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【らんまん】イチョウの精子を発見した野宮さん(平瀬作五郎)のその後……あの(来週登場予定の)南方熊楠とも共同研究をしていた!

先週の、NHKの朝のテレビ小説『らんまん』では、平瀬作五郎……劇中では野宮さん……がイチョウの精子を発見するという業績が語られていました。

7月上旬に、小石川植物園へ行った時の様子は、以前noteで記しました。とても暑い日でしたが、木々が茂る園内は意外と涼しくて気持ちよく、柴田記念館で、牧野富太郎さん関連の資料も見て回りました。

柴田記念館を出てから少し歩くと、左手に、地方にあるバス停のような小屋がありました。フラッと立ち寄ると、小屋の端っこに、引き伸ばされた一枚の古い写真が掲示されています。近寄ってみると、大きなイチョウの写真の下に「精虫発見ノ資料トナリシいてう(いちょう)」と記されています。

この時に、日本の東京の牧野富太郎さんともゆかりのある小石川植物園で、世界で初めてイチョウに精子があると分かったのだと知りました。

その時は深く調べもせず「ほほぉ〜」なんて思っただけでしたが、『らんまん』を観ていたら、精子を発見するシーンが出てきて……「えぇ〜! あのイチョウの精子を発見したのって、野宮さんだったんだぁ〜!」と、いきなり野宮さん……平瀬作五郎さんが身近の人のような親近感が湧きました。

小石川植物園のバス停のような小屋の中に貼ってあった写真

ということで、今回は平瀬作五郎さんについて、どんな人だったのかをWikipediaや植物学会Webサイトの法政大学生命科学部教授・東京大学名誉教授 長田敏行先生の記事などを参照しつつ、振り返ってみることにします。


■イチョウの精子発見までの平瀬作五郎(野宮)さん

平瀬作五郎さんは、江戸幕末の1856年に越前(福井)藩士の長男として生まれました。平瀬さんが育った時代の福井藩主は、天下の四賢侯と呼ばれた松平春嶽でしたので、藩全体として教育が盛んだったのではないかと思われます。13歳前後で明治維新となり、1872年に福井藩中学校へ入学し油絵を学びます。卒業後は同校の図画教授助手となり、翌年には上京して写実派油絵を学びました。1875年に岐阜県中学校の図画教授となり、約13年間を過ごします。

1888年……32歳前後で、帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)植物学教室の画工になります。これは絵を描くのが苦手だった矢田部良吉教授が、友人の(堀誠太郎または内藤誠太郎)から、当時は岐阜県中学校(岐阜県農学校?)で先生をしていた、平瀬さんを推薦されたためだったそうです。広瀬さんは、はじめこそ植物画を描くだけでしたが、じょじょに植物学に興味を抱くようになり、5年後の1893年にはイチョウの研究を始めました。

その2年後の1896年には、イチョウの精子を世界で初めてプレパラートで確認。『らんまん』劇中では、発見時に、波多野泰久こと池野成一郎と抱き合って喜びあっていましたね。実際にも、平瀬さんが「これって寄生虫でしょうか? まさかイチョウの精子ではないですよね?」と、助教授だった池野さんに尋ねたところ、池野さんがひと目見て「これは精子だ!」と直感したとか。

その後1896年10月に、「いてふイチョウ精虫せいちゅうついテ」という論文を『植物学雑誌 第116号(10月20日発行)』に発表。世界で初めての裸子植物における精子の発見となりました。

植物学雑誌 第116号『いてふの精虫ニ就テ(イチョウの精虫について)』

↑ NHKの教育サイトでは、イチョウの精子が泳ぐ様子が見られます

『らんまん』では、イチョウの精子を発見した直後に、植物学教室を退職しましたが、実際に辞職するのは約1年後のことです。

辞職後の平瀬さんに触れる前に、平瀬さんが「いてふイチョウ精虫せいちゅうついテ」という論文を発表した、同じ『植物学雑誌』の翌月11月20日発行の次号では、波多野泰久こと池野成一郎さんが『そてつノ精虫』という論文を発表しました。こちらも世界で初めての発見でした。

植物学雑誌 第117号『そてつノ精虫』

同論文の冒頭には「前回の本誌で、平瀬氏がイチョウの花粉管内での精子の発見とその動きについて詳しく報告しました。読者の皆さんは、私の以前のメモを思い出すかもしれません。実は数ヶ月前、私も昨年から研究していたソテツの花粉管で同じような発見をしました。ただ、私の研究材料は全て鹿児島で収集し、その後フレミング氏の方法を用いて固定しました。そのため、実際の運動を直接観察することはできませんでした。」といったことが記されています。

