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【どうする家康】一向一揆で中心的な役割を果たした三河安城の本證寺と住職の空誓は、その後どうなった?

大河ドラマ『どうする家康』の第7回(先週)では、松平元康を松平家康へと改名しました。そして第8回『三河一揆でどうする!』では一向一揆を鎮めるのかと思いきや……次週に続くようです。

諸説ありますが、三河の上宮寺のサイトには「永禄5年(1562)、松平家康(徳川家康)の家臣が上宮寺に押し入り、強引に兵糧を徴収」したことが、一向一揆の原因となり、その後一揆は半年から1年半に及んだとされています。そして激戦となったのが、だいたい永禄6年(1563)9月から永禄7年(1564)までの半年ほどでした。

そんな一向一揆で、一向衆徒の拠り所よりどころとなったのが、上宮寺や勝鬘寺しょうまんじ、そして『どうする家康』で登場した本證寺ほんしょうじでした。

以降の話でネタバレがありますので、気にしない方だけ読み進めてください。

■一向衆とはなにか……空誓とは何者なのか?

本證寺(ほんしょうじ)は、現在の愛知県安城市野寺町にある浄土真宗・真宗大谷派の寺院です。今も所在地は、一向一揆の頃と同じ場所にあり、当時ももちろん浄土真宗……その中でも本願寺派(教団)と呼ばれる派閥に属していました。

とても難しいのですが、いちおう浄土真宗じょうどしんしゅうの歴史をおさらいしていきます。

開祖は、鎌倉時代初期の僧である親鸞《しんらん》(1173〜1263)です。なのですが親鸞しんらん自身は「新たな境地に達した」という意識はあまりなかったようで、師にあたる法然ほうねん(1133〜1212・浄土宗の開祖)の教えを継承しているだけ……といった感覚でした。親鸞しんらんからすれば、自身が伝えたいのは、法然ほうねんの教えであり浄土宗の教え……だったのではないかと思います。

ただし、他の宗教や宗派、俗世にある あらゆる団体と同じように、親鸞しんらんを師と仰いだ弟子たちが、「浄土真宗(本願寺)」という団体を生み出し勢力拡大を図りました。その流れのなかで、親鸞しんらんを開祖としたのです。

そして1333年まで続く鎌倉期において、浄土真宗は新興宗教でした。そのため、天台宗など既存宗派からの弾圧を受けます。そんな状況で親鸞しんらんの曾孫にあたる覚如《かくにょ》(1270〜1351年)が、浄土真宗という組織の強化を試みます。ちなみに覚如かくにょは、親鸞しんらんを宗祖または開祖と規定し、自身を本願寺三世とします。そして本願寺(大谷本願寺)という名前(寺号)の寺を成立させ、自身の元に親鸞しんらんの弟子たちを結集しようとします(あまり成功はしなかったようです)。

そんな覚如かくにょとは別に、親鸞しんらんの弟子たちは各地で教団を組織して、親鸞しんらんの教えを広めていました。そうして拡大していった各地の教団が、のちに「本願寺(大谷本願寺)」へと合流していった……という流れのようです。

浄土真宗というよりも本願寺という組織が隆盛したのは、本願寺第八世蓮如《れんにょ》(室町時代・1415〜1499年)の頃からと言われ、彼は本願寺中興の祖と呼ばれることが多いです。蓮如れんにょの時代は、本願寺(大谷本願寺)が天台宗の延暦寺衆徒によって破却されるなど、弾圧も激しくなります。一方で、地方での布教には成功し、どんどん門徒を増やしていきました。そして、京都の山科本願寺を再興します。

その後、開祖の親鸞しんらんと同様に、おそらく蓮如れんにょの神格化も進んでいたことでしょう。そんな蓮如《れんにょ》の曾孫が、『どうする家康』の第7回・8回に登場した、三河・本證寺《ほんしょうじ》の住職・空誓《くうせい》です。

仏教というと何か俗世とは異なる世界を想像しがちですが、それはわたしたち俗人の願望でしかなく、仏教の世界も、それほど俗世と変わることはありません。考えてみれば当然で、僧たちが修行をしていると言っても、彼らもまた同じ人間であり、煩悩を払うなんてことは、一部の僧にしかできないことでしょう。そして、このnoteを書いていて思うのが、昔の浄土真宗も、現在の寺社と同様に、血脈が重要だったということです。

