主な関連展示>
◎重要文化財《法然上人坐像》鎌倉時代・當麻寺奥院
◎重要文化財《法然上人像(足曳御影)》鎌倉時代・京都 二尊院
◎重要文化財《法然上人像》鎌倉時代・茨城 常福寺

ただし、法然房源空さんが、この時に天台宗を辞めたのかと言えば、少し疑問です。法然房源空さん自身が、比叡山を出たのは事実でしょうが、まるで天台宗を辞めて新たに浄土宗という宗派を樹立した……最澄の天台宗や空海の真言宗のように、立宗したのかについては疑問があります。というのも、当時「正式な僧侶」になるためには、少なくとも奈良の東大寺、太宰府(九州)の観世音寺、下野(関東)の薬師寺、それに京都・比叡山の延暦寺のいずれかで、戒壇(かいだん)を受けなければいけませんでした……受戒です。つまり、それら比叡山や東大寺などの「授戒」するという特権…既得権益を持った寺院と、かなり穏便に付き合わないと、法然房源空さんが弟子を育てても、その弟子は正式な僧にはなれないということです。ちなみに、当時は独自に授戒できなかった真言宗は、東大寺で受戒する僧が多かったようです(要確認)。

そのため、新たな宗派を樹立する僧はいなかった……事実上、不可能だったのではないかと個人的には思うわけで……法然房源空さんが、この時期に、立宗に本当に踏み切ったのか……それが可能だったのか? という疑問が残るんです。

というのも、法然房源空さんには、関白の九条兼実さんという有力クライアントが居ました。この関白の依頼によって、法然房源空さんは『選択本願念仏集』を著すわけですが、関白である人が、ある種、公式な宗教である天台宗や南都の各寺院から、受戒していない非公式僧(私度僧)で構成されることになるかもしれない、新興宗教である浄土宗に乗り換えることが可能なのかな?……いやぁ、それは無理でしょう……と思うわけです。

<特別展『法然と極楽浄土』における主な関連展示>
◉国宝《法然上人絵伝》鎌倉時代・京都 知恩院
◎重要文化財《法然上人絵伝》鎌倉時代・東京 増上寺
◎重要文化財《法然上人絵伝(琳阿本)》鎌倉時代・東京国立博物館
◎重要文化財《拾遺古徳伝絵》鎌倉時代・茨城 常福寺
そのほか多数の《法然上人絵伝》や《法然上人往生図》が展示
◎重要文化財《選択本願念仏集(廬山寺本)》鎌倉時代・京都 廬山寺
◎重要文化財《選択本願念仏集(往生院本)》鎌倉時代・奈良 當麻寺奥院

実際、「元久元年(1204年)10月、延暦寺の衆徒は、専修念仏の停止(ちょうじ)を訴える決議を行い、当時の天台座主真性に対して訴えを起こしました」。さらに「元久2年(1205年)9月、(南都の1つで、藤原氏の氏寺である)興福寺の僧徒から朝廷へ法然に対する提訴が行われ、翌月には改めて法然に対する九箇条の過失を挙げ、朝廷に専修念仏の停止を訴え」ました(「」内は、いずれもWikipediaより)。

この2つの文章を読むと、「専修念仏」=「法然とその弟子たちの布教活動」ということになります。延暦寺の衆徒が訴えた先が、天台座主という点からして、この時点では、まだ天台宗から独立した「浄土宗」的な立ち位置ではなかったように思えます(推測)。

また興味深いのは、当時の天台座主(比叡山のトップ)が、真性さんだということ。Wikipediaによれば、真性さんは平清盛や源頼朝と丁々発止でやり取りし、『鎌倉殿の13人』で西田敏行が怪演した後白河法皇の孫です。同時に、平氏追討の令旨で知られる以仁王の息子です。それより何より、法然房源空さんの最大クライアントである、関白や太政大臣を歴任した九条兼実の弟で、元天台座主だった慈円さんの、弟子にあたるのが当時の天台座主の真性さんです。

つまり延暦寺の衆徒は「元天台座主のお兄さんで、朝廷の権力者だった九条兼実が信奉している、法然たちの専修念仏をやめさせろ!」と、現天台座主に訴えたわけです。

実は、後に法然房源空さんの最大クライアントになる(藤原家の)九条兼実さんは、法然が比叡山を出た時には、既に失脚していました。なぜ失脚したかについては、あまり今回は関係ありませんが、どうやら九条兼実さんは「源頼朝…鎌倉幕府と仲良くやっていこうよ」派だったようです。そのため、後白河法皇……後鳥羽天皇(上皇)のように、「鎌倉幕府とバッチバチで対峙しよう」という派閥……その中には同じ藤原一族もいたでしょうから……そうした対立派閥に追い落とされた、のかもしれません。