ちなみに池野さんが研究材料としたソテツは、今も鹿児島市内で育っているそうです。そのソテツから分株したものが、小石川植物園の正門から歩いて1〜2分のところに植えてあります。

半年前に、なにも知らずに看板と一緒に、池野助教授のソテツ(の分株)を撮影していました

■イチョウの精子発見後に平瀬作五郎(野宮)さんが退職した理由

平瀬作五郎さんが、イチョウの精子を発見したのが1896年です。ちなみにイチョウの精子発見を、『らんまん』では、田邊教授(要潤)が遊泳中に溺死した後のこととして描いています。でも実際の矢田部良吉教授は、既に帝国大学から去っているとはいえ、東京高等師範学校(現:筑波大学)の校長としてバリバリの現役でした(溺死するのはその3年後:享年49歳)。

矢田部さんの教授非職から溺死までの植物学教室界隈の人事を時系列を整理します
1891年 矢田部(田邊)教授が教授職を非職。後任は松村任三教授
1893年 追放されていた牧野富太郎が助手として復帰
1894年 矢田部(田邊)教授が非職満期により免官(ここで帝大を去った?)
1894年 1月、平瀬さんがイチョウの精子を発見した模様
1895年 4月、矢田部(田邊)教授が東京高等師範学校教授に着任
1895年 5月、三好学(『らんまん』細田?)が帝国大学教授に就任。同時に大久保三郎(『らんまん』大窪)助教授が大学を非職になる
1896年 10月、平瀬さんがイチョウの精子発見の論文を発表
1897年 平瀬さんが帝大を去る(彦根中学へ赴任)
1898年 6月、矢田部教授が東京高等師範学校の校長就任
1899年 8月7日に、矢田部教授が鎌倉沖で遊泳中に溺死

なぜ時系列を整理したかと言えば、直截には、平瀬さんが帝大を辞めたのは、『らんまん』の野宮さんのように、イチョウの精子の論文を誰が書くか問題だったのか? を知りたかったからです。

ただし、今回参照させていただいた植物学会Webサイトの法政大学生命科学部教授・東京大学名誉教授 長田敏行先生の記事によれば、「多くの俗説では学歴の故に大学を去らざるを得なかったと説明されているが、それは明確な根拠のないことである。」とし、矢田部教授の帝大教授の非職に関連するのではないかと記しています。具体的には、矢田部教授によって帝大の画工として雇われた平瀬さん、平瀬さんを矢田部教授に紹介した堀誠太郎さん、それに大久保三郎助教授などは、矢田部派として見られて、職を追われた……研究室に居づらくなった……と解釈しているようでした。

ただし同記事によれば、「学歴の故に大学を去った」という説が「根拠のないこと」の根拠として挙げているのが、1912年に平瀬さんが帝国学士院恩賜賞を授与された件です。

1912年、恩師ともいえる池野成一郎とともに、それぞれイチョウとソテツの精子の発見を高く評価されて、帝国学士院恩賜賞を授与された。ほとんど学歴のない平瀬に恩賜賞が授与される、というのは異例のことであった。もっともはじめは平瀬作五郎の授与は予定されていなかったらしく、「平瀬が貰わないのなら、私も断わる」と池野成一郎がいうので、2人受賞になったという。

植物学会Webサイトの法政大学生命科学部教授・東京大学名誉教授 長田敏行先生の記事

わたしは、これを読んで、逆に「学歴の故に大学を去った」んだろうなと思いました。というのも、この逸話から分かるのは、学歴差別がはっきりとあっただろうことだからです。ただし、帝国学士院恩賜賞の受賞資格として、帝国大学の卒業生の「学士」であるという規定があるなら、平瀬さんが受賞予定になかったのも、当時としては当然だったかもしれませんね。

平瀬作五郎の恩賜賞賞牌
平瀬作五郎の恩賜賞賞牌

いずれにしても平瀬さん本人が、帝大退職の理由を遺していないようなので、はっきりとした理由は不明です。ただ、帝大内に激しい派閥争いがあり、恩義のある矢田部教授が非職され……さらにイチョウの精子発見という快挙を遂げても、なんとなくなのかはっきりとなのか学歴差別を感じて、帝大という空間に居るのが嫌になったのかな……という気はしますね。

