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映画日記 森達也・監督『福田村事件』歴史を修悪させないためのフィクション


1 のうがき


2週間くらい前に観た映画の感想文を書こうとして、毎日、書きあぐねている。頭の中にいろいろなことが巡っていて、ちゃんとまとめられないのだ。映画は1回しか観ていないし、その映画評の類は、頭の中がとっ散らかるので、読んでいない。いつものように見切り発車する。

これから続く文章は、最初に森達也監督の『福田村事件』の感想文があって、それからジョニー・ディップの『MINAMATA』について触れ、昨今の偽史偽書のような政治本の乱発売に触れ、文書の改竄とか歴史の修正とかについて考える、という予定だ。

あくまでも予定だ。私の頭はポンコツだから、ただの思い付きの羅列になるかもしれない。それと、歴史を修正するとか、歴史修正主義とかいうコトバが使われているが、実際に行われていることは、修正ではなく、修悪だ。修正というコトバは使わない方がいいのではないかと思う。

2 映画『福田村事件』感想文 前振り


先々週、森達也が初めて撮ったフィクションの映画『福田村事件』を観てきた。吉祥寺のアップリンクで、満席だった。といっても60人くらいのキャパだ。



1923年に起きた関東大震災から数日後の出来事を題材にした映画だ。関東大震災は、1923(大正12)年9月1日正午2分前に発生した地震だ。明治以降の首都圏を襲った、今のところ、最大の地震だ。関東から東海地方にかけての広範囲に被害が及んだ。死者は11万人弱という数字が出ている。


「福田村事件」のあらましをおさらいしておく。

震災直後は、朝鮮人が井戸に毒を入れたとか、集団で襲いに来るとかいったデマが飛び交った。当時の日本は、朝鮮半島を植民地にして、朝鮮の人たちを、国内外でいいようにこき使っていた。例えば、各地の炭鉱などで、劣悪な環境と最低の条件で、働かせていたりした。

一般的な日本人の側には、従来の差別意識の上に、普段、朝鮮人を虐めているから、仕返しされるかもしれないという意識が加わったりして、このようなデマが生まれたらしい。

このデマに、内務省がお墨付きを与えた。地方の警察に、自警団でも作って、朝鮮人に対処するように、と通達を出したのだ。そういったことも、デマそのものも、新聞各紙が、裏を取らずに、煽るように報道した。

それらを真に受けて、各地では自警団が組織された。内務省の通達は、少し後になって訂正されるが、それでは遅かったのだ。

震源に近い東京では、地震の翌日から、朝鮮人や、主義者といった反体制の人たちが、連行され、根拠もなく処刑された。主義者を連行したのは警察だったが、朝鮮人を処刑したのは、主に自警団の人達、つまり、普通の人達だった。

朝鮮人をやってしまえ、という気分は、地方にも及んで、千葉県の野田あたりには少し遅れて、波及している。その時、野田の福田村には、たまたま香川県から薬の行商に来た15人の一団がいた。

彼等は香川訛りの日本語を話したため、朝鮮人ではないかと疑われ、自警団によって、虐殺された。9人が殺され、利根川に捨てられた。

6人は生き残ったが、事件に関しては口をつぐんだ。

自警団の中の8人が、事件後、裁判にかけられたが、自分がやったことは勘違いだったかもしれないが、国や地域を守るためにやったことだと胸を張って裁判で証言した、らしい。

この8人は、懲役刑を喰らったが、大正天皇崩御の恩赦で、わずか2年ほどで、全員が釈放されている。

被害に遭った行商の一団は、香川県の部落民だったこともあって、朝鮮人差別の上に、穢多差別が重なったのかもしれない。虐殺の要因が、朝鮮人と間違えられたのか、もしかしたら、穢多だったからだという説もあるらしい。実際に、地震後は、各地で部落民への迫害もあったというから、否定は出来ない。

