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幕府隠密の家系に生まれた絵師、川村清雄の『形見の直垂』 〜なぜトーハクは"次の国宝"に推すのか?〜

東京国立博物館トーハクの、本館2階の2室は、通称:国宝の部屋。通常は同館所蔵の国宝が展示されています。

この国宝の部屋ですが、先日まで開催されていた『国宝 東京国立博物館のすべて』の影響で、現在は、トーハク収蔵の中でも「次の国宝」という呼び声高い作品が展示されています。

そして11月下旬から12月25日まで展示されていたのが、川村清雄さんという画家の絵、『形見の直垂ひたたれ(虫干)』です。

正直、「誰ですか?」という作者の、見たことのない絵でした。(←単に無知なだけですけどね)。

川村清雄筆『形見の直垂(虫干)』明治32~44年(1899~1911)・東京国立博物館蔵

でも、調べていくうちに、この川村清雄さんという人も、その人が描いた『形見の直垂』という絵にも、面白いストーリーが隠されていることが分かりました。

まずこの絵は「川村清雄が、恩人ともいえる勝海舟(1823 ~ 99)の死を悼み、亡き恩人に捧げられた万感の思いを込めた絵」だと、解説パネルには記してあります。そのため、絵をよく見ると、勝海舟ゆかりの品が散りばめられています。

例えば構図の右側にある胸像は、勝海舟の胸像です。そのほか「和蘭絨毯や勝の朱の式服(礼服)、能装束、古代ローマの火皿」など、勝海舟の遺愛品が散見されるんです。

勝海舟がモデルと言われる石膏の胸像。写真の勝海舟と似ていますね

この絵の主人公とも言える、左側に居る少女が着ている白い装束。これは勝海舟の葬儀の時に、棺を運んだ川村清雄自身が着た、直垂ひたたれなんだそうです。

なぜこんなに勝海舟の私物を把握していたのか?

それは「恩人」の一言で表すには足りない、2人の濃い関係があったからです。

■なぜ川村清雄は、勝海舟の家で暮らしていたか?

川村清雄さんは、そろそろ江戸幕府が倒れるよという1852年に、幕府の御庭番の家系に生まれました。御庭番とは、いわゆる隠密……スパイということです。紀州和歌山藩の藩主だった徳川吉宗が、将軍になるにあたって引き連れてきた一団が、御庭番の始まりです。

川村家について知るためにも、まずは高明な祖父の川村修就(ながたか)さんについて教えてもらえますか?

「えぇと、御庭番はもともと下級の御家人でした。それが徐々に旗本になっていったのですが、うちの場合は曽祖父の頃に奉行に任命されています。さらにじいさまが、当時の老中だった水野忠邦様に取り立てていただいたんです。はじめは新潟奉行になり、じいさまは9年間を新潟で過ごしました。それまで新潟港は長岡藩が管理していたのですが、幕府直轄の天領となり、じいさまが初めて奉行に就任されたんです」

御庭番と言うと、将軍から直接命じられることがあったとはいえ、下級の旗本ですよね。それが地方の行政官になるなんて、大抜擢ですね。

「そうですね。私が生まれた頃には石高も1000とか2000とかになっていたはずです。城持ちではなく、参勤交代などもないうえに奉行の役料(特別給金)なども多かったようで、おじいさまは“殿”と呼ばれていましたし、わたしも“若様”でしたから、かなり裕福な家庭で育ったといえます」

新潟奉行だけでなく堺町奉行や大坂の東西の町奉行、遠国奉行の筆頭とされる長崎奉行にまでなられました。おじいさまは優秀だったのでしょうが、そもそも大抜擢されるような理由があったのでしょうか?

