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江戸時代の観光マップを見ながら、ぶらりと浅草寺を散歩してきました

寒い寒いと薄手のブランケットを、眠りながらも必死で身体に巻き付けていると、まだ眠いのに目を覚ましてしまいました。最近は、そういう朝の目覚めが多いです。

東都金龍山浅草寺図とうときんりゅうざんせんそうじずという、江戸時代に描かれた観光マップがあると知りました。時々、こうした街中を鳥瞰ちょうかんした地図が、観光地などで配られていますよね。江戸時代にも同じようなのがあったということ。

『東都金龍山浅草寺図』国立国会図書館デジタルコレクションより

調べてみると、国立国会図書館のデジタルコレクションにあったので、スマートフォンへ画像をダウンロードして、浅草寺へ行ってみることにしました。ちなみに当図は、葛飾北斎の弟子である葵岡北渓ほっけいが描いたものを、明治期に再販したもののようです。

まずは正面から……ではなく、裏口というか北側から入っていきます。

浅草寺の北側、浅草裏エリアに続く出入り口には「御成おなり御門ごもん」というのがあったんですねぇ。御成と言えば将軍様です……が、その割には、絵で見た限りでは簡素な門ですけど……。現在は、パッと見た限りでは、跡形もないです(『東都金龍山浅草寺図』部分)
本堂北側の「御成おなり御門ごもん」から、境内に入ったあたりの現在の様子です。写真左の小屋は、現在、「平成中村座 十月大歌舞伎」の準備を急ピッチで進めているようです。歌舞伎は一度しか見たことがないのですが、この平成中村座は、ほぼ年ごとに異なる場所に小屋を建てていますね。そんな中村座の歌舞伎小屋を建てている、本堂真裏には、江戸時代には念佛堂という中規模なお堂があったようです。また、徳川家康を祀る浅草の東照宮が、この境内の北側にあったことも記録に残っています。
浅草寺本堂の真北(真裏)には「六角堂」や「念佛堂」などが描かれています。ただし、現在は本堂裏手は広い空き地……もしくは観光バス用の駐車場です。「六角堂」は、元和四年1618に建立された(かも)ものが、上の写真の左下あたりに位置していますが、現在も残っています……と思ったのですが、どうやら現在残っている「六角堂」は、また別物のようで……というのは、長くなるので後述します。その前に本堂の裏をぐるっと回って、浅草神社へ……(『東都金龍山浅草寺図』部分)
浅草寺本堂の隣には、今と変わらずに三社権現=浅草神社があったんですね。江戸時代から場所も敷地も全く変わっていないようです。そういえば、浅草神社の現在の社殿は、徳川家光の寄進により慶安2年1649に建てられたものです。浅草寺エリアは、太平洋戦争時の米軍の空襲により、ほとんどが焼失しました。そのため、浅草神社の社殿は、このエリアでは古い建物の一つと言えるでしょう。(『東都金龍山浅草寺図』部分)
寺社のなかで、我が家が最も参拝する機会の多い浅草神社です。ここは、神主さん…禰宜さん、巫女さん、ほかのスタッフの方々も、感じの良い方が多いです。現在は「浅草神社」と名乗っていますが、江戸時代には「三社権現」と言っていました。有名な三社祭は、(3つの)本社神輿が、ここから出発します
拝殿前から失礼して写真を撮らせていただきました。ここだけ見ると「THE GONGEN」という感じの、鳳凰や飛龍、麒麟が描かれたゴージャスな「権現ごんげん造り」です(権現造りだから綺羅びやかな絵が描かれているのかは分かりません。しっとり系の権現造りもあるんでしょうかね?)。ただ、本殿の方は、昔は分かりませんが、今は落ち着いたおごそかな雰囲気を漂わせています(たしか本殿内は撮影禁止。この拝殿だったか本殿だったかの天井は、格天井で、格子の間には草木の絵が描かれていた記憶が…)。本殿は三間社流造。
浅草神社を参拝したら、神社の鳥居を出て左側を見ると、「随身門」という門があります。わたしは永らく「二天門」だと思っていたのですが……。やはり「二天門(明治以降)」で間違いないそうで、「“元”随身門(江戸時代)」だったようです。というのも、浅草寺の境内……本堂の裏側(北側)に徳川家康を祀る東照宮とうしょうぐうが、江戸時代初期の一時期ありました。現在は建物はなくなり、神である東照大権現だけが、浅草神社にいらっしゃるようです。その、元々「東照宮」とセットで建てられたのが、この「随身門」であり現在は「二天門」と呼ばれているようです。(『東都金龍山浅草寺図』部分)
いったん境内から出て、マツキヨ前から撮った「二天門」です。浅草“寺”のホームページには、浅草寺の東門として(浅草神社の社殿と同じく)慶安2年1649に建てられたとしています。江戸期までは門の両脇には随身像が(祀って)ありましたが、明治の神仏分離令で鎌倉の鶴岡八幡宮から広目天と持国天の像が奉納されたそうです。これによって、随身門から二天門へと名称変更されます。ただし、この二天(2つ)の像は、1945年に修理先で戦災にあって焼失してしまいます。そして今は、もともと上野・寛永寺の厳有院にあった持国天と増長天が祀られています。(浅草寺HPより