生存者が帰郷後も口を噤んでいたのは、故郷でも被差別の位置にあったからだと思われる。福田事件は、関係者が口を閉ざしていたこともあって、1980年代になってやっと少しだけ明るみに出た。

以上が、福田村事件のあらましだ。

この事件をもとに映画化したのが、『福田村事件』だ。

3 映画『福田村事件』感想文 中身


とてもちゃんとした良い映画だった。シナリオがしっかりしていたからなのだと思う。終盤への一気呵成の盛り上がりなど、こういう言い方が合っているかわらかないけど、エンタメしていて、見事だったと思う。私は森達也のドキュメンタリー映画が苦手だったが、今回は、森達也を見直した。

男が情けなく、女性がたくましく描かれているところも、痛快だった。昨今、よく言われる伏線の回収なんていう、みみっちいことを観客に考えさせたりはしない映画だった。カメラワークとかに疑問点がなくはないが、大した問題ではないと感じた。

この映画が、観客に考えることを迫るのは、ただ一点だ。あなたも条件が揃えば簡単に加害者になってしまいますよ、その時、あなたは大丈夫ですか?  ということだ。

これは非常に重い問いかけだ。

福田村事件は集団による集団虐殺だけど、私たちが加害者になる場面は、程度の差こそあれ、日常生活の中にいくらでもある。コロナ禍のマスク警察だって、2年前の小山田圭吾バッシングだって、同じものだ。

その時になったら、私はどうするだろうか。

多勢に流されないで、同時にその多勢を、諫めて、とめることが出来るだろうか?


4 映画『MINAMATA』への違和感 ご都合主義のフィクションと、変えられない史実と



『福田村事件』と同じく現実の出来事を映画化した作品に、ジョニー・ディップの『MINAMATA』がある。これは、水俣病の渦中の1970年代初頭に、水俣に移住して活動をした、アメリカ人の写真家ユージン・スミスとアイリーン・スミス夫妻の姿を追った映画だ。水俣が被った、あるいは今でも被っている理不尽を告発した映画だ。

私が見たのは、ロードショー公開時の一度きりだから、数年前の記憶でこれを書いている。私は映画『MINAMATA』に、大きな違和感を感じたのだ。

違和感の中心は、史実と違いすぎるということだった。『MINAMATA』は、ドキュメンタリーではなく、フィクションだから、史実と異なる部分があって当たり前なのだが、私には気になるところが多すぎたのだ。

例えば、ジョニー・ディップが演じるユージン・スミスが、写真を『ライフ』に発表したことが契機となって、チッソが被害者の補償に応じるようになったとか、チッソがネガを売るようユージンに買収を仕掛けたとか、ネガはいったん盗まれたが盗んだ犯人が心変わりして返してくれたとか、学者の宇井純や写真家の桑原史成らの功績が、ディップ演じるユージンのものになっていたとかだ。

史実とはあまりにかけ離れているし、ジョニー・ディップ演じるユージン・スミスが、とても安易にヒーロー化されていると感じたのだ。

もう一つ、水俣病患者の女の子と彼女を入浴させる母親の写真の扱いも気になった。この写真は、ユージンが撮った水俣の写真の代表的作の一枚なのだが、後に遺族から要望があって、一般公開が封印された写真だ。

そのいきさつが、当時は、大きな話題にもなった写真だ。この写真は、ユージン・スミスの写真集からも削除されている。ところがこの映画では、その封印が解かれていたのだ。

封印したのも封印を解いたのも未亡人で写真の権利を持っているアイリーン・スミスだ。封印を解いた背景にはいろいろな事情があるのだろうけど、私が気になったのは、むしろ、この映画の中での、その写真を撮影するシーンだった。

なぜか映画のクライマックスのシーンとなっていて、またなぜか、レリーズでシャッターをきるのが、ユージンではなく、妻のアイリーンだったのだ。

史実では、この写真が撮られた時期は、スミス夫妻が、水俣に移住してまだ間もない頃で、映画のクライマックスに持ってくるには、ずいぶんと時期が違っているし、その写真の撮影時のユージンは、自分でシャッターを押せないくらい体が弱ってはいなかった。