ちなみに蓮如には、少なくとも13人の男子のほか15人の女子がいました。蓮如系の曾孫が何人いたか分かりませんが…空誓は、その一人だったのです。

一向一揆を歴史の中で考える際には、浄土真宗(一向衆=一向宗?)の本證寺ほんしょうじは、寺内自治が認められた「不入の権」など、強力な既得権益を持った団体だったと考えられます。三河の一向一揆とは、その既得権益を備えた本證寺ほんしょうじと、まさに戦国大名へとのし上がろうとしている、新興勢力の松平元康改め「松平家康」との戦いだった……という捉え方もあるでしょう。

■本證寺の寺や城としての規模は?

三河一向一揆の拠点だった本證寺ほんしょうじ(本証寺とも)は、冒頭で記した通り、現住所でいうと、愛知県安城市野寺町にありました(今も同じ場所にあります)。松平家康の本拠地である岡崎城からの距離は、直線で約11km、クルマで20分、自転車で1時間弱徒歩で2時間弱の場所にあります。

いつの頃からかは分かりませんが、少なくとも一向一揆……戦国時代には、城のような堀や土塁が整備されまいた。そのため城郭関係書籍などでは、本證寺城として言及されることもあります。

『どうする家康』の第8回にあたりますが、本證寺は、三河の一向一揆の重要拠点となり、松平家康と戦います。その後、他の寺と同様に松平家康の軍門に下り(和睦し)、堀などを埋め立てられてしまいます。

ただし江戸時代になると、埋め立てられた堀が、ほぼ同じ位置で掘り返されています(戦国期よりも浅く掘ったようです)。そのため、本證寺の戦国期の様子が、今でも推測可能です。

下の図は、Googleマップに、江戸時代後半に描かれた本證寺の堀の位置を青色で記しています。地元の方であれば、下の地図を見て、本證寺城のサイズ感が分かると思います。だいたいですが、長いところで南北が約320m、東西が280mくらいです。

Googleマップより

さらにGoogleEarthに、上図の堀……縄張りを、同じく青色で記してみたのが下図です。周囲は田畑が広がっていることからも分かる通り、城としては平城に分類されるでしょうか。平城にも関わらず、方形でも左右や上下の対象でもないので、微妙に高低差があるのかもしれません。

Google Earthより

■どうなる? 住職・空誓や軍師の本多正信、槍の半蔵

『どうする家康』では、本證寺の住職・空誓を、市川右團次さんが演じています。そのため、空誓さんってオジサマだったのね……とイメージしてしまいますが……空誓が本證寺の住職となるのは永禄4年(1561年)です。

歳はなんと17歳。

三河一向一揆が始まったのが、だいたい永禄5年(1562)ですから……その頃の空誓さん、18歳くらいの未成年でした……だいぶイメージが異なりますね。

その空誓さんですが、Wikipediaには「怪力の持ち主で、自ら鎧を身につけ鉄棒を振り回し戦った」のだそうです。まだ本證寺に赴任してきて間もない時期です。「ここで漢を見せてくれよぅ!」と張り切るような、血気盛んな若者だったのかもしれません。

安城市の資料によれば「本證寺周辺での戦闘としては、翌年の小川安政(安城市小川町)におけるものがある。この戦闘で、一揆方の円光寺住持順正が、『われこそは本證寺の空誓なり』と名乗り自害した。この敵を欺く手段によって、家康方は本證寺に直接攻め込まなかったのだという」とあります。

半年から一年半も闘っていたのに、上記の理由で、本證寺に直接攻め込まなかった……とは思えません。これは、松平家康が“あえて”攻め込まなかったのでしょう。

というのも、そもそも寺院に「寺内不入権」などの特権を与えていたのは、現在において、自公の与党と宗教が密接に関係しているのと同じでしょう。お互いに持ちつ持たれつなわけですし、特権を与える代わりに、政権への支持が欲しいわけです。松平家康からすれば、「三河の主はわしじゃぞ」というのを内外に示せれば良かったのではないでしょうか。

