自分や他人を仮想敵にする必要はないし、しなくてもいい

最初に言っておく。
今回の内容は、先日書いた記事である、

https://note.com/hakonote/n/nc687d11e0e99

からの続きみたいなものだ。
調べたりなんだりして諸々考えたら、
自分の中でそうなった、というだけのもの。


・結局、何故他人に害意を向けてしまうのか

正しくない反応かもしれないが、
加害者像の取り込みなども、自分を守るめの術。
では「自分を守りたい」が理由のはずなのに、
どうして他人を攻撃するのか。

意識には上がってこないかもしれないが、
「自分を守らねばならない」ということは、
「自分の何かしらが否定された」ことと同じだ、
という捉え方ができる。
できてしまう。

たとえ誤解であったとしても、そうして一度、
「相手は自分に攻撃してきた敵だ」
という認識ができてしまうと、
それが消えなければ、相手は「潜在的に敵のまま」ということになる。
それでは心が休まらない。
「いつ自分が攻撃されるだろう」という緊張が伴ってしまうから。

緊張しっぱなしでいなければならず、気を抜くことができない。
それは、もはや立派にデバフなのである。
思考力や判断力が下がった上に、
(相手が抱いていなくても感じる)敵意というプレッシャーまでつく。

結果として、本来出さなくていいはずの攻撃衝動を、
理性で留めておけなくなったのなら。
それは、被害者が加害側にまわってしまった瞬間になる。


・「自分がされて嫌な事を他人にするな」は何故なされないのか

ひとつは「する側」が他の手本を学べなかったから。
そうされることしか知らないなら、そうすることしかできないのだ。
無知であるが故に、間違いと正しいの区別がつかない。
なんなら、つけるための知識が与えられていることもほぼない。
子供が親の行為から学んで覚えてしまったりするようなのは、
おそらくこちらが強いのだろう。
覚えたら、変える方が難しくなってしまう。
「自分の正しさをひとつ捨てる」に等しいから。

場合によっては、たちが悪いことに、
「そうすることが正しい」という思い込みが足されている時もある。
やらかした側の自己弁護主張を真に受けるような、
それで自分が間違いの側だと思いこんでしまうような、
純粋か、あるいは既に弱っていたか、
そういう人が、他人の力で外から植え付けられやすい。


もうひとつは悪意にもとづく場合。
相手の心を折ってでも、自分が優位にいたいから。
自分がされたくないからこそ、他人を先に潰すのだ。
傲慢とか、虚栄心とか、そちらの方になる。

「クソだな」と思うかもしれないが、
これは結構な頻度で目にすることになってしまう案件だと思う。


・自分「は」それで傷付いたのだという前提がある

じゃあすんなよ!
となるかもしれないが、少し考えてみてほしい。
敵に攻撃するときに、何が効くかわからないのなら、
「自分は確実にこれでやられたから、これをしよう」
となる可能性はあるのではないだろうか。

そして、害意を向ける相手は、既に「敵」として認識されている。
振り上げた拳を下ろすという選択肢がないなら、
攻撃は実行されてしまう。
その後に加害側が正気になれたとしても、だいたいは手遅れだ。
失われたものを取り返すというチャンスがあるならマシな方だ。
それすら、自分で一緒に叩き壊していることも、ザラにある。


・いわゆる「試し行為」になっているときがある

相手を、何かを信じたいのだとしても、それはやめとけ、とはなる。
自分がそれをされて、加害者への信頼を失ったように、
あなたに試された相手からの信頼も、それで失われることになる。
自分で勝手に鏡を叩き、割れた破片で怪我をするようなものだ。
そもそも、やる側が確認やお試しくらいの気持ちでも、
普通は殴られたくないし、それで殺されたくもないわ
と思うのだが。

愛着障害というものの影響のひとつとしても、出るらしい。
「信じられない」が何かしらあることで不安になり、
確かめたいという気持ちから、相手への攻撃になる。
相手から受容されることで確認ができたとしても、
それは一時的な物で、また不安は生まれてくる。
正しく満たされなければキリがない。
その後の関係性の維持も、そのままならいずれ限界が来る。
そうして「自分がダメだから」と自己否定に陥り、
自信を損なっては同じことをして繰り返す、
というループにハマることもあるだろう。

そうなる前に、自分で自分を愛せるように、信じられるようになれないと、
対人関係の生きづらさは、ずっとつきまとい続けてくるだろう。

そんな厄介現象よりも、好きな相手に愛されたくないだろうか。
自信のなさから、許してもらえる確認のために攻撃するのではなく、
自信がなくても、今の精一杯の愛を向ければいいのではないだろうか。




「愛し方がわからない」
「誰もどこも教えてくれなかった」

という事情が背景にあるのだとしても、
「攻撃すること」が「愛ではない」ということは、知っておくと、少し生きやすくなる。

それ(攻撃)が愛情表現として認められるのは、
フィクションの中だけだ、と頭の隅に留めておく方がいい。
でなければ、それは特殊な性的嗜好であると自覚して、
嗜好がマッチングする相手と出会う努力をしてほしい。
それなら両者が共に幸せになれる。



……他人を造り変えて愛を得ようとするのは、ただのエゴだ。
それがたとえ、血の繋がりがある、親と子であっても。

愛だと思っていることが、愛ではなかったと知ったなら、
その気付きから、自分で変わろう。
気付けたのならば、変わっていける。

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