ということが関係していたのだろうとわたしは考えますが、延暦寺の宗徒からは「法然一派の念仏を許すな!」という声が起こりました。比叡山は当時の仏教研究の最高学府とも言える場所だったかはずですが、もうリベラルの仮面をかなぐり捨てて、法然さんを批判したのでしょう。

比叡山延暦寺の訴えのあと、法然さんは、既存宗団の「挑発に乗るな」または「挑発するな」的なことを弟子たちに言うわけです。そして「阿弥陀仏以外の仏の誹謗中傷をしてはいけない」など、門弟に対して守るよう求めた、7つの禁止事項が、《七箇筿制誡(しちかじょうせいかい)》です。今回の特別展にも展示されていますが、ここには当時の法然の、弟子たちの署名が残っています。親鸞さんの「綽空(しゃっくう)」という当時の名前も確認できます。要は誓約書ですね。

ただし比叡山延暦寺に続いて元久二年(1205)には、南都(奈良)の興福寺の僧たちが、今度は朝廷(政府)に対して「法然一派の念仏を止めさせろ!」と訴えます。この興福寺は、藤原氏の氏寺……こちらも比叡山延暦寺と同じく、最高権力者とベッタリな寺なんです。

そしてとうとう2年後の「1207年(建永二年、承元元年)後鳥羽上皇によって法然の門弟4人が死罪とされ、法然及び親鸞ら門弟7人が流罪とされ」てしまいます。

色々と罰せられる理由はあったのでしょうけれど、法然房の源空さん一派は、結局は既存勢力に駆逐されそうになるわけです。こうした政争……既存勢力が新興勢力に危機感を抱いて、権威によってフルボッコするというのは、世界共通で起こってきたことです。

では、比叡山の延暦寺や、南都の諸寺は、法然房の源空さん一派の何に危機感を抱いたのか? といえば、信者を取られる……まぁ朝廷内のクライアントを取られることというのが1つあったでしょう。さらに法然房の源空さん、または弟子たちは、比叡山などの特権である「戒壇」についても、無力化するようなことをした……もしくはしようとしたのでは? とわたしは考えます。

前述のとおり、この「戒壇」の制度がある限り、新しい「宗」を組織することは、かなり難しいことだったはずです。それなのに、浄土宗によれば「法然房源空は、1175年に、浄土宗を開宗した(今年は開宗850年)」と言っているんです。普通に考えると、既存の特権者が、新興の浄土宗の僧侶になりたいと言う人に、授戒などしませんよね。「法然の念仏を停止させろ!」と言っている人たちが、授戒しなければ、法然さんの弟子たちは、正式な僧侶になれないんです。これは、ありえないことのように思います。

そうであれば、当時の法然房の源空さん、またはその弟子たちからすれば、「戒壇など意味がない」としなければ、宗団として成立しなかったのでは?

ちなみに戒壇制度の寡占状態は、鎌倉時代の法然房の源空さんの後の時代になると、はっきりと「崩壊」と言って良い状態になっていきます。

戒壇を受けた僧でも(正式な僧でも)、素行の悪いのが多くいて、信頼を失っていったのです(推測)。まぁどれくらい「なまくら」や「なまぐさ」など、素行不良の僧が多かったのかは分かりませんが、現代の特に都心の寺院や僧侶、その住居、メルセデスやレクサス、BMWがズラリと並ぶ、わたしの近所の寺院の駐車場を見ていると、なぜ免税という特権を与えられているのか? と疑問に感じることも多く、当時の人の僧への不信感が想像しやすいです(実感)。←もちろん一部の僧侶は…ということだと思います! 

「今は末法の世である」と、当時の人たちが言っていたのも、「釈迦の死から1000年が経って、釈迦の教えが正しく実践されていない」と考えられたからです。戒律を守らない、破戒の僧侶たちを目の前にして、「世も末だ…」、つまりは「末法の世だ」と実感する人たちが多かったかもしれません。(現代では、そもそも仏教の僧侶に守るべき戒律が定められているのか? という点から疑問ですし、そもそもの僧侶への期待値が低いため、鎌倉時代の人たちよりも、ショックはないのだと思います。僧侶も自分たちと変わらない普通の人だ……と思っている人が多いのではないでしょうか。むしろ一般人の方が、世間に揉まれることで、修行しているとも言えますしね)

そうした末法の時代に、法然房の源空さんや弟子たちが、毎日を生きるのにも苦しんでいる人々の気持ちを汲み取り、不安を取り除くような話ができれば、既得権益だけで威張っている破戒僧侶との比較も相まって、一気に信頼を勝ち取れただろうなとも想像できます。