それにしても先ほどの逸話を読んで、池野成一郎さん(『らんまん』の波多野さん)は、ドラマ通りに心優しい人のようでホッとしました。

■平瀬作五郎(野宮)さんのその後

前述の通り、平瀬さんはイチョウの精子を発見した約1年後に東京帝大を去り、彦根中学校の教員となっています。

平瀬作五郎は、その後1年して彦根にあった滋賀県尋常中学校(現・彦根東高校)へ転出し、6年半勤務した。その後、1年間の休養を経て、1905年に京都の花園学林で勤務。平瀬さんの出身地にある福井教育科学館の柏谷秀一さんは「勤務ぶりは熱心で、常々文武両道を説き、運動部の部長を率先して引き受け、生徒と共 にテニスの練習に励んだり、学校の剣道大会に出場したり、水上運動会ではボートに乗り 込んだりしている。」と記しています

花園学林の頃の平瀬作五郎さん(写真中央の背広姿)

そして1912年5月、平瀬さんが56歳前後の時に、前述の通り、池野成一郎さんとともに、イチョウの精子発見の功績で、帝国学士院から恩賜賞を授与されました。その翌月(6月)に、和歌山の(あの!)南方熊楠さんの自宅を訪問します。これ以降2人は本格的にマツバランの発生に関する共同研究に取り組みました

2020年の南方熊楠顕彰館における特別展『熊楠のシダ植物研究』パンフレット

なお南方熊楠さんとは、おそらく「帝国学士院恩賜賞の賞金を元手に、共同研究をしましょう!」と約束していたのでしょう。恩賜賞を受け取った翌月(1912年)には和歌山の熊楠宅を尋ねます。

熊楠の回想によれば、「その隣近の諸類、羊歯(しだ)、木賊(とくさ)、石松(ひかげ)等の発生順序はみな分かりおるに、この松葉蘭のみ分からぬなり。」としています。つまりマツバラン(松葉蘭)の胞子が発生してマツバランとなるまでの順序が、当時は不明だったため、これを解明しようとしたとあります。そのため熊楠宅にマツバランを植えて実地検証し、平瀬さんは京都から毎年和歌山へ行って、熊楠さんの報告を聞きつつ、育てたマツバランを持ち帰って顕微鏡で研究すると決めて、14年の長きにわたって研究したと言います。

そうしているうちに熊楠さんは、マツバランの増殖方法をつきとめて、「よぉーし、もうすぐですよ!」と、2人で盛り上がったようです。でも、残念なことに大正9年(1920)頃に、オーストラリアの2人の学者が、マツバランの発生過程を解明したという報せが届きます。平瀬さんは、それが事実かどうかを東京帝大に確認し、真実だと分かると研究に対する意欲を失ってしまったそうです(あくまで熊楠さんの回想です)。そして熊楠さんと平瀬さんの共同研究は、終わってしまいまいました。

そうした共同研究をしていた1918(大正7)年に、平瀬さんは花園学林(学院)をいったん辞職。熊楠さんとの共同研究終了後の1921(大正10)年に、請われて教頭心得・学徒監として復帰しました。そして1925(大正14)年1月、肝硬変のため68歳で、京都市右京区御室の自宅で永眠。その3か月前まで勤めていたそうです。

なお晩年に2つの論文を記しましたが、その1つが1918年4月発行の『植物学雑誌32巻(第376号)』で発表された『公孫樹(イチョウ)の授精及び胚発育研究補修』です。

■平瀬作五郎(野宮)さんによるイチョウの精子発見の意義

植物学をまったく解さないわたしには、「イチョウの精子を発見したことのすごさ」が分かりません。そこで、どうスゴイことだったのかをまとめておきます。

参照資料:植物学会のWebサイト『イチョウの精子の発見』東京大学理学系研究科・長田敏行さんによる著

生命の進化の手がかり:イチョウは裸子植物に分類されますが、裸子植物や被子植物が精子を形成することは通常はないと考えられていました。イチョウの精子の存在は、植物が持つ古代の海の生物の特徴、つまり生命の進化の初期段階の特徴を保持していることを示しています。
↑というのが長田先生の文章を読み下したものですが、勘違いかもしれませんが、わたしが理解できる言葉に直します。
当時は、裸子植物や被子植物つまり種子植物は、受精しなくても繁殖できる上等な生物だと思われていたようです。それが受精という下等生物のような行ないで繁殖していたとは! という驚きがあったと。またイチョウ(やソテツ)は、下等生物……古代の海の生物の特徴を保持していることが判明したということです。

学術的な進展:当時、イチョウの花粉の受精のプロセスを研究していた世界的な権威、E. シュトラスブルガーでさえ、イチョウの精子の発見に至っていませんでした。平瀬さんの発見により、植物研究が前進しました。

日本の学術研究の地位向上:平瀬さん……日本人の植物学者が、世界的な権威者である シュトラスブルガーに先んじて、新しい事実を明らかにした……つまり日本の植物学が世界に並ぶことができ、あるいは世界のトップに躍り出た!

