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2つの美術館をハシゴ……半蔵門ミュージアムから東京国立近代美術館の常設(MOMATコレクション)に寄って、大充実なアートライフ!

土曜日の午後1時……家族からの一人行動の許可が出たため、半蔵門ミュージアムという謎な美術館へ行ってきました。ここは、真如苑という仏教系の宗教法人が運営する、こじんまりとしたミュージアム。これまで仏像など様々な仏教関連の展示品をnoteしてきましたが、わたし自身は特に仏教信者でもありませんし、ゆる〜く神道系なのかなと思っているくらいです。そのためもあってか、むしろ宗教って聞くと、怪しいさを感じざるを得ませんが、こればかりは育った環境のせいだと思うのでお許しいただきたいです。そして、全く怪しい施設ではなく、勧誘なども一切、ありませんでした(って、知っている人からすれば当たり前なんでしょうけどね)。

半蔵門ミュージアムへ行こうと思ったのは、毎月のように開催されている講演会があったからです。

ほぼ寝起きの格好に、下だけは長ズボンに履き替えて、半蔵門へ行きました。講演会は、既に定員オーバーということで入れず、残念に思いつつミュージアムで展示品を見て回っていました。すると、先ほど断られたばかりのスタッフの女性から「席が空いたのですが、講演をお聞きになりますか?」と、とても丁寧に聞かれて、公演会場へ導かれました。

講演会のこの日のテーマは、『江戸歴史文化講座「関ヶ原・大坂合戦をめぐる悲哀」』というもので、同館の学芸員の岡崎寛徳さんが講師でした。詳細については、YouTubeにアーカイブがあるので、興味があればご覧ください。(7月15日(土)までしか見られません)

講演会が終わった後には、改めて展示エリアへ行きました。先ほど、チラッと見た時にも思ったのですが、数は少ないのですが展示品がすごいです。

特に重要文化財にも指定されている、運慶作? の《大日如来坐像》については、息を呑みましたし、思わず手を合わせてしまいそうになりました。実際に手を合わせている方もいて……なんだか申し訳ない気持ちになりました(わたしのように美術品としてジロジロと鑑賞しているのは、よこしまな感じがしたためです)。

あくまで運慶が作ったんだろうと推測されている、その大日如来坐像は、とても素晴らしいものでした。足利氏の鑁阿寺(ばんなじ)の、かつて奥の院と呼ばれた樺崎寺(かばさきでら)に由来する像だと言います。もう少し詳しい話を、同館館長のお話が、サイトに載っています。1度読みましたが理解できなかったので、また後日に読みたいと思います。(さらに、この大日如来さんには兄弟像のようなものがあり、同じく足利市内の光得寺に伝わっています。それが東京国立博物館に寄託されているそうです。2008年には、トーハクで、この2躯の大日如来坐像が同時展示されたという……感動の再会を果たしたわけです。そのプレスリリースに、2躯の写真があったので、興味があれば確認してみてください)

なお、この《大日如来坐像》は、360度から見られる単独のガラスケースに安置されています。このガラスケースが、秀逸でした。こんなガラス素材があるのか!? って驚くほど、光の反射が少ない上に、透過率がむちゃくちゃ高い。どういうことかと言えば、ガラスが存在しないかのように、クリアに坐像が見られたんです。わたしはそれほど多くの博物館や美術館を知っているわけではありませんが、おそらく最高峰のガラスケースなのではないかと思います。

また、その隣にある平安時代作の《不動明王坐像》も圧巻ですし(ガラスケースなどは無し)、それよりもじっくりと見てしまったのが、覚仙さんという方によって江戸時代の1706年に描かれた《両界曼荼羅》2点です。胎蔵界と金剛界が、それぞれ描かれています。

曼荼羅は、東京国立博物館(トーハク)でもおなじみなので、何度か見ています。ただ、わたしが近視なうえに、反射の多いガラスの向こう側に架けられているため、肉眼でも写真に撮っても、詳細まで見られないんですよね。今回、半蔵門ミュージアムで、ガラスを通さずに目の前にすることができて、少し曼荼羅の世界に近づけた気がしました。