貧しくても死に直結するわけではない現代と、貧しさが死に直結したかもしれない当時とを比べると、僧侶への期待値も段違いで高かったのではないでしょうか(もちろん現代日本でも貧困と死が密接な関係にあることは言うまでもありませんが、平安鎌倉時代と比較すれば、貧困で亡くなる人は、かなり少ないと考えています。比較においての話です)。

何が言いたいかと言えば、この既得権益を守る「戒壇の寡占状態」が崩壊へ向かったために、浄土宗や後の浄土真宗、それに一遍の時宗などの浄土教(念仏)系、そして臨済宗曹洞宗の禅宗系、日蓮宗と呼ばれる法華経系が、鎌倉時代にまとまって立宗されることに繋がった……のかもしれないな……ということです。現代で言えば、「(既得権益者を守る)規制が緩和されたことで、スタートアップ企業が増えて、イノベーションが起きやすくなる」……という文脈と似ています。

また地域の寺院からの……現代のコンビニチェーン店の本社へのロイヤリティ費に相当する、総本山への上納金(というと聞こえが悪いですけれど、正式名称を知らないため)も、今もそうでしょうが(あくまで推測ですが)、天台宗や真言宗は高く設定され、浄土宗などの新興勢力は安く設定されていたと推測します(そもそも僧侶資格を得る……受戒の費用も異なるでしょう)。となると、浄土宗などへ鞍替えする地方寺院も相次いだ……相次ぎそうになった……のではないでしょうか(全くの推測です)。

そうすると、既得権益を侵害される側の東大寺などの南都寺院や比叡山延暦寺などが、僧としての気持ちはさておき、人情としては、法然房の源空さん一派の勢力拡充に危機感を感じるのも当然です。僧が俗人と違いがないのであれば、新興勢力である浄土宗を、苦々しく感じたことでしょうし、もしくは「(これまでも比叡山の中に存在した)浄土教の考えと、法然さん一派の称名念仏は異なるものだ!」と論じていたのでしょうか? それは今までの仏教史研究で、分かることかもしれません。

書き始めたら、どこで終われば良いのか分からなくなって、長くなってしまいました。ただ、法然房の源空さんが言っていたことは、「阿弥陀仏を信じて、南無阿弥陀仏と称えましょう。それだけで阿弥陀仏が迎えに来てくれますよ。他にすべきことは一つもありません。誓って、他に隠している教えは私、源空にはありません」と言って、書にしたためたと、たしか法然上人絵伝にも書いてあったはずです(要確認)。

とても単純明快な教えなので、実は寺院も僧侶も、立派な来迎図や阿弥陀如来像なども、本当は不要なはずなのが、法然さんの教えなんですね。だから(なのかは分かりませんが)特別展『法然と極楽浄土』のチラシだったかプレスリリースだったかには、「法然自身は、造仏などには関心がなかったが、それを禁止もしなかった」という意味のことが書いてあるのだと思います。

たしかに、「なむあみだぶつ」と称えるだけで良いんですよと言われても、その称えている阿弥陀仏って何だろ? どんな姿なんだろ? どうやって私を迎えに来てくれるんだろ? って思うのが、人というもの。それでやはり法然房の源空さんの教えを伝える人たちも、阿弥陀仏を描いた仏像や絵を作って、「これが阿弥陀仏ですよ。こんなふうにあなたを迎えに来ますよ」となったわけです(たぶん)。

そういう阿弥陀如来像が、特別展『法然と極楽浄土』の第2章を中心に展開されています。

また第3章には、法然さんの(親鸞さんを除く)直弟子みたいな方々の軌跡に関連した展示品が並んでいます。さらに第4章では、徳川家康……徳川家とガッチリ組んだ後の、主に関東の浄土宗寺院の展示品が並びます(←言い方が悪いですけどね)。

そして最後の最後に、フォトスポットとして用意されているのが、香川県の法然寺蔵の《仏涅槃群像》です。江戸時代に作られた、立体の釈迦涅槃像ですが、これは一見の価値がものすごくあると思います。

まぁ、法然=浄土宗の展覧会としては、どのくらい関連性があるのか? といえば、この像よりも、所蔵先の法然寺が重要と言えるかもしれません。

上述した法然房の源空さんの流罪先が、今の香川県(讃岐)であり、諸説ありますが、その讃岐で住んでいた跡地に建てたのが法然寺と言われています(とはいえ、後に法然寺は場所を移しているため、現在の法然寺のある場所に、法然房の源空さんが居たわけではないようです)。

ということで、今は箱根の宿に泊まっています。スマホで書いているため、誤字脱字がいつもにも増して多いかもしれません……すみません。

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