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川底のとこやみ

夕食を摂って、温かな風呂に入り、柔らかなままな髪はシャンプーの香りがする。肩のあたりに鼻をつけ、くんくん嗅ぐと肌から石鹸の匂いがする。ぽかぽかとした身体に、洗いたてののひんやりとしたパジャマが心地良い。
ドアを開けると寝台灯の光が、穏やかに闇に寄り添っている。その暖色の灯りに照らされた布団は優しく僕を誘う。僕はするりと布団に潜り込んだ。

灯りを消した。帷を下ろすように、部屋はぱたりと闇に包まれる。しばらく目を凝らすと窓の外の青い夜空がぼうっと浮かびあがった。思い出したように切り替わる信号機の光は赤、青、黄色。3色の光は順々に窓の結露をきらめかせた。国道を望む我が家では珍しく、外では車の通る音が全く聞こえない。一度遠くで、パトカーだか救急車だかのサイレンの音が聞こえたのみだった。ただ風の流れる音が、密やかに鳴り続けているだけだった。
布団を被り枕に頭を埋め、目を閉じていると、金泥のように尊い眠りが寝床の中へじわりと這入り込んできた。眠りは僕の髪を優しく撫で、頬を撫でた。僕はある種の原初の記憶を感じながら、とろりとした闇の中へ沈んでゆく。

ふと目が覚めた。
布団の中には白い猫がいて、僕の胸に乗っている。猫は僕を見つめ、愛おしそうに目を光らせた。
おいで、と言い、僕は猫を抱く。柔らかな毛並みを整えるように、うなじから背中をゆっくりと下り、尾骨までを手のひらで撫でる。猫は小さな声で僕に鳴いた。僕は猫を愛おしく思い、この静謐を幸福に想う。しかしその一方で、抑えがたい強い感情が自らに湧きたつのを感じた。愛の極致は取り込むこと。取り込むこととはすなわち捕食で、そこには必ず殺意がともなう。

僕が以前、付き合っていた女の子を思い出す。
その女の子は僕に噛まれるのを好み、また僕を噛むのを好んだ。ふたり交わり、夜が明けた頃、白い朝日に照らされた僕らの腕や肩や首には、深い、もしくは浅い歯形が残っていた。
その頃なぜ彼女が互いに歯形をつけたがるのか、僕には分からなかった。しかし彼女と別れたあとしばらくして、愛ゆえに互いを取り込もうとする本能が簡易な捕食の顕れとして、そうした「噛みつき合い」を引き起こさせたのかもしれないと思い至った。
そうした理屈の囁きは、僕の耳に優しかった。その声に従えば僕は、別れた彼女を愛していたと、まるで不幸に苛まれた者のような顔で他人へ語れた。

猫は僕の指を甘く噛んだ。僕は猫の耳を撫で、猫のふっくらとした指を噛んだ。猫は驚いた目をして、僕の顔を二度、ぽんぽんと叩いた。ごめんごめんと僕は微笑んで、猫を再び抱きしめた。
猫と戯れているうちに、だんだんと瞼が重くなった。猫は暖かく、柔らかく、愛おしかった。うとうとと半ば微睡む頭で、この猫のような女の子とは、近頃会えないなと思った。

その女の子は、付き合って1年半経った頃、ふらりと北方へいってしまった。だけど僕らは別れたわけではなかった。電子機器でほとんど毎日やり取りを交わしており、時折絵葉書も届いた。
その多くは短い夏と短い秋、そして長く長く雪の降りしきる風景だ。寂しく広がる大地とそれを見下ろす山があり、そのどちらも白い雪に覆われている。空は黙りこくって、ただ風景を深い冬に染めていた。そうした風景のほかに、そこで獲れる豊かな海産物の描かれた絵葉書もしばしば寄越した。それを見て僕は、海鮮好きな彼女はきっと今頃、新鮮な刺身と牡蠣と蟹に舌鼓し、雪の帰路をゆくのだろうと想像した。

もうすぐ年も暮れる。僕の住むところではまだ初雪は見られないが、彼女の地域ではもう降り始めてもおかしくない頃だろう。

会いたいな、と呟いた。天井に水面の光がゆらゆらとしていた。

ずっと静かな川底が、僅かに揺らいだ。見ると僕の布団の中に、彼女が寄り添っていた。肩を抱くと、冷えた肌がじわりと熱い。

彼女はきらきら光る雪を払って、僕に頬擦りした。「私だって会いたかったよ」
僕は彼女の細く柔らかな髪に鼻を埋め、両手で抱き寄せる。
「寒い?」
「うん」
「雪がついているもんね」
「うん。あっちじゃもう毎朝毎晩雪が降ってるよ」
彼女はごそごそと布団の中で動き、僕に寄り、ぴたりと身体をつける。僕は目を閉じ、温かみを胸に感じた。
「会いたかった」
「私だってだよ」
「知ってた?明日は冬至だよ」
「じゃあもうクリスマスだね」
僕は黙っていた。だけど帰って来れないんでしょう、と言葉にすることができなかった。彼女は僕を慰めるように抱きしめる。
「もう少し待ってて」

眠りがするりと僕を包み込んだ。僕の身体はじんわりと輪郭がぼやけていき、水面に漂うように軽い。

分かった。待ってるね。だからいつか一緒になろうね。僕らの行き先は、きっと互いを取り込むことだ。この清い川の水に流されて、砕けて、崩れて、分解されて、僕らの構成素が満遍なくこの星に行き渡ったら、きっと僕らはもう一度出会って、君は僕になるのだろうね。

夢か現か分からぬ中で、ぼんやりと天井を眺めると、やはり光のもやが揺れている。川底の君もきっとこんな風に水面を見上げ、眺めているのだろう。

冷たい風の夜、暖かな部屋。おやすみなさいと呟いた。この息の揺れは、きっと誰も知らない。

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