「その頃の幕府は、海防という目的もあって新潟を直轄にしたようです。おろしあ…今でいうロシアですね…に脅威を感じていたようなんですよね。それで砲術の心得もあったじいさまは適任だったのだと思います。新潟では、大砲を鋳造したり部下と一緒に砲術の演習を画策していたようです。実際には本格的な制度化までは至らなかったようですが…」

江戸時代の新潟は交易が盛んな港でしたよね。今もですが、新潟からはロシアのウラジオストクへ海路でつながっています。交易の拠点であり、情報の集積地でもある新潟を、幕府直轄として押さえておきたいということだったんですね。

「また抜け荷の問題もあったようです。じいさまも旗本とはいえ隠密……スパイですからね、本当かどうかは分かりませんが、『わしも新潟では飴屋に扮して、密偵したものじゃよ』なんて言っていました。そうした、祖父の隠密としての情報収集能力の高さと、全体を把握する能力が買われて、新潟奉行に抜擢されたんだと思います」

おじいさまの川村修就ながたかさんについて、ほかに記憶に残っていることはありますか?

「じいさまは、自身に対しては非常に厳しい方で、三河武士だったと言われています。でも、ひとに対しては温厚で、厳しくあたることはありませんでした。新潟で一度だけ部下たちに『全員を破門にする』と、今の表現でいうと “ブチ切れた”ことがあったようですが、それ以外にはいたって優しい方だったようです。一方、家では自室にこもって仕事をしていることが多かった記憶があります。じいさまは詩歌の趣味もあったので、それで忙しかったというのもありますね」

隠密の仕事というと、秘密が多かったと思いますが、その点で記憶に残っていることはありますか?

「ええ、じいさまの部屋には入ってはいけないと幼い頃からキツく言われていました。わたしにはとても甘い方でしたが、じいさまの部屋へ入ると、とても叱られました。そのため、自室で何をされていたのかや、御庭番としての詳細について、じいさまから直接教えられることは、ありませんでした。ただ後年に、じいさまが残した文書などを目にする機会がありました。いまその文書は、新潟市鄉土資料館に所蔵されていますが、それを見ると、各地域の様子を伝えるために、絵を描いているんですよね。また自身で描くのはもちろんですが、新潟や長崎、大坂や堺など、それぞれの土地の有名画家に描かせた絵も、家にはたくさんありました。それにわたしも幼い頃から絵の手ほどきを受けましたよ。もちろんそれは武家の嗜みたしなみでもあったので、はじめは住吉派や南画の絵師に習いました。ですが、うちは隠密の家系だったので、より写実性が求められていた気がします」

その頃からは谷文晁さんなど、少し洋画の影響も見受けられるようになった頃だと思います。おじいさまの川村修就ながたかさんも、そうした洋画の影響はありましたか?

「えぇと、そうですねえ、じいさまの絵の中に直接洋画の技法が使われていたかと言えば、目立って使われてはいませんでした。ただ、長崎奉行だったこともあって、洋物の絵はもちろん器なども家にあったんですよ。ほかの家とは違って、コーヒーや紅茶も飲んでいたし、使う器には洋画が描かれていましたね。そうしたものに触れて育ったので、わたしの中で、洋画が特別なものとか、まして奇異なものという印象はなかったです」

記録によれば、11歳の時に、洋学の開成所(蕃書調所)に入っています。その時から本格的に洋画を学んだということでしょうか?

「そうなりますね。開成所には川上冬崖先生や、明治になってから『鮭』という絵を描いた高橋由一先生などがいらっしゃっいました。今からすると完全な洋画とまでは言えませんが、先生たちが苦心して習得された洋画の基本を、学ばせていただきました」

高橋由一『鮭』東京藝大美術館蔵

画家になろうと思ったのは、この頃でしょうか?

「いえいえ、この頃はもちろん家を継ぐんだろうなと思っていましたよ。絵はあくまでも、御庭番として、習得しておくべき技術の一つでしかありませんでした。当時は今のようにデジカメやスマホもありませんから、隠密というかスパイにとっては必須の技術だったんですよ。絵を描くのは好きでしたけど、やっぱり頭の中では、旗本の一家として、徳川家のために尽くしたいという思いが強かったです」

勝海舟さんとの出会いは、いつ頃だったんでしょうか?