さらに、空誓の本證寺を始めとする三河の一向衆が、加賀の一向一揆のようには、武士階級を取り込めていなかったのでしょう。吉良義昭や、東京03の角田さんが演じる松平昌久は、元々が反松平家康でしたし、本證寺と勢力を結集して闘った……という確かな記録も残っていません。

また松山ケンイチの本多正信や、ライフネット生命保険のCMで存在感を増す木村昴さん扮する渡辺守綱(槍の半蔵)なども一向衆側に付きましたが……それほど積極的に戦闘に参加したのかは不明です。だって、一向一揆の終息後には、誰も罰せられていませんからね(本多正信などは出奔しましたが、松平家康から逃げたわけではありません)。

ということで、安城市の資料によれば「永禄7年(1564)には、不入権の確認と一揆参加者の助命を条件として、一旦和議が成立」しました。けれど「家康が一方的に出した本願寺派からの離脱(改宗)を拒絶したため、(和議は)破棄され、寺の破却、坊主衆の領国外追放が強行された」といいます。まぁ個々の戦闘では分が悪かった一向衆へ「和議にしますか?」と、家康が甘い言葉をかけて、それに乗った一向衆側が騙されたのかもしれません。ただ、一旦は和睦となってしまっては、一向衆側に再度戦うという気力は残っていなかったのかもしれません。

いずれにしても、本證寺の二重の堀や土塁は壊され、または埋められてしまいす。また、まだ20歳前後の若き空誓さんは、加茂郡菅田和(豊田市)へ逃れ、さらに大坂(石山)本願寺に身を寄せたともされています(また『天正8年の1580年に、石山合戦の結果石山本願寺を退いた教如を援助した』とも、安城市観光協会のサイトにありますが……)。

そして三河の一向一揆が永禄7年(1564)に、いちおうの決着をみましたが、その後に三河での浄土真宗(一向衆)の活動は許されませんでした。許されたのは、石山合戦が織田信長勝利で終息し、本能寺の変がおこったあと……三河一向一揆から20年後のことです。1583年に有力寺院以外が許され、1585年には本證寺をはじめとした有力7寺院が許されました。

そして空誓さんも本證寺に戻ります(それまで、どこにいたんでしょうかね?)。以後、空誓さんは徳川氏に接近……というより平身低頭だったのでしょう。Wikipediaには「晩年には家康に請われて江戸城に招かれ、隣国尾張藩主となる家康九男の義直を助けるよう依頼され、(義直の清洲)入封の際には清洲城に登城して祝辞を述べた」としています。

さらには「以降の歴代の本證寺住持は、藩主や住持が交代する際には登城謁見を許されることが慣例となった」とし「同じく江戸城にも住持交代の際には将軍謁見を許された」としています。

そして空誓さんは、慶長19年(1614年)に、70歳で亡くなります(示寂)。三河一向一揆からの20年は辛かったと思いますが、晩年にはものすごい挽回をし、悔いのない生涯だったのではないでしょうか。

■一向宗は2種類あります

最後に……いわゆる「一向宗」についてまとめたものを残しておきます。こちらは、本当に読む必要はないと思います。単にわたしが途中まで書いてしまって、文脈的には不要だけれど、もったいないから残している……というだけです。

◯ △ □

一向宗には、一向一揆の主役となった浄土真宗・本願寺派と、鎌倉期の一向俊聖(1239〜1287)という僧侶が広めた一向宗との2つがあります。

ただし戦国時代までの浄土真宗の関係者たちは、自身で「一向宗」とは名乗っていなかったようなので「一向」と表記するのは妥当ではなく、あくまで「一向」と表記するのが正しい気がします。

また私見ですが、浄土真宗の本願寺派の「一向」と、後者の一向俊聖が広めた「一向宗」とは、世間一般には同一視されていただろうと思います。

『どうする家康』でも、同一視しているんじゃないか? という演出がありました。本證寺が初登場した先週の第7回『わしの家』で、境内の中がフェス会場のように描かれ、一向衆徒たちが踊り狂っていました。