そのほか何幅かの明王像なども、ガラス無しで見られるという……なんとも贅沢な博物館でしたね……。

半蔵門ミュージアムについては、これほど多くを語る予定ではなかったのですが……書いていたら、やっぱり長くなってしまいました。なお、館内は撮影禁止です。

■東京国立近代美術館へ寄ったら……志村ふくみさんの作品を発見

半蔵門を出て、竹橋まで行くことにしました。東京国立近代美術館へ寄るためです。既に日も傾き影が長く伸びています。そんなビルや木の陰を忍者のように伝って、時々草花を撮りながら歩いていきました。

同館に着いて思い出しました……特別展『ガウディとサグラダ・ファミリア』が絶賛開催中でした……。そして想像以上に混雑していることにおののきました。これって、常設展(MOMATコレクション)も混んでいたら嫌だな……と。

ちなみに、特別展『ガウディとサグラダ・ファミリア』については、下記サイトに寄稿させていただきました。どうまとめれば良いのか、四苦八苦しました…短くまとめるのが苦手でして……。

さて、MOMATコレクションに関しては、チケットを買うための行列もなく、もちろん入館するための行列もありませんでした。デートであれば、MOMATコレクションの方がおすすめですが……まぁ「ガウディ展に行こうよ」と言う方が、誘いやすいかもしれませんね。やっぱり「MOMATコレクションを見に行こうよ」だと、ひきが弱いのは否めません。

ということで、MOMATコレクションも大混雑しているんじゃないか? というのは杞憂でした。ガラガラとは言いませんが、あれだけ特別展が混雑しているのに、誰もMOMATコレクションへは寄らないもんなんですね。まぁ、入館前にけっこうな時間、並んでいたようなので特別展を見終わったら「もう帰ろうか……(ヘトヘト)」となる気持ちもよく分かります。

ということで、わたしが印象的だったMOMATコレクションの作品を何点か……というのはウソで、たくさん写真で紹介していきます。

やはりわたしは日本画を眺めていると気持ちが落ち着きます。尾竹竹坡《おとづれ》の前に立った時に、それまでダラダラと流していた汗が、スーッと引いていくのが分かりました。

尾竹竹坡《おとづれ》明治43年・1910年
尾竹竹坡《おとづれ》明治43年・1910年

特に草花だけの右隻に惹かれるものがありました。尾竹竹坡さん……わたしは全く聞いたことのない方なんですけれど、きっとすごく有名な方なんでしょうね。

尾竹竹坡《おとづれ》明治43年・1910年
尾竹竹坡《おとづれ》明治43年・1910年

それに対して原田直次郎さんの《騎龍観音》は、存在感が大きすぎて……ちょっと真夏の暑い日に対面するのには向いていないな……と。もちろんわたしのごくごく個人的な感想ですので、お許しください。冬に見たら……いや寒くなる前に対面しても、また異なる印象を抱くかもしれません。きっとわたしのアート力が未熟なせいでしょう。

原田直次郎さんの《騎龍観音》
藤田嗣治《パリ風景》

ミーハーなわたしは、最近……いまさらw……藤田嗣治さんに大注目です。この《パリ風景》は、落ち着いた感じで良いですね。1917年3月、カフェで出会ったフランス人モデルのフェルナンド・バレエと2度目の結婚をした彼が、1918年に描いた作品です。絵も売れ始めて、フランスでブイブイ言わせ始めた頃の作品……にしては、ずいぶんと落ち着いた作品だったんですね。

藤田嗣治《パリ風景》部分

ちなみにその隣には、岸田劉生さんの《道路と土手と塀(切通之写生)》が架けられていて、特に混雑もなく独り占めできるという贅沢さでした。《騎龍観音》もですが、特別展『重要文化財のひみつ』では、あんなに混雑していたのに……やはり特別展って重要ですね。

杉浦非水さん3作品

次の部屋へ行くと、「わぉ!」って感じでした。知ってる知ってるw わたくし、時々ですが銀座線にも乗るので、この方のポスターをよく見かけましたよ。特に真ん中のやつ! 大好きです!