たとえ弱っていたとしても、写真家が、妻とはいえ、他人にシャッターを譲るとは思えないのだ。

そんなこんなで、史実との違いがたくさんあって、私はかなり気になったのだ。そもそも、風景や家屋が、日本に見えないところにも、大きな違和を感じた。この映画は、確か、セルビアだかモンテネグロでロケをしたのだった。

ということで、『MINAMATA』という映画は、フィクションとしては、きっと、とても良い映画だったのだとは思うのだが、私には気になるところが多すぎて、冷静に判断が出来なかったのだ。


5 フィクションの果たす役割 史実を際立たせるフィクション



さて、『福田村事件』の映画に戻ろう。『福田村事件』について、史実とフィクションについて、考えてみたい。

私は、福田村事件に関しては、ほとんど知識がないから、史実とフィクションの別を指摘することが出来ない。だから、『福田村事件』には何の違和感もなく見ることが出来た。

しかし、事件の経緯に詳しい人だったら、『MINAMATA』を見た時の私のように、いちいちが気になるのではないか、と思うのだ。気になったら、映画の評価は辛くなるだろう。

おそらく主要な登場人物の多くは、フィクションなのだと思う。井浦新や田中麗奈、コムアイ、木竜麻生らが演じた人物には、具体的なモデルはいなくて、作った登場人物なのではないか。

そして、この架空の人物たちがいなければ、この映画は、映画として成り立たないし、「福田村事件」という史実を、より強固に知らしめるためには、なくてはならない登場人物たちだったのだと私は思う。

だが、史実にない人ばっかりだと気になってしまったら、どう思うのだろうか。そんなことを考えたら、なんだか複雑な気持ちになってしまった。

映画『福田村事件』は、関東大震災の直後に、一般人によって朝鮮人が虐殺されたり、朝鮮人と疑われて虐殺された事件があったことを伝える目的に作られたとしたら、これら架空の人物たちがいたことで、その目的はしっかりと達成されているのだと思う。

だから映画『福田村事件』のフィクションは、事実を伝えるためには必要で、効果的に機能しているといえる。


6 史実と歴史 正史は権力が作ったもの、記録にないものは、歴史にならないのか?


さて、ここから先が、問題だ。私の悪い頭で考えているのだが、うまくまとめることが出来ない。出来ないから、グダグダになっている。

ここ何年かで、関東大震災の時に朝鮮人虐殺があったことを否定する発言が、相次いでいる。直近では、内閣官房長官の発言だ。政府の公式見解だと繰り返しているところが、気味が悪い。

記録にないものは、存在しない、と朝鮮人が虐殺された事実を、ないことにしてしまおうと、しているのだろうか。


歴史というものは、時の権力側が編集したもので、権力側にとって都合の悪いことは書かれていない、なんてことが、昔から、よく言われている。これは、起きてしまった事実は、消すことが出来ないが、歴史からは消すことが出来る、と解釈することもできる。つまり、人々の記憶から消せば、事実がなかったも同然にすることが出来る、ということだ。

松野官房長官の発言は、そういったことを意図しているのだろうか。内閣官房長官という立場の人がこういう発言をして、許されている状況とはなんなんだろうか、という疑問も浮かぶ。

そもそも内閣官房が何をするところなのか、私はわかっていないが、内閣の一人である官房長官が、この程度の情報収集能力、分析能力で大丈夫なのか、という疑問も浮かぶ。

もしかして、松野という人は、わかってて言っているのかもしれない、という疑問も浮かぶ。

ウィキを見ると、松野博は、1962年生まれで、松下政経塾の出身だ。ほぼ私と同じ年代の人間だ。この年代で、まともに暮らしてまともに教育を受けて、まともな向学心があれば、朝鮮人虐殺がなかったと言えるようにはならないと思う。