「勝さん…麟太郎おじさんですか? いつ頃からと聞かれると困るのですが、もう生まれた時からです。じいさまが堺の奉行になったのが、わたしが生まれた1852年なのですが、これは、大坂湾の海防を強化しようっていうことでの就任でした。その頃は日本の沿岸防備は手薄でしたから、外国船が来たら、恐怖でしかなかったんですよ。それをどう迎え討つのかって言う話です。じいさまは新潟奉行を9年勤めて、幕閣の中でも海防の専門家として知られる存在でした。一方の麟太郎おじさんも海防論者だったのは知っておられますよね? 当時はまだ若輩でしたが、その若輩の中では頭抜けた存在でした。それでじいさまが長崎奉行の頃には、長崎海軍伝習所を、旗本の永井様、それに麟太郎おじさんとで設立したんです。その後も、大坂奉行だったじいさまの元へ、麟太郎おじさんが教えをこうというか、意見しにくるような仲だったようです。じいさまが大坂東奉行になったのは、わたしが9歳の時だったのですが、じいさまが大坂へ赴任したときに、わたしも一緒に大阪で暮らしたんです。それで、毎日のように麟太郎おじさんが自邸に来られて、わたしをかわいがってくれました。だから、生まれた時から麟太郎おじさんのことは知っていますし、本当に幼い頃は、親戚の叔父だと思っていましたよ」

おじいさまの川村修就ながたかさんと勝海舟さんが、それだけの交わりがあったのは知りませんでした。その頃のこともあって、勝海舟さんは後年に記した『氷川清話』のなかで、かつていた優秀な4名の幕臣の1人に、おじいさまの川村修就ながたかさんを挙げていたんですね。また別の話としては、勝海舟さんが「川村清雄は俺の隠し子だ」と冗談を言っていたようですが、そういう冗談を言うほどの知り合いだったというのもうなずけます。

「ええ、麟太郎おじさんもですが、同じく幕臣で海防論者だった大久保一翁おじさんのお二人には、息子のように接してもらいましたし、感謝のしようがないくらいに本当によくしてもらいました。例えば大政奉還後に、徳川宗家は静岡の土地を与えられましたが、その時に多くの御家人や旗本が失業しました。けれどわたしは麟太郎おじさんたちの推薦もあって、静岡へ移られた徳川家達様の、奥詰……今でいう御学友ですね…その奥詰として側近くで仕えることになりました」

その後の明治4年、1871年には、徳川宗家の給費生5人の中の1人として、アメリカへ行くことになったそうですね。この時も、勝海舟さんなどの推薦があったのでしょうか?

「それは間違いないですね。麟太郎おじさんや一翁さんが、私を推薦してくれました。特に一翁おじさんには、アメリカへ旅立つ前に『迷わなくて何でも一つ是非やってこんぢゃならん。お前は絵が好きだから絵だけやって来ていいから、邪道に迷わないようにしろ』と背中を押されました。わたしは徳川宗家のために、どうにか役立つような人間にならなきゃいけないと思っていたんですけど、そう言われて『絵を描き続けてもいいんだな』って思えて、とてもうれしかったのを覚えています」

その後はアメリカ、フランスのパリ、イタリアのヴェネチアへ渡って、絵を学んでいった?

「そうです。それまでにも開成所の高橋由一先生などに洋画を習ったことがありましたが、やはりそれは日本人が見よう見まねで描いた洋画なんですよ。自分のものとしていたわけじゃなかったし、真似でしかなかった。それに洋画といっても、『The 洋画』という何か一つの形があるわけじゃありません。そうした様々なことを、各国の文化に浸りながら学ばせていただきました」

結局、明治14年、1881年までの10年間を海外で過ごされました。その中で、最も印象に残っている場所や人はいますか?