二天門の前にある手水鉢ちょうずばち
二天門から改めて境内に入った、喫煙所あたりから浅草寺を撮りました。左から仁王門、五重塔、本堂です。いずれも昭和二十年の三月十日の大空襲により、徳川家光により建てられたものが、焼失してしまいました。本堂と仁王門はもとの位置に、五重塔は場所を変えて戦後に再建されました。
江戸期には随身門を入って左側に五重塔がありました。いまその場所には「ここに建ってたんだよ」という碑があります。(『東都金龍山浅草寺図』部分)
仁王門(二王門)と本堂の間にも「商人」と書かれているので、仲見世が続いていたのでしょう。いまは仁王門を入ったところにはお店はなく、あるのはおみくじやお守りなどを販売する寺の売店(とは言わない?)になります。江戸マップを見ると、「手水ちょうず」も、現在と同じ場所にあるようです(浅草寺HPではお水舎おみずやと呼称しています)。現在、このお水舎おみずやでは、高村光雲の龍神像(沙竭羅龍王像)が、どーん! と出迎えてくれます。また天井には東 韶光あずま しょうこうさんという方の「墨絵の龍」が描かれています。(『東都金龍山浅草寺図』部分)
仲見世の前くらいから撮影した仁王門と五重塔です
かつて五重塔が建っていたあたりから境内を出たところに(ここも境内の内側かもしれませんが…)、こんもりとした丘の上に、弁天堂と時の鐘があります。また写真左下に大きく描かれた観音菩薩と勢至菩薩がいらっしゃいます。こんな仏像はいたかなぁと現地へ行ってみると……(『東都金龍山浅草寺図』部分)
『東都金龍山浅草寺図』を見ると、ものすごく高い丘のように見えますが、実際に行ってみると、20-30段くらいの階段を登るだけで、弁天堂の前にたどり着きます。意外にも……と言っては失礼ですが……こちらの「老女弁財天」さんは、関東三弁天の一つと言われているそうです。もう一度『東都金龍山浅草寺図』を見てみると、今と異なり、丘の周りに濠があり、橋が架かっていたようですが、今は面影もありません
また時の鐘は、幕府により制度化されたもので、いわばオフィシャルな時刻を告げる鐘でした。江戸には、この浅草や上野など、9箇所の鐘が「時の鐘」として指定または整備されました。今でも除夜の鐘として活躍しています
『東都金龍山浅草寺図』に載っていた観音菩薩と勢至菩薩がいらっしゃいました。二尊仏または濡れ仏という名で世にしられる……と案内板にはあります。上野国(今の群馬県)大久保村の商人、高瀬善兵衛さんという方が貞享四年16878月に造立ぞうりゅうしたそうです。なにげなく、この高瀬善兵衛さんを検索してみたら遺言書が見つかりました。これだけの仏像を造立ぞうりゅうするのですから、かなりの豪商だったんでしょうね。ちなみにこの像は、自分を鍛えてくれた、かつての奉公先への感謝の念で作ったといいます。やっぱりただものではないですね
また境内に入って、本堂の左側を通って帰ることにします。遠くからですが、本堂に向かって合掌
改めて本堂の北にある六角堂についてです(『東都金龍山浅草寺図』部分)
「六角堂」です。現在は影向堂ようごうどうの隣に、ひっそりと建っています。お堂の前の解説パネルには「もとは東方21.8メートルの場所(現・影向堂ようごうどうの南基壇上に元位置の明示あり)に建っていたが、平成六年十月にここに移された」と記されています。元の場所が、東方21.8メートルの影向堂ようごうどうの南基壇上とは……気が付きませんでしたが、この写真を撮っている場所から10メートルくらいのところでしょうか。『東都金龍山浅草寺図』に記されている六角堂とは、また別のものかもしれませんね
別の浅草寺マップ…『浅草寺境内之図』にも六角堂がありました。こちらの地図にも2つの六角堂が記されています(台東区図書館所蔵
『浅草寺境内之図』の、本堂の西側の一角を拡大しました。画像の、本堂の左側(北側)にある青線で囲んだお堂が、『東都金龍山浅草寺図』で描かれている「六角堂」ですね。そして本堂の下(西側)の青線で囲った建物が、現在「六角堂」と呼ばれている建物と、ほぼ同じ位置に建っています。推測では、どちらも六角形のお堂だったのでしょう(『浅草寺境内之図』部分)
さらに同率で拡大してみました。左側が本堂裏手のもので、右側が本堂西側のもの。やや北側の裏手の堂の方が大きかったようです。なんと書かれているか正確には分かりませんが、同じ文字のように思えます。推測というか、現代漢字から想像すると「地蔵堂」でしょうかね(地花とも見えましたが…)。浅草寺の公式サイトを確認すると、この現存する六角形のお堂の本尊は「日限ひぎり地蔵尊」とのこと(日数を決めて祈るとその願いが叶うとされる)。ということで、答えは「地蔵堂」なのでしょう。←だからなんだ? という感じですね(笑)(『浅草寺境内之図』部分)
現在の六角堂を正面から

いろいろと調べていたら、素敵な浅草寺の浮世絵を見つけたので、おまけに載せておきます。今度は、浅草寺の浮世絵を集めてみるのも良いかもしれないなぁ。

『江戸金竜山浅草寺観世音境内図』絵師:英泉(国立国会図書館より

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