いや、違うか…。私の周囲の同年代の人間で、コロナワクチンを打てば体内にチップを埋め込まれるとか、トランプ・アメリカ前大統領は、本当はバイデンに選挙で勝っていた、とかいう類の陰謀論に、未だに、はまっている人もいるから、まともでない人も大勢いる。

松野博がそういう人なのかは、わからないが、松野を最初に重用したのは、安倍内閣らしいから、「そういう筋」の人として、採用配属されたような気もする。「そういう筋」というのは、女性議員しか思い浮かばないが、高市早苗とか稲田朋美とか杉田水脈とか、いわゆる愛国者風の発言を繰り返し、保守的な人たちを喜ばせる政治家たちだ。

この人たちが、本心からなのか、信念をもっているから、愛国者風の発言をしているのかどうかは、私にはわからないが、彼らの発言や存在が、ある種の保守層に喜ばれているのは確かだ。

松野博も、自分の意見は別して、しかも、官房長官本来の役割も別にして、党内外の保守的な人達に向けて発言しているのかもしれない。そういうあり方は、政治家として、以前はあり得なかったし、考えられないことだったが、そんなことが、小泉政権や安倍政権以降、あり得ることになったし、それどころかフツーになってきた印象すら受ける。

特に、安倍政権下では、議事録を残さなかったり、公文書を改竄して、事実がなかったかのようにするのも、フツーになってきた。


7 「プロなんだから仕事をしろ」の意味とその先にあるもの


こういう記録や文書をないがしろにしながら平気でいられる感覚と、この後に説明するが、ウラの取れていないノンフィクションまがいの本が流通するようになってきた雰囲気とが、私には同じもののように感じられるのだ。

公文書を改竄するコームインは、自分はそうじゃないけど、仕事だから、などと割り切って、改竄作業をやっているように見える。そして、そういうコームインが増えている気がする。

私の周囲にも、職場でそういう割り切り方をして、仕事をしている人がとても多い。

そこでやたらと言われるのは、「プロなんだから」とか「プロ意識を持て」とかいう「プロ」という言葉だ。この場合の「プロ」とは、プロフェッショナル本来の意味とはまるで反対の、「割り切って仕事をやれ」とか「私情を挟んだり、個人の意見を交えずにやれ」といった「長いものに巻かれろ」的な意味で使われている。

疑問を抱かずにやることをやれ、とか、上の言うことに黙って従うのがお前(私たち)の仕事だ、みたいな押しつけだ。やっていることの是非や意味など考える必用を認めず、そのまま実行することを抵抗なく受け入れさせるための、重宝するコトバとして、「プロ」とか「プロ意識」というコトバが、一般社会に広まって、使われている気がしてならないのだ。

また、自分で勝手に判断せずに、周りとよく相談しろとか、専門家や上司に相談したのかとも、よく問われる。何か意見を言うと、それはあなた個人の意見でしょうと拒否されるのだ。現場を知らないプロとか、現場にいない上司の意見が優先されて、現場の意見は無視される仕組みが、日本の仕事現場には、隅々までしみわたっている気がする。

そして、そのようにしか、仕事をしたことのない人は、世の中にとても多いのではないか。それは、私たちの今の日本が、そのように仕事をする人ばかりを作り出す社会だからだ。そして、そのように仕事をする人がたくさんいることで、成り立っているのが、今の日本の社会なのだとも言える。

だから、そういう割り切り方をしていると、行き着く先には、おのずと公文書の書き換えとか歴史の改竄が待っていることになる。今の日本で、公文書の改竄や歴史の書き換えが横行するのは、だから、当たり前のような気がするのだ。