「そうですねぇ、初めての異国だったアメリカでの数年もとても刺激的だったし、多くの才能が集まるパリでの暮らしも楽しかったです。ただ一つを挙げろと言われると、イタリアのヴェネチアがふさわしかろうと思います」

川村清雄『ベニス』東京国立博物館蔵

たしかに、ヴェネチアの風景画は、日本に帰ってきてからも多く描いていますね。それだけヴェネチアの風景が気に入っていたのでしょうか。

「ヴェネチアではスペイン画家のマルティン・リコさんという画家との出会いが大きかったです。私が勝手に師匠として仰がせていただきました。スペイン人なのですが、パリやヴェネチアなど、あちこちを巡られていた方で、そのリコさんもヴェネチアの風景をたくさん描いていたんです。そんなこともあったので、ヴェネチアの街に愛着があるし、特に風景画については、私はリコさんの影響を強く受けています」

マルティン・リコ『ヴェネツィアの風景 (1894)』
Wikipediaより

そのリコさんからは、清雄さんが帰国される時に、後まで影響を与える言葉をいただいたと聞いています。どんな言葉だったんでしょうか?

「そうですね、日本人のオリジナリティを忘れるなということ、日本人らしい、日本人のオリジナリティを活かした絵を描き続けなさいと言われました」

日本人としてどんな絵を描くべきかの問いを授けられて、10年ぶりに日本へ帰国したわけですね。それからは、順風満帆とは言えない人生でしたが、苦しかったでしょうか。

「帰国したのが29歳の時でした。お恥ずかしいことに、それまで仕事らしい仕事をすることもなく、なんらお金に困ることもありませんでした。絵を学び、絵のことだけを考えて生きていたわけです。それが日本に帰ったら、まずは稼がなきゃいけなくなったんです。それが辛かったというか、戸惑いました」

それでも帰国後に一旦は、大蔵省の印刷局で働き始めました。

「それもツテで勤めさせていただいたのですが、やはりお金のために働くというのが、どうにも……。また、お雇い外国人のキヨッソーネさんとも馬が合いませんでした。私も若かったし、ちょうど『日本人としてどんな絵を描くべきか』を考えていたこともあって、仕事で描いたり彫る絵に面白みを感じられずにいました。結局、1年後には、同僚数名の技工と一緒にクビになってしまいました」

それで今風に言えば、路頭に迷ってしまったわけですね。その時にも勝海舟さんに助けられたんでしたっけ?

「そうです。もう自分だけでは生活力がない。悲しいくらいにないわけです。それで自暴自棄の放浪生活をしている時に、麟太郎おじさんに救い出されました。『どうせ続かねぇと思ってたぜ』と笑われて、『これからはいっぱしの画家先生にでもなっておくれよ』と言われて、麟太郎おじさんの自宅に居候して絵を描いていました。徳川宗家などのクライアントも麟太郎おじさんが見つけてきてくれて、なんとか画家としてやっていくことができました」

勝海舟の自宅に居候というのがすごい話ですが、居心地は良かったんですか?

「それがですね……私が絵を描くのが遅いための自業自得なのですが、徳川宗家から依頼された絵を、麟太郎おじさんと顔を合わせるたびに『まだ描けないのか?」と催促されるもので……とても居心地は悪かったですよ(笑)」

かなり描くのが遅くて、勝海舟さんも焦っていたんでしょうか?

「ああ見えて麟太郎おじさんって、ちゃんとした人なんですよね。自分が紹介したのに、なかなか作品が上がって来ないっていうので、迷惑をかけてしまいました」

当時は、どんな絵を描いていたんでしょうか?