なのですが、杉浦非水さんというお名前を初めて知りました。東近美のサイトで、この方の作品群を見たら「えぇ! あのポスターも描かれていたんですね! わたし本当に大好きでしたぁ!(名前も知らなかったくせにw)」という感じです。(《東洋唯一の地下鉄道 上野浅草間開通》の2作品です)

杉浦非水《上野浅草間開通 科学の粋をあつめた地下鉄道》1927年・昭和2年

杉浦非水さんの絵に一直線に近寄ったので、その隣の絵を通り過ぎてしまっていましたが、織田一磨さんという方の絵も素敵ですね。なんだか外国の風景のようですけど、東京の銀座です。かつては、こんな素敵な町並みだったのかと……幻想を抱いてしまいます(今も素敵な街ですけどね)。

織田一磨《「新東京風景」より 銀座(6月)》大正14年・1925年
織田一磨《『画集銀座』より 銀座千疋屋》昭和3年・1928年

そ、そして……その後ろには、平台ケースに収められた前田青邨や下村観山、小林古径さんら、日本美術院の人たちによって描かれた《東都名所》です。豪華過ぎます……というか、これってトーハクにあったものではw?(←そう思っただけで、なんの根拠もありません)

関東大震災の前年、大正11年・1922年に描かれた浅草十二階やニコライ堂も収められている、1922年に描かれた原画を1925年に複製?した画帖です。

日本美術院同人・下村観山《「東都名所」より 日本橋》
日本美術院同人・前田青邨《「東都名所」より 大根河岸》
日本美術院同人・小林古径《「東都名所」より 銀座》
日本美術院同人・山村豊成《「東都名所」より 佃島》

きちんと各部屋の企画趣旨を読まずに巡っていたのですが、どうやら戦前の東京をテーマとした作品群だったようです。そして次の部屋では、同じく大正昭和(前期)のプロレタリアート作品が展示されていました。

以下はもう、どこに展示されていたのか忘れましたが、いいねこれ! っていう作品たちです。

少し前までは「わけの分からん絵ばかりだな」と思っていたパウル・クレーも、同館で複数作品を見ていくうちに「あれ? もしかすると勘違いかもしれないけど、けっこう良いんじゃないかい?」なんて思うようになりました。慣れって怖いですねw

それにしても東近美はパウル・クレーが好きな担当者がいるんですかね。けっこう買ってますよね?

パウル・クレー《山への衝動》1919年・昭和14年
パウル・クレー《花のテラス》
藤田嗣治《五人の裸婦》1923年

解説パネルには「五人の女性はそれぞれ、布を持つ=触覚、耳を触る=聴覚、口を指す= 味覚、犬を伴う=嗅覚と、人間の五感を表す とも言われます。中央を占める女性は、絵画 にとって一番重要な視覚というわけです」とありますが……まさかね……「見ざる聞かざる言わざる」的な感じなんですかw?

じょじょに昭和作品が多くなってきました。こうなると、ちょっとわたしの美術感覚ではついていけません……でも、空間としてはとても居心地が良い場所ですね、東近美って。

次の北脇昇さんの作品は、どの部屋にあったのか忘れましたが、わけがわからないけれど、なんかいい……という感じでした。この方、ほかの作品で、見てみたい作品が出てきました。《クォ・ヴァディス》です。

北脇昇《影(観相学シリーズ)》
藤田嗣治《武漢進撃》1938-1940年

いよいよ日中戦争が勃発した昭和10年代ですね。藤田嗣治さんも積極的に……なのか分かりませんが、少なくとも嫌で仕方ないという感じではなさそうなくらいには、積極的に従軍画家として活躍しています。

山田五郎さんのYouTubeチャンネルによれば、この頃は「彩管報国」が唱えられて、画家も絵筆でお国に奉仕しようじゃないか! という機運が高まっていたようです。もちろんイヤイヤ参加していた画家たちもいたでしょう。けれど1938年頃は、まだまだ日本軍が快進撃していた時期。ウクライナへ侵攻した当時のロシアのように「いけいけ!どんどん!」という雰囲気が、国民の間で広がっていたとしても不思議ではありません。

藤田嗣治《武漢進撃》1938-1940年

こういう絵には、昔、けっこう親しんでいたので、嫌いじゃないというか好きな方です。藤田嗣治さんも、この艦隊に乗って居た時には、その頼もしさに心を踊らせながら、この絵を描いたのではなかったでしょうか。

