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腹の中の奴

僕の腹の中になにかが入った。僕が4月の小雨の中を歩いていた時のことだ。僕の頬が涼しい風に撫でられるのを心地良く感じていた時、ふと思い出した。

帰りの電車の中で、僕の中になにか入り込んだな。

僕は午前中の2時間の講義の為だけに大学へ行き、昼前に電車で帰った。地下鉄に乗り、途中で地上を走る電車へと乗り換える。地下鉄の中はコーヒー豆の残滓を思わせる匂いで満ち、くぐもっていた。地下深くを走るそんな箱に詰め込まれた後だったので、地上を進む電車での景色は全てが清々しかった。おまけに今日は春のぼんやりとした大気を洗い流すような冷たい雨で、ことさら車窓の外の木々や田畑の緑はみずみずしい。土の下から目覚めた草花や蛙の喜びの声が聞こえるようだった。
そのように、車内で自分を取り囲む自然にうっとりとしていた。そこで、僕の中に奴が居を構えたのだ。

そのことを帰り道に思い出した。
奴は僕の腹へ入るなり、なにも前置きせずこう言った。

「やめろ」

挨拶ももちろんされなかった。いきなり命令するなんて、今日の天気の話題くらい触れてもいいのにな、と思った。奴は僕の中に入っているのだから、僕がこの雨の中を走る車内を心地良く感じていることくらいわかるはずなのに。
「今日は雨だけど、最近は4月なのに蒸し暑いから、気持ちが良いねえ」と始めてくれれば、僕だって「やめろ」と唐突に言われたとしても、「何をですか?」と物腰柔らかく尋ねられたのに。きっと今ほどむっともしない筈だ。

要するに僕の器が小さいのだろうが、そんなところへ気に障る言い方で命令をされたものだから、僕は当然無視した。僕の器が小さいことくらい、僕だって気付いている。が、それにしてもせめて前置きくらいするのが筋だろう。
まあいいや。そんな風にぶうぶう文句を言ったって、僕が悲しくなるだけだ。これはMにでもぶうぶう言うことにする。Mは気心か知れているし、僕がこれまでにどのような小さな事柄に対して文句を述べてきたかを知っているからだ。彼から見た僕はきっと、僕の不満の対象ほど矮小だったに違いない。たとえば絶対に水漏れする雨合羽だとか。
申し訳ない。いい加減しつこいね。もうやめておく。

それで話を元に戻すと、僕の中に無遠慮に奴が入り込んで、僕に「やめろ」と命令したのだ。でも僕はそもそも何をやめるのか見当がつかなかったし、そもそも上で述べたように気を長くもたせられなかったので、耳を傾けなかった。
そして更に話を戻す。僕が長く自分の器量について独白するあいだに、家に着いた。僕は今自室にいて、部屋着に着替え、椅子に座っている。窓の外では変わらず雨が降っている。細かい雨だ。網戸から涼やかな風が優しく滑り込んでくる。
白に僅かな青を混ぜたような色の空だった。ぼんやりとしていて、たっぷり水を含んでいるのが見てとれる。僕はあくびをした。朝から雨粒の滴るサラリーマンだらけの地下鉄に乗るのは疲れる。1限目からは眠いし、おまけに講義内容も小難しかった。浸透圧のごとく部屋を侵した雨の空気を、大きく開く口の中へ吸い込んだ。すると突然、再び奴が声を発した。

「やめろ」

僕は今度はそれに応じ、少しだけ苛立った口調で、
「何を?」と訊いた。
その問いに、
「あくびだ」と奴が答えた。
僕は一瞬躊躇った。奴のやめさせたいものがあまりに突拍子もなかったからだ。

あくびをやめさせたいのか?

なんにせよ、それは無理な要請だった。小学生の頃、教師にあくびを我慢するよう強要された時にも、僕は我慢できなくて、教師が諦めたのだ。
第一に、僕は日中眠くて眠くて仕方がない。
そのようなことを、言葉にするともなく考えていると、
奴が「ならば夜ぐっすり眠れ」と言った。

ここまでが、僕に半年前に起こったことだ。
それからというもの、僕はほとんど毎晩8時間眠るようになった。夜の10時に寝床へ就き、朝7時に目覚める。眠るあいだは一度も起きない。便所にすら起きない。
僕へ命令したのは、僕自身だった。寝不足で目の隈を持ち肌の張りの失った僕を見かねたのだ。目に見えない蛾が腹の中へ飛び込んできたような心持ちがしていたが、それは錯覚と言って差し支えないのかもしれない。また、僕が僕に訴えかける声が神経に障るのだって頷ける。僕が最も苛立つのは、僕を批判する正しい僕自身なのだ。

今では僕はとても良い調子だ。ぐずぐず夜更けまで飲んで最悪の気分で吐くこともないし、恋人だってできた。レポートは期限の3日前には終わらせている。着ている服のセンスが良いとも褒められた。全て8時間睡眠のおかげだ。
睡眠万歳!

*

なんてね。そんな上手い話があってはたまらない。多分僕の口に飛び込んだのは本当に蛾なのだろう。それも毒蛾なのだろう。哀れな蛾はもうとっくに死んでいる。自分を変えられない自分には、一番腹が立つものだ。
こんな救いも学びもない作り話がすらすら出てくるのは、何を隠そう今が深夜だからだ。夢との違いは、疲弊の有無に他ならない。
ドラキュラだって棺桶ですやすや眠っているだろうに。

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