「徳川のお歴々の肖像画を描いていました。今でも徳川宗家の德川記念財団に所蔵いただいていますが、昭徳院さま(徳川家茂)、有徳院さま(徳川吉宗)、温恭院(徳川家定)さま、それに徳川慶喜公などです」

昭徳院(徳川家茂)と、天璋院の篤姫さんの肖像画を完成させた時には、勝海舟さんが、そうとう怒っていたそうですね。

「えぇ、月に30円をいただいていたんですけど、発注からかなりの時間が経っていたんですよね。どうしたって、既に亡くなっている方を描くのは難しいです。特に家茂公をご存知の方も生きていらっしゃいますから。そうした人たちに話を聞きにいき、容貌はもちろん、所作や習慣まで聞いてまわりました。それから全体をどんな雰囲気にすべきか、背景をどうするかなどを試行錯誤していたら、どんどん時間が経ってしまいました……まぁすべては言い訳なのですが……」

いや言い訳とまでは言い切れませんよね。だって、その頃の川村清雄さんは、まだ画家としては新人だったわけじゃないですか。それが、徳川宗家からの大事な仕事を請けたのですから、慎重にもなりますし、プレッシャーにも感じますよね。でも、結局はできたんですよね。

「できました。それで麟太郎おじさんに、完成したので一度見ていただきたいとお願いしたら、『お前の絵なんぞ見なくてもいい。はらわたが腐った奴は絵なんぞ描いたって駄目だから、腹切って死んでしまえ』と言われました。『腹は切りますけれど、どうぞ絵をご覧くださいまし』と重ねてお願いしても、『そんなものは全てこわしてしまえ』と……もうダメで。その時に持っていった絵の中には、家茂公と麟太郎おじさんの絵がありました。それで「壊すことは壊しますがこの中には、将軍の御画像もあるし、先生のものもありますから、二枚だけは私の手で破ることはできません。これはどうしていいのか伺います』と何度もお願いすると、やっと『お見せっ』と言って、顔を向けてくれました。絵を見ながら『お前は十四代将軍(家茂公)に、何度か拝謁していたのか? (川村)清雄はずるいよ、こんな絵を持ってきたら、もう何も言えないじゃないか』と……それで徳川家に持っていくように言われました」

川村清雄『江戸城明渡の帰途(勝海舟江戸開城図)』
明治18年(1885)江戸東京博物館蔵(Wikipediaより)

徳川宗家では、徳川家茂公の肖像画が、とても話題になったそうですね。

「持っていった時には、だいぶお待たせしていたので、みなさん不機嫌そうな表情でしたが、絵を見せると家茂公のおっかさんなどは『本当に菊千代(家茂の幼名)に似ていますね』と何度もおっしゃって、喜んでいただきました。それでお名前は忘れましたが、(お手伝いさんのリーダー)家令を呼んで、絵を見てみなさいと。そうして家令が絵を見ると『本当に似ていますね。川村さんは家茂公とお会いしたことがないのに、なんでこんな絵が描けたんでしょう。雰囲気までそっくりじゃないですか」とおしゃっていただきました」

川村清雄『徳川家茂公肖像画』徳川記念財団蔵

そこまで歓迎してもらえたのなら、推薦した勝海舟さんも一安心だったでしょうね。

「えぇ、徳川宗家から帰宅してすぐに麟太郎おじさんに、様子を報告しました。するとおじさんも喜んでくれて『お前は余程運がいい男だ。あれが似ていたんで命が続いたわい』と言って喜んでくれました。その後ですね、庭に私のアトリエを建ててくださったんです」

まるでお父さんのような存在だったんですね。

「まさに父親のようでした。生まれたときから私のことを見てきているので、実父よりも付き合いが長いことになります。もしかすると、私以上に私のことをご存知だったかもしれません」

そんな勝海舟さんが、明治32年、1899年の1月19日に亡くなりました。その時は、どんな気持ちでしたか?