だって「ハヤブサ、カササギ、ヒヨドリ……」なんて、艦名まで詳細に記していますからね↓

藤田嗣治《武漢進撃》1938-1940年

その隣にドドーン! と架けられていたのが、川島理一郎さんの《新生比島建設》です。解説には何も記されていなかったので、テキトー解説すると、日本帝国の陸海軍がフィリピン島へ進撃。1942年5月に、マッカーサーが「I shall return」と捨て台詞を言って、退却したあと。さぁ、陸海軍でどう役割分担して同島を運営していくか? というのを相談した会議でしょう。この頃、東條英機さんが視察に来ているので、その時の様子なんでしょうね。

真ん中に東條さん、そして向かって右側は、マレーの虎と言われた山下奉文(ともゆき)大将……かなぁと。

この作品、ものすごく大きな絵でした。東條英機さんが正面ということで、おそらく帝国陸軍が発注したものなのでしょう。ということは、東近美の近所にある旧・工芸館でもある旧・近衛師団司令部庁舎に飾ってあった……なんてことだったら面白いなぁと(←勝手な想像です)。

川島理一郎《新生比島建設》
旧・近衛師団司令部庁舎

■閑話休題……東近美のインテリア

特に美術館の話ですが、インテリア……展示室内や休憩エリアに置いてあるイスやソファが、選びぬかれているというか有名デザイナーの製品が置かれていることが多いですよね。

東京国立近代美術館もそうで、疲れたからとか休憩したいからとかではなく、このイス、前から座り心地が気になっていたんだよなぁという感じで腰掛けてみることがあります。

以下は、わたしのなかでは有名な、天童木工のバタフライスツール。よくスツールだけが置いてありますが、こうしてカラフルなクッションがあると、さらにシャレオツ感がアップしますね。

下のは、東京国立博物館の法隆寺宝物館に置いてあるイスと同じかなぁ。

下のイスもかなり有名……わたしのなかで……なのですが、名前が出てこない……。

これは東京国立近代美術館でしか見たことがありませんが、畳と、なんかのスツール……セットで置いてありますが、同じ方がデザインしたのかな? っていうくらいにコンセプトがぴったりですね。

ということで、その畳セットのある部屋に架けられていたのが、こちらの作品。小畠鼎子さんの睡蓮を描いた《雨の輪》です。この季節にぴったりな絵ですね。実際に上野の不忍池で睡蓮を鑑賞した時には熱くてしかたありませんでしたが、美術館の中でみると、なんとも涼やかな花です。

小畠鼎子《雨の輪》1957年

その隣の下の作品も、ほんわかして良い作品でした……が、作家や作品名を記録し忘れました……作家さんに、すみませんです。

そして、その逆の隣にポツンと展示されていたのが、なんと志村ふくみさんの着物でした。部屋をうろうろして全ての作品を見たのですが、最後まで見ていなかったのが、この着物でした。ごめんなさい、着物にまったく興味が湧かず……。でもなぜ着物が? という違和感を感じて近づいていったら、あの志村ふくみさんの作品だったんですね。

わたし、着物には興味がないのですが、生地は好きなんですよ。で、特に志村ふくみさんの随筆……その中でも特に『色を奏でる』が大好きで……内容はよく覚えていないんですけど……何度も読みました(3〜4回)。

紬織着物《七夕》
紬織着物《七夕》
紬織着物《七夕》
紬織着物《七夕》
紬織着物《七夕》

以下は新収蔵品の池田蕉園さんの《かえり路》。あわせて、同作の下絵っぽい素描帳が展示されていました。こちらの素描帳は、トーハクから引き継いだものだそうです。

池田蕉園《かえり路》1915年・大正4年

同作と素描帳がセットで置いてある意味が、こちらのサイトで説明されているので、見ておくと面白いです。

池田輝方、池田蕉園《素描帳》1915年・大正4年

《素描帳》の全ページが、4Kの動画で見られます。すばらしい! のですが、白黒なのが残念……。

池田蕉園さんの《かえり路》の、展示室の真逆の場所(部屋の入口近く)には、池田蕉園さんと同時代に二大女流画家(島成園さんを加えて三大)として活躍した上村松園さんの《静(しずか)》が架けられています。