ビッグモーターの街路樹伐採が、仕事に中で行われたのも、これとおんなじに見える。


8 タレント本まがいの政治本の乱発売


最近は、本屋さんで売っている本もおかしなことになっている。ウラの取れていないノンフィクションまがいの本が、平積みされて大量に売られるようになっている。

たとえば、安倍晋三関連本にそのような本が目立っている。

『月刊HANADA2023年8月号 安倍晋三元総理一周忌大特集号』、『安倍晋三回顧録』、『安倍晋三回顧録公式副読本 安倍元首相が語らなかった本当のこと』、櫻井よしこ・著『安倍晋三が生きた日本史』、岩田明子・著『安倍晋三実録』、西岡力/阿比留瑠比・共著『安倍晋三の歴史戦』、大下英治・著『安倍晋三・明恵 35年の春夏秋冬』などだ。

これらの本に共通してるのは、言いっ放しで裏の取れていない情報をそのまま載せていることだ(と私は感じている)。ノンフィクションやドキュメンタリーというよりも、タレント本に近いのだ。

ついこの間まで、ノンフィクションの本は、検証作業が行われていなければ、出版されなかったし、出版後にウラの取れていない情報の記載が発覚すると、訂正されたり、ひどい時には本が回収されたりしたものだ。ところが、最近は、ウラ取りをしない段階の内容で、そのまま出版されるようになっている。

これまで、そういういい加減さが許されたのは、芸能人の自伝のようなタレント本くらいだったのだが、最近は、その範囲が政治本にも及んできたように見える。

現在の出版業界は、不況すぎて、ウラ取りをする手間や暇をかけられないのかもしれない。同時に、少しでも売れる本を、早く出そうと、必死なのかもしれない。でも、その結果、出版社、あるいは本というものの信頼を損なう、残念な状況になってしまっている気がする。

これらの安倍上げ底本(←こう書くことで私の偏見が現れてはいるが……)に書かれている安倍晋三像は、途轍もなく偉大な政治家で、歴史に残るような業績がある、偉大で有能な政治家像だ。

が、私が認識している安倍晋三は、タフな交渉などができない育ちのよいボンボンで、すぐに感情的になる子供っぽいプライドの持ち主で、身内への利益誘導をためらわず悪びれず行い、説得や話し合いで物事を進めるのではなく、一応は合法の、しかし脱法的な手段で、数の力と人事権等を振りかざして恫喝する人、というイメージだ。

森友事件や文書改竄問題で人が亡くなったりしていても、自分とは関係がないと突っぱねることの出来る、その意味ではタフ?な人だ。

安倍晋三に対して、そういうイメージを持っているから、私はこれらの安倍晋三本は、受け入れられないし、デタラメに感じている。といっても、ちゃんと買って読んだわけではないが……。

こういう本は、いずれ淘汰されるのだろうか。それとも、このまま図書館などに入り、何年も経ってから、当時を知らない若い人が参考にしたりするのだろうか。

『安倍晋三回顧録』などがこのまま残ったら、森友事件は、安倍晋三が財務省にはめられた罠だったとかいう、在特会まがいの主張がまかり通ってしまうことになる。それはやっぱり違うと思うのだ。思うけど、どうしたらいいのだろうか。


9 歴史を書き換えてなかったことにするフィクションと、あったことを際立たせて記憶させるフィクション


これらの安倍晋三本の、史実や事実と異なる部分を、フィクションだとすると、そのフィクションは、明らかに、文書の改竄や歴史の書き換えと同じものだ。あったことを、なかったことにしたり、逆に、なかったことをあったことのようにする種類のフィクションだ。

映画『福田村事件』が用いているフィクションは、事実を葬ろうとするフィクションとは、正反対の働きをしている。あったことを、より強く印象付け、しっかりと記憶させる働きを持っている。本来のフィクションは、このように用いられるものなのだと思う。


と、ここまで書いて、疲れてしまった。この先は「フィクションの力」について考える予定だが、ばらけてしまった。いったん、やめて、書けたら続きを書くことにする。なんだかな、だ。



PS.  ところで在日の人とか、部落出身の人が見たら、この映画はどう見えるのだろうか、ということも、ちょっと気になった。それは、この映画が、日本人の良心に都合がいいような気がしないでもないな、ってことを、映画を観て、2週間ぐらい経って、思いついたからだ、って日本語になっていないな。

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