研究の奨励:平瀬さんの発見は、他の研究者たちにも新しい発見の可能性を示すものとなりました。事実、平瀬さんの発見直後に、池野成一郎さんがソテツの精子の存在を確認しました。平瀬さんの発見がなくても、いずれ池野さんがソテツの精子を発見できたかもしれません……ただしイチョウの精子発見が先行していたことで、池野さんのやる気は増大していたはずです。

■池野成一郎さんによる平瀬作五郎への追悼文(全文)

平瀬作五郎さんが亡くなられた際に、あの優しい池野成一郞さんが『植物学雑誌 39号』に追悼文を寄稿しています(後に抜刷となったようです)。ものすごく感動の文章というわけでもありませんが、ChatGPTで翻訳したものを下に残しておきます(ChatGPTは長文を勝手に要約する癖があるので、色々と省かれているかもしれません)。

それにしても『らんまん』の波多野さんのイメージの通り、池野成一郞さんは、とても語学に堪能ですね……。この追悼文はフランス語で書かれています。このほかに東京帝大の当時の授業は英語だったようですし、そのほかドイツ語でも論文を書いていたようですし……すごいな。

池野成一郞さんによる追悼文
デジタルアーカイブ福井

平瀬作五郎は、研究所での業務の合間に植物学と顕微鏡技術の研究に多くの時間を費やしていました。彼がSTRASBURGERのGinkgo biloba(イチョウの学名)に関する研究に出会ったとき、彼は多くの欠点を見抜きました。これはおそらく、ドイツの植物学者が使用可能だった材料の不足のためであったと思われます。しかし、東京ではイチョウの木が随所に生えているため、彼はこれらの欠点を補完することができました。

彼はまず、このイチョウの胚発生に関する研究を開始し、1895年に2つの論文で結果が公表されました。その公表の1年前、彼は花粉細胞内(今日では花粉管の雄蕊細胞として知られるもの)に2つの特大の「引力球」を観察しました(1894年)。彼が花粉に関する研究を続けると、花粉管内に、(シダ植物や藻類など種子を持たずに繁殖するグループや菌類などを指す→)Cryptogamesのものと比較して非常に大きな二つの雄蕊を発見しました。これは、Phanerogames(種子植物)での雄蕊(おしべ)の初めての発見であり、この発見は、ベルリンの植物学者ENGLER氏によって新しい分類群、Ginkgoaceaeが提唱される主要な理由となりました。

1896年4月に東京の植物学会で平瀬が彼の発見を発表してから、彼が雄蕊おしべの動きを観察したのは同年の9月の終わりでした。この観察は、日本語(1896年)とドイツ語(1897年)の予備ノートに記録されました。彼の調査結果をすべて発表するための完全な論文は、1898年にフランス語で書かれ、それ以来、古典となりました。

池野成一郞さんによる追悼文
デジタルアーカイブ福井

残念ながら、1897年は平瀬の研究生活の終わりを意味していました。彼が科学者として働き続けることができたならば、彼は疑いなく他の多くの重要な研究や発見をしていたっでしょう。しかし、彼自身にとって、さらに科学界にとって、残念なことに、そうはなりませんでした。彼は彼の著名な論文の公表の1年前に大学を去ることを余儀なくされました。彼は彦根の中学校の自然史の教師として、そして8年後には京都の花園で、彼が亡くなるまで勤めました。中学の教師として、彼には真剣な研究を続けるための時間や手段がありませんでした。そのため、(帝大を去った)1897年から1925年に亡くなるまでの長い年月に、彼は2つの論文しか完成させることができませんでした。これらの研究は、彼の絶え間ない活動にもかかわらず、1918年に公表されました。

彼は、正当な評価を受けることができなかった不運な人でした。彼は1925年1月4日、69歳で亡くなり、友人や生徒たちは深い悲しみを覚えました。彼は私たちのもとから去りました。しかし彼の偉大な業績は、植物の系統発生学の研究において、彼の名前を永遠に輝かせ続けることでしょう。

池野成一郞さんによる追悼文
デジタルアーカイブ福井

『らんまん』の野宮さんについてのその後がWikipediaで詳細に記されていなかったので、気になってしまい、調べてしまいました……。あぁまた時間が……。でも、調べた甲斐があったような気がしないでもありません。

ちなみに南方熊楠は牧野富太郎へ「これは何ていう竹ですか?」っていう同定の依頼をしています。その牧野さんから熊楠さんへの返事の手紙が、1903年に出されていて、残っています。来週の『らんまん』では、その南方熊楠から牧野富太郎=万太郎へ、手紙が届くそうです。この後、また野宮さん=平瀬さんが、登場する機会もあるかもしれませんね。

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