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Beautiful

彼女は、いつも遅れてくる。

席に着くとシンハービールを頼んで、テーブルに無造作に置かれたメニューを取り上げた。パパイヤのサラダに生春巻、エビのレモングラス炒め。豚のから揚げは多分わたしだけが食べることになるだろう。

適当にオーダーしてビールをグラスに注ぎ、一気にあおって一息ついたころ、彼女がようやく現れた。綺麗に巻かれた栗色のロングヘアーに薄桜色のシースルーのシャツ、白い小ぶりなバッグを腕にかけ、おっとりした笑顔を浮かべている。

薄暗い店内なのに、そこにだけスポットライトが当たるような華やかさがあって、すれ違うテーブルの何人かがそっと彼女を仰ぎ見ていた。

「わたしから誘ったのに、遅くなってごめんね。いい飲みっぷり」

彼女は口をすぼめて笑うと向かいの席にふわりと腰かけた。こういう、体重を感じさせない動きを、わたしは多分一生真似することができない。

「すみません、わたしも同じものを」

彼女が片手をあげて店員を呼び、わたしが飲んでいたシンハービールを指さした。わたしも空になったボトルを持ち上げる。

「同じものを、もう1本」

背の高い店員がブイサインを作って去っていく。彼女は小ぶりなバッグの中からごそごそと何かを取り出した。

「これ、新作。良かったら使って」

上品なデザインのシートマスクだ。彼女の会社の製品だろう。彼女は1年前に、それまで勤めていた商社を退職し、コスメ企業を興していた。Instagramを活用したマーケティングでは本人が登場してシートマスクやアイラインなどの使用感を説明、大人の女性をターゲットにいくつかの商品をヒットさせていた。

「ありがと。さっそく今夜使う」

わたしは素早く拝むようにシートを上下させてからバッグに滑らせる。我ながら女子力の低い動き。

しばらくはビールを飲み、出てきた料理をつまみながら当たり障りのない話が続く。東南アジアのビーチリゾートを思わせるような店は狭く、にぎやかだ。少し声を張り上げながらお互いに近況を報告する。仕事はどう。最近あのブランドのあの商品がかわいいよね。

本当はお互い、どちらが切り出すかを探っている。

こういう状況にわたしは弱い。先に相手に言わせたほうが有利なことはわかっているが、せっかちな性分で黙っていることができない。

「それで、結婚の準備は順調?」

彼女はさばさばと笑った。

「順調だよ。彼、仕事で使ってるプロジェクトシートで進捗管理してる」

彼女は新卒で大手商社に入り、一般職として勤めていた。相手はその時に知り合った先輩だという。さすが商社マン、仕事ができる。

「まあ、一番最初に夫婦で取り組む大仕事だもんね」

「呼ぶ人の名簿とかはもう、彼にお任せしてる」

「でも前日に大体みんな徹夜するよね」

言わないでー、と彼女は笑いながらビールをわたしのグラスに注いだ。彼女自体、そつなく仕事をこなすタイプである。前日に徹夜して肌荒れをおこすようなことはしないだろう。

わたしもビールに口をつけながら、なるべくさりげなく聞いた。

「いいの、あいつのことはもう」

わたしの低く尋ねた声に、彼女はなんでもないことのように微笑んで、こう言った。

「こうちゃんのことは、ずっと一番だよ」

彼女はわたしの目を見て、もう一度繰り返した。

「こうちゃんはわたしの中でずっと一番大切な人だし、わたしもこうちゃんにとって一生一番だと思う」

わたしが言ったら笑われるようなドラマチックな発言。到底真似できない。

こういう、普通の人間が言ったら鼻白まれるようなことを、彼女はさらっと言えてしまう。

「まあ、そう言いながらコウスケと別れたじゃん」

バリのリゾートを思わせる竹のパーテーションを挟んだ隣のテーブルからグラスを倒すような音とあー、やっちゃった、というあきれたような声が聞こえた。

背の高い店員が慌てて布巾をもって駆け寄ってくる。

彼女は少しだけ隣のテーブルを気にかけるように目をやって、黙って肩をすくめた。

彼女が一番という、その男は、わたしの1歳違いの兄だ。

二人が付き合いだしたのは大学生の頃。身内ながらわたしの兄という人間は学問に秀で、スポーツもよくでき、体格もよく、自信にあふれた人間だった。人生で劣等感にさいなまれたことなど一度もないのではないだろうか。先輩や同級生に好かれ、後輩に頼られるタイプの人間で、学部の花だった彼女と付き合うまでそう時間はかからなかった。