東京国立近代美術館の解説パネルは、作品もしくは作者のエピソードが記されていて、どれも面白いです。《静》のパネルもそうで、ここで引用させていただきます。

「吾妻鏡』によれば、捕えられ、鎌倉で源頼朝に歌舞を強要された静御前は、意地をとおして義経を慕う歌を舞ってみせたといいます。描かれるのは、舞仕度を調えいままさに頼朝の面前で歌舞を披露しようとする静の姿です。上村松園はこの意志の強い女性を好んで画題にとりあげました。一方、描かれた時代に注目すると、「武士の花」、「武士道の権化」(黒板勝美 『義経伝」1914年)と称揚された義経が、盛んに絵画化された時期にあたります。その愛妾である静を描くのは、女性画家に期待された役割だったかもしれません。

解説パネルより

下の津田青楓さんの《出雲崎の女》は、作品自体がどうのこうのではなく、解説パネルに記されていた内容が面白かった作品です。解説パネルを写真に撮って、作品の写真を撮り忘れそうになりました。

出雲崎は、新潟県のほぼ中央に位置する日本海に面した町です。1922(大正11)年にこの地を訪れた津田青楓は、投宿した旅館の娘の容貌に惹かれ、モデルになってくれるよう頼みこんでこの作品を描いたそうです。装飾的なソファやモデルの持つ扇子、開きかけの本、黒猫など、手の込んだ構成からは津田の力の入れ様がうかがわれます(窓の手すりの向こうに見えるのは佐渡島です)。寺田寅彦の「震災日記より」によると、震災当日、寺田と津田が二科展会場の喫茶室で話題にしていたのが、まさにこの絵でした。

ツボだったのは上記した解説の太字部分です。「ほぅほぅ、そうなんですね」なんて解説を読んでから改めて作品を見てみると……女性の裸じゃないですか!? え?って思って、もう一度解説パネルに目を移します。

「投宿した旅館の娘の容貌に惹かれ、モデルになってくれるよう頼みこんでこの作品を描いたそう」

いやいやいや……こんなサラァッと裸になってくれる女性っていますか!? 今とは時代が違うのかな……。

津田青楓《出雲崎の女》1923年・大正12年

で、津田青楓さんは、どんだけイケメンだったのかと気になって、写真や自画像がないかとググってみましたが、ありませんでした。その代わり、同じように「面白かったのは本作に付随したエピソードです」って書いている人がいて、「そりゃそうだよなぁw」と思いました。

そして、このエピソードの真相がもっと知りたくなり、解説パネルに記されている、(夏目漱石の門下生で理学博士の)寺田寅彦の「震災日記より」を読んでみました。全文がとても短い文章ですが、その中から該当箇所のみを下記に抜粋します。

九月一日 (土曜)
 〜(前略)雨が収まったので上野二科会展招待日の見物に行く。会場に入ったのが十時半頃。蒸暑かった。フランス展の影響が著しく眼についた。T君(津田青楓)と喫茶店で紅茶を呑みながら同君の出品画「I崎の女」に対するそのモデルの良人(おっと)からの撤回要求問題の話を聞いているうちに急激な地震を感じた。〜(後略)

青空文庫より

上記引用の文中にある「フランス展の影響が著しく眼についた」というのは、この年は、ピカソやブラック、マティスらフランス現代画家の作品40余点が特別展示されていたことを指しているのでしょう。また同時開催される予定だった院展では、横山大観の《生々流転》が展示された年でもありました。そこは見なかったのか、あまり話題にはならなかったのかもしれません。

上記引用部分の続きを読むと、喫茶店にいた寺田寅彦さん以外の人たちは、みな外に飛び出していって、店内はガランとしていたそうです。彼だけは、地震による建物の揺れを分析し「この建物なら安心」と分かったら、怖さもなくなったと記しています。

それは良いとして《出雲崎の女》でモデルを務めた女性は、既婚者だったようですね。そして、そのモデルの夫が、津田青楓さんに「撤回要求」をしていたと。そりゃあ夫だったら色々と怒りたくなりますよね。それで何かを「撤回」するように津田青楓さんに要求したと。ストレートに考えると、《出雲崎の女》という作品を、展示しないでほしいと要求したのか……。それ以上のことは、少し調べただけでは判明しませんでした……残念。

横尾忠則《宮崎の夜―眠れない家》2004年
マルク・シャガール《コンサート》1974-1975年
マルク・シャガール《コンサート》(部分)1974-1975年
マルク・シャガール《コンサート》(部分)1974-1975年

以上、たいへん充実した博物館のハシゴだったので、noteも長くなってしまいました。もし最後まで読んでいただいた方がいたとしたら、本当に感謝いたします。

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