「麟太郎おじさんには多くのクライアントを紹介してもらっていたので、既におじさんの家を出ていました。当時は洋画と言えば、薩摩出身の黒田清輝さんの作風が正しいとされていたんですよ。東京美術学校も薩摩と佐賀出身の人たちが教授陣でしたからね。つまり外光派です。それで旧幕派とも言える私たちは、あまり目立たなかったんです。でも、そのおかげもあって、幕臣だった人たちからの絵の発注が来て、忙しくしていました。そんな時に、麟太郎おじさんの訃報が届いて……なんと言っていいでしょうかね……もうただただ涙が流れてきました。あまりにも私の中で、麟太郎おじさんの存在が大きかったものですから」

そうして勝海舟さんの葬儀は2日後の1月21日に執り行われました。川村清雄さんは、白い直垂ひたたれを着て、棺を運んだんですよね。

「そうです。仏式だったのですが、神輿を担ぐように数人で担いで運びました。雪が降る中でしたので、足などが冷たかったはずなのですが、不思議と寒かったという思い出はありません。ずっと麟太郎おじさんのことを考えながら青山までの道を歩いていました」

当時の写真が残っていますね。雪の中で沿道にも多くの人たちが見守っています。雪にも関わらず、2,000人の会葬者がいたそうですね。川村清雄さんが白い直垂を着ている写真も、江戸東京博物館に残っていますよ。そして、葬儀の直後から、『形見の直垂(虫干)』を描いていらっしゃいましたよね。

「えぇ、しばらくは絵を描く気にもなれなかったのですが、画家であれば、この哀しい気持ちや人を想う心持ちを、絵に閉じ込めるべきだろうと思って、描き始めました。誰かの依頼で描いたものではなく、画家としての自分が、自分のために描いた作品です」

実際、誰にも手渡すことなく、生涯手元に置いておいたそうですね。

「はい。ヴェネチアから帰ってきて以来の課題だった、日本人である自分が描く絵とはどんなものなのか、という課題にこの作品で答えを出したいとも思っていました。たいはんは完成していましたが、たまに見ては手を加えていったんです」

『形見の直垂(虫干)』は、川村清雄さんが亡くなってから、帝室博物館が1,000円で買い取って、今でも大切にされていますよ。わたしも、今年の12月に初めて見ました。

「今でも博物館で多くの人に見ていただけるなんて、ありがたいことです」

こうして画伯のことを調べていたら、なんとなく川村清雄さんの、というか『形見の直垂(虫干)』の凄さのようなものが分かってきたような気がします。川村清雄さんの伝記を記した木村駿吉さんは『稿本』で、画伯について次のように人柄を評しています。

日本の畫界は謂れなく(川村清雄を)除けものにしてゐるが、一日として筆を執り想を練らぬことなく、世界美術史の何枚かを書きつゝある。

木村駿吉『稿本』

令和の今、川村清雄さんは、誰もが知る画家とは言い難い存在です。でも、大正から昭和にかけては、新聞にもプライベートな事柄が記事になり、初めての子供が生まれた時には祝福し、愛情を込めて画伯を奇人変人と称しています。穏やかな性格だけれど絵については持論を一歩も引かず、黒田清輝さんのような権威とも平然と対峙する。判官贔屓もあったのでしょうが、愛されていた理由がわかります。川村清雄さんの代表作は他にもありますが、『形見の直垂(虫干)』も、画伯が精魂を込めた一作だったことは間違いありません。また「日本人が描くべき油絵とは?」というテーマは、明治から昭和期の多くの画家が掲げていただろうと察します。その逡巡と解への道程が、よく現れている作品のような気もします。そう考えると、東京国立博物館が、重要文化財にも指定されていない今作を、"次の国宝"に推す気持ちも分かりますね。

■未整理の細部

勝海舟の葬儀の際に川村清雄が着た直垂。それを着る少女
灰皿?
胸像の下にあるのは、古式の棺だと言います。その側面には『地獄絵図』が描かれているとか…(視認できませんが)。
どこかのWebサイトに、川村清雄は生前に勝海舟と「棺には地獄絵図を描く」と話し合っていたと書かれていました(情報源は分かりません)。



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