豪放磊落な兄の隣で月のように静かに微笑んでいる彼女。

わたしの記憶には、いつも寄り添っていた二人の姿がある。

学生時代に友人と起業した兄。数年は操業で精いっぱいだったが、ここ最近は企業経営にも余裕が出てきて、そろそろ結婚するかと思われていた矢先だった。

彼女がある日、同棲していたマンションから消えたという。

混乱した兄からの電話でたたき起こされ、マンションに向かうと、ほとんどすべての荷物が残されていた。

玄関にぽつんと残された、華奢なハイヒールをよく覚えている。

数日後、ようやく連絡が取れた彼女は、電話口で「もうどうしてもこれ以上は一緒にいられない」と泣いたという。

兄は混乱したままわたしと一緒に荷造りをし、彼女の荷物を実家に送った。

そうして自分の何が悪かったのか今もわからないまま、彼女と暮らしたマンションに住んでいる。

「あいつ、どういうクソなことしたのか、一切吐かないんだよね」

わたしはビールをあおりながら言った。朝起きたら彼女の姿がないなんて、まともな恋愛の終わり方ではない。あの優等生の兄が、実は裏では彼女に暴力をふるっていたのではないかと、この一年間ずっと疑っていた。

「本当に何もなかったんだよ」

彼女は穏やかに言う。これまでに何度も繰り返されてきた言葉。

「何もないなら今も付き合ってたんじゃないの?あいつのこと大好きだったじゃん」

大好き、と言ったが、実際には依存に近かったようにも思う。大人になったばかりの彼女は弱く、家族の庇護の屋根から兄の庇護の屋根の下へとそのまま移り住んだような印象があった。

「結婚する前に、全部吐いてすっきりしちゃえば?」

わたしが切り込むと、彼女は困ったように笑った。

「本当に、何もないの。ただ、これ以上は一緒にいられないって思っただけ」

「くわしく」

彼女のグラスにビールを注ぐ。その軌道をしばらくぼんやり見つめて、彼女が話し出した。

「別れるちょっと前、こうちゃんが忙しかった時期があったじゃない?」

「資金調達関連?」

「そうだと思う。何日も帰れなかったりして、でも会社の人には大丈夫大丈夫って言ったりして」

兄の会社は、為替相場の影響を受けて市場全体的に投資が抑制された時期に資金調達がぶつかり、難航したことがあった。その時のことだろう。

「こうちゃんが頑張ってるから、わたしも頑張らないとって家事一生懸命やったりしたの。栄養のあるご飯作ったり。こうちゃん、疲れて食欲もないのにおいしいねって食べてくれたり」

彼女が過去を思い出すように遠くを見つめる。

「仕事が一段落してね、わたしのために休みを取ってくれて、二人で一日中部屋でのんびりすごしたの。こうちゃん、スマホもパソコンも一切見なかった。わたしの好きな音楽を聴いて、わたしの好きな映画を見て、ずっとわたしの隣に彼がいたの」

遠くを見つめる目。それは、その時間が遠くに過ぎ去ったことを示していて、本当に彼女の中では終わったんだなと思う。

「彼の腕の中にくるまれて、彼の愛情に包まれて、そしたら、急に怖くなった」

わたしが顔を上げると、そこには真顔になった彼女がいた。

「彼は、どんなに大変なときでも、わたしのことを愛してくれると思う。わたしはその愛情にくるまれて一生過ごすことになる。そう思ったら、急に息が苦しくなった」

彼女は無意識のうちに箸の袋を握りしめていた。

「みんな何かに挑戦してる。こうちゃんは会社、あなたは研究。そうやって自分の力を伸ばしてやりたいことをやっていくのに、わたしはずっと守られて、何もしないまま年を取ると思ったらこわくなって」

「兄に言えばよかったじゃん、やりたいことあるって」

「何もないのに?」

彼女がきっとわたしを見据えてきて、わたしはとっさにひるんだ。

「何もやりたいことはないのに、どうやってこうちゃんに言うの」

何もやりたいことがないという状態になったことは、わたしも兄もない。わたしたちはそれぞれに夢を持ち、その実現に向けて自分の実力を磨いてきた。

彼女はその何も持たないまま、何かをせねばと焦燥に駆られて、あの日、兄と暮らした家を飛び出したのだという。

その切迫感は、持たざる者になったことがないわたしたちには、多分一生わからないものなのだろうと思う。

「家を出てから、初めて真剣に考えたの。わたしは何が好きなのか、何なら夢中になれるのか。考えて考えて、わたしは着飾ることが好きだし、お化粧が好きだから、これならって思ったの」