日本の仏教史で「踊る」と言えば、まっさきに思い出されるのが、一遍いっぺんさんの「時宗じしゅう」でしょう。一遍いっぺんさんは、法然ほうねんさんの孫弟子のもとで10年以上にわたり浄土宗(西山義)を学んだといいます(Wikipediaより)。つまりは一遍いっぺんさんも浄土真宗(一向衆)の親鸞しんらんさんと同様に法然ほうねんさんの法統の系譜上にあるということです。

その後の一遍いっぺんさんは、以前noteに記しましたが、日本各地を巡って、遊行ゆぎょうを行ないます。その際に、踊り念仏を採用し、時宗を広めていきます。不遜な言い方かもしれませんが、「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで良いとする、手軽な法然ほうねんさんの浄土宗に、「踊り」というエンタメ要素を加えたのが時宗と言えるかもしれません(もちろん、当人たちにとっては、そんな単純な話ではないんでしょうけどね)。

一方で、一遍いっぺんさんと同時代を生きた、一向宗一向俊聖さんもまた、法然の浄土宗の影響を色濃く受けた家(草野さん)に生まれます。その後の一向さんは、天台教学を修めたとWikipediaに記されています。ただし当時の天台宗は、現代の大学での一般教養過程といったものだったでしょう。天台教学を修めた後は、浄土宗然阿良忠ねんな りょうちゅうのもとで修行したのちに、一遍いっぺんさんと同様に諸国を遊行ゆぎょうし始めます。その遊行ゆぎょうに、一向さんも踊り念仏を採用しているんです。

その後、一遍いっぺんさんの時宗と、一向さんの一向宗とは同一視されていきます。どちらもさかのぼれば法然ほうねんさんの浄土宗の教えになるでしょうし、法然ほうねんさんの教えを否定して、時宗や一向宗を打ち立てた様子もありません。同一視されて当然と言えば当然でしょう。そこで江戸時代には、幕府の方針により、一向宗は時宗に吸収合併されます(時宗の一向派)。

そして、もう一つの親鸞しんらんさん由来の浄土真宗本願寺派の一向衆ですよね……。こちらも、さかのぼれば同じく法然ほうねんさんの浄土宗です。だから浄土真宗という名前には、「浄土宗=法然さんの真の法統を継ぐ……」というような意味を含めているのでしょう(←そういう意味で、時宗も“浄土真宗”を自称する例があったといいます)。

ではなぜ浄土真宗が一向衆と他称されたのか? そもそも「一向」とは「ただひたすら」という意味だと辞書にはあります。浄土真宗が「ひたすらに阿弥陀仏にすがる」ということや、「ひたすらに南無阿弥陀仏」と唱えていた集団ということだと想像できます。

浄土真宗の僧侶からすれば、宗派の勢力争いにも関わることなので、「(一遍の)時宗や(一向の)一向宗と一緒にするな!」となっていたはずです。ただし、他者からすれば、同じように見えたはずですし、三つの宗派の、それぞれの開祖としている親鸞しんらんさんと一遍いっぺんさんと一向いっこうさんからすれば、「ぼくら法然ほうねんファミリーだよね。一緒に人々を救おう!」と意気投合したのではないでしょうか?(のちの宗派争いと同様に、骨肉の争いになっていたかもしれませんが…)。

さらにややこしいのですが、徳川幕府の時代になると、本家筋(と言うとまた怒る人もいそうですが…)の浄土宗からは「浄土真宗と名乗るな!」と、クレームが入ります。そこで幕府の指示により、浄土真宗は「一向宗」と名乗らされたようです(明治5年に「真宗」と名乗る許可が出ました。そして太平洋戦争後に、西本願寺系のみが「浄土真宗」と名乗り、そのほかは今も「真宗〇〇派」と名乗っているそうです)。

ということで徳川幕府の時代には、浄土宗は浄土宗のまま、時宗は(戦国期の)一向宗を吸収合併。浄土真宗は「一向宗」となります。ちなみに徳川家は、浄土宗です……って、天台宗でもありますけどね。さらに元々の祖先は、時宗の徳阿弥とくあみさんだったとも自称しています。

いやぁ…書いていて本当に分かりづらいし、各方面から「それは事実ではない!」って怒られそうだし、こんなこと覚える必要もないだろうと思いますね。しょうもなっ

<関連note>

<トップ画像出典:Wikipediaより

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