江戸琳派の創始と言われる酒井抱一ってどんな人?〜『琳派の花園あだち』(1) @足立区郷土博物館
一昨日のnoteで、足立区郷土博物館の特別展『琳派の花園あだち』に行かなきゃ! と記しました。そして、すっきりと晴れた昨日、家族から午後までの自由時間をいただいので、自宅から自転車で行ってきました。
行ってよかったぁ〜! と、強く感じています。
良かったと思える理由はいくつかありますが、1つは、足立琳派…千住琳派の作品の数々を間近で見られたこと。もう1つは、酒井抱一などに関する知見を深められたこと。あとは、酒井抱一の自宅から千住(北千住)までの距離感が、今までよりもはっきりと分かったことが挙げられます。歴史を感じるのには、距離を感じるって重要ですからね。
今週は、これらを1つずつゆっくりと振り返っていきたいと思います。
これから、酒井抱一やその一番弟子の鈴木其一、親友の亀田鵬斎や谷文晁らが千住(足立)に残した足跡をメモしておきたいと思います。
■姫路藩主家の次男として生まれたお坊ちゃん
酒井抱一は、姫路藩…酒井雅楽頭家の次男として生まれた名門のお坊ちゃんです。おそらく武家の教養として狩野派や長崎派の絵を学んだうえで、20歳前後からは浮世絵師の歌川豊春に師事しています。
絵画以外でも狂歌や俳句にも、のめり込み、狂歌師の太田南畝との交友でも知られています。そうした活動が関係しているのか不明ですが、37歳の頃には、京から江戸に来ていた西本願寺の文如上人によって得度(させられた?)。お坊さんになりました。つまりは、この時に早くも隠居したということでしょう。その翌年には「抱一」と号し(名乗り)、書、画、俳諧、それに吉原と、風流三昧の日々を過ごしました。
ちなみに「抱一」とは、『老子』の「是を以て聖人、一を抱えて天下の式と為る」から取ったようです。これは「聖人は道徳という最低限のものだけをしっかり抱えることで、人々の手本となる」という意味だそうです。
酒井抱一は「江戸琳派」のはじめ……のように言われていますが、尾形光琳に私淑し始めたのは、彼が40代前後の頃から、というのが定説です。とうの昔に尾形光琳は亡くなっているので、憧れを抱いて、心の師として仰いだということですね。
ただし、もともと酒井雅楽頭家には、尾形光琳が一時期仕えていたこともあり、家に残された光琳作品を幼い頃から観ていた……そんな可能性もあります。つまりは、強く意識するかどうかは別として、常に光琳が酒井抱一の中にいた……かもしれません。
■江戸の文化村・下谷(根岸)に居を構えた酒井抱一
出家した酒井抱一は、江戸市中を転々としたのち、文化六年(1809)に下谷金杉大塚村に引っ越しました。田んぼが広がり、静かな小川が流れる江戸の下谷・根岸に一庵「雨華庵」を建てて住み始めたのです。今で言うメトロの入谷駅(東京都台東区)の近くですが、当時は、鄙びた情感豊かな場所だったのです。また、吉原までは歩いて10分〜15分ほどで行ける上に、侍臣であり弟子でもある鈴木其一は隣に居を構えます。さらに親友の文人、亀田鵬斎の家とは目の鼻の先……御徒町の谷文晁の家からも歩いて20〜30分くらいの場所ということで、毎日を非常に楽しく過ごしていたことでしょう。(なお、谷文晁が生まれたのも根岸)
■酒井抱一らの下谷組と千住とのつながり
そうした酒井抱一らと交流があったのが、千住の俳人かつ絵師であった名士たちであり、今回の特別展『琳派の花園あだち』の主人公たちです。そして、千住の名士たちの知的好奇心を刺激していたのが、俳人かつ絵師だった建部巣兆という人。彼を中心に俳諧のグループが作られ、同展の解説パネルによれば「この後に続く足立の文人文化の土壌となる、第1世代を形成」していったと言います。
建部巣兆の千住グループと、隣町とも言える酒井抱一や亀田鵬斎、谷文晁らの下谷グループ(下谷組)とが繋がっていくのは、自然なことだったでしょうね。今回、自転車で走ってみて分かりましたが、下谷や根岸から千住までは、隅田川に架かる千住大橋を渡れば歩いても30分ほどです。隣町のような、同じ俳句や絵の同好2グループが「一緒に楽しいことしようぜ」となるのは当然です。
文化11年(1814)には、千住宿の料亭「八百善」の主人が、酒井抱一に依頼していた『洋犬図絵馬』を、西新井大師總持寺に奉納したという記録があります。翌文化12年(1815)は、酒井抱一が尾形光琳の百年忌の法会を行なった年です(どこで?)。さらに同年に開催されたのが、千住の坂川屋鯉隠が世話人となった千住酒合戦です。
……と、そろそろワールドカップの日本vsクロアチア戦が始まるので、酒井抱一も含めて、『琳派の花園あだち』については、明日以降に記します。
参考サイト:『NPO法人 江戸琳派継承会』
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