彼女は唇をゆがめた。

「コスメなんてチャラチャラしてると思ってるだろうけど、わたし、これでも一生懸命やったんだよ」

「……そんな風には思ってないよ」

返す言葉が弱い。実際、男性中心の研究者の世界で女だてらにやってきたということが、わたしの背骨になっていることも確かだ。

居心地が悪くなって、わたしはビールをすすった。

「今の彼は、どうなの」

彼女は握りしめていた箸袋を丁寧にたたむとテーブルに置いた。

「いい人だよ。わたしのこと応援してくれて、事業計画も一緒に考えてくれる」

そう語る彼女の言葉には、兄に対して含まれていた熱意はどこにもない。

「幸せになれそう?」

わたしが何気なく聞いた言葉に、彼女は微笑んだ。強い微笑みだった。

「うん。幸せになるよ」

背の高い店員が、派手なデザートプレートをもって近づいてきた。スフレパンケーキにカラフルなフルーツが盛られ、南国めいた紙のパラソルと線香花火が刺さっている。

「あの、こちら、隣の方から…」

困惑しているわたしたちの間、器用に皿をよけてプレートが置かれる。

隣のテーブルを見ると、やけに派手な髪色をした若い青年がこちらを見ていた。

「あの、さっきバタバタしてご迷惑をおかけしたのと、あと、結婚されるって聞いて、それ、僕たちからお祝いです」

この青髪の青年は、隣の席でいいことがあるたびにパンケーキをおごるのだろうか。

面食らっていると彼女がにっこりと微笑んだ。

「お心遣い、ありがとうございます。おいしくいただきますね」

なるほど。こういうことはよくあることなのか。つくづく住んでる世界が違うと思う。

先ほど見せていた表情とは打って変わって、うきうきとした表情で彼女がパンケーキを取り分ける。

差し出されたそれをほおばると、ふんわりとした食感とともに控えめな甘さが口の中に満ちた。一方、彼女はと見ると、手をつけてはいない。

「食べないの?」

と聞くと、彼女は苦笑いをした。

「うーん、甘いものはしばらくはいいかなあ…」

結婚式に向けたダイエットなのかもしれない。ただ、なんとなく、以前の彼女ほど、甘いものはもう好きじゃないんだろうなと思った。

・・・


「……、ああー、びっくりしたあー!」

2人連れの女性客が店を出たのを見送って、髪を金髪に脱色した青年が声を上げた。向かいでは青髪の青年が無言で唐揚げを食べている。

「全然、年齢が違ったね」

金髪の青年が髪を抑えながらココナツジュースをすする。青髪の青年が口元をゆがめた。

「俺は、最初から違うと思ってたけどね」

「でもさあ!あんな美人の口からコウスケって出たら、ヤバ!って思うじゃん!」

ジュースをテーブルに置き、ぐったりしたように後ろの壁にもたれかかる。

「コウスケ君、来ちゃうのよ、もうすぐ」

「隣の席に元カノが座ってたら、びっくりするだろうね」

「妹さん、俺らより10歳くらいは上そうだったから、別のコウスケ君だったね」

「そもそもうちのコウスケ君はあんなヘマしないでしょ」

「知らないよ、人の恋愛なんか」

金髪の青年が壁にもたれかかりながらココナツジュースをストローで吸う。その様子を見ながら、青髪の青年が口を開いた。

「だって、わざわざ元カレの妹呼び出して幸せアピールするような人だよ?選ばないでしょ、そんな人」

金髪の青年が驚いたように体を起こす。

「え、あれってそういう話?」

「いや、最初から最後までそういう話だったでしょ」

うわー、と金髪の青年が頭を抱える。そこへ背の高い店員がやってきた。エプロンを外し、黒いリュックを手にしている。

「上がったで。そんで、まだコウスケ君来んの?」

しゃべりながら金髪の青年の隣に座る。どうやら、もともと知り合いだったようだ。青髪の青年がスマホを見ようとしたとき、店のドアが開いた。

「ごめーん、遅くなって」

赤髪の青年が大きめのバッグを肩にかけて現れた。申し訳なさそうに片手をあげている。

「あ、うちのコウスケ君来た」

「うちのってなんやねん」

「何飲みます、ビールですか」

赤髪の青年は、青髪の青年の隣に素早く滑り込むように座ると、バッグからノートパソコンを取り出した。

「色々相談して、決めてきたよ」

3人の空気が一瞬にして真剣なものに変わる。赤髪の青年が広げたパソコンの画面を3人が覗き込んだ。


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