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映画日記 『新幹線大爆破』と『罪の声』と高倉健のこと




娯楽に徹した映画『新幹線大爆破』


Netflixで『新幹線大爆破』を見た。「立派な」という形容がふさわしい娯楽映画だった。

私はジジイだから、すぐに昔はよかったみたいな調子になるのだが、この映画もそんな感じで、良いと思ったのだ。

そして『新幹線大爆破』みたいな映画は、現在ではまるっきり姿を消してしまったんじゃないか、と思うのだ。

この映画には、いろいろと指摘したいところはあるのだけど、見ていて、んっ、これはなに?とか、違うんじゃないの、といった調子で、途中で引っかかる部分がほとんどなかった。

それは私が、この時代の映画を見て育ったってことが、一番の理由かもしれないが、展開と展開のつなぎに、それなりに説得力があるからなのだと思う。

物語が展開して画面が流れていって、その流れに安心して身を任せて楽しむことができたのだ。

そういう体験を、私は最近の映画でしたことがないなあ、と思いながら、この映画を楽しんだ。

だから、『新幹線大爆破』のような見事な娯楽映画が、今ではなくなってしまった、と私は考えている。

その時代を知らない若い人達が作った映画


先日、同じくNetflixで『罪の声』(2020年公開)という映画をみた。娯楽ミステリーだと思って見はじめたのだが、ちょっとひどかった。ちょっとどころか、あんまりひどいので、最後まで見てしまった。


『罪の声』は、グリコ森永事件をモチーフにした映画だった。あの事件では、脅迫テープに子供の声が使われていたことでも有名だ。

映画では、その脅迫テープの声が、自分の声ではないのか、と疑問を持った男が主人公だった。

その時点で、成り立たないハナシじゃないかと、私は思った。

いくら子供でも、自分が録音したことを憶えていないとは思えないのだ。百歩譲って、記憶になかったとしよう。

しかし、脅迫テープの子供の声は、事件後、テレビで何度も流れているし、普通に生活している人なら、どこかで絶対耳にしていると思う。学校の友達だって聴いている。お前の声じゃないのって、絶対に言われるはずだ。

そういうことがなかったという前提で、この映画は進行している。あの時代を知っている人にしてみれば、普通に考えて、あり得ないと思う。

ということは、あの時代を知らない人達が、後追いで、調べて、あの時代を再現したのがこの映画なのだろう。現場の人達の年齢を考えても、そういうことだと思う。

映画の後半に、事件の実行犯として、宇崎竜童が演じる元学生運動の活動家が出てくる。が、犯行動機としては説得力がなさ過ぎる。それに学生運動の設定年代もズレているような気がした。下調べが不十分だったのだと思う。

安心して見ていられないのだ。いたるところで、いや、それは違うでしょう、と引っ掛かり、そのようなハナシに繋げたいのなら、ここはこうしないと駄目でしょう、と躓くのだ。

という風に、『罪の声』という映画には、基本的なところにありえないことがたくさんあって、お話として楽しむことが出来なかった。

これは脚本が、駄目なんだと思った。映画作りには、大勢の人が関わっている。だから、脚本も複数のプロの眼にさらされているはずだ。それでも、脚本の段階で修正がされずにこれで通ってしまったのは、全体のレベルが下がっているとしか考えられない。

ところが、この脚本が、その年の日本アカデミー脚本賞をとっている。

二重に絶望した。

その時代を知らない若い人達が作っているのだろう。見るのも、もしかしたら、若い人ばかりなのだろう。そうなると、もう、仕方がないような気もする。映画を取り巻く環境は、現場も含めて、そのように流れていくのだろう。

私は映画評論家ではないから、自分の限られた経験から推し量って適当なことを書いているだけだけれど、『罪の声』の駄目さも、『新幹線大爆破』を作る技術が今は失われてしまったんじゃないかという危惧も、あながち間違っていないと思う。

辛口映画評論が書かれなくなった………



少し前までは、映画評論家の書いた映画評論というものがあって、それがけっこう役に立った。

特に映画時評は、その映画の公開前後に、書かれた短いコラムのような文章で、その映画について、最低限の基本情報を伝えていて、その上で、その映画の良い点、悪い点、新しい点などを、評論家の蓄積された映画知識に則って書かれていた。

それを読めば、その映画の大体を掴むことが出来、見るべきポイントがわかったりした。見た後に読めば、認識の足りなかった部分が細くされ、頭の中が整理された。

今でも、紙の新聞には、週に一回、映画時評のような欄があることはある。しかし、そこに書かれてあるどの文章も、批評性があまりなくて、その映画を褒める広告のような文章なのだ。

特に、欠点を指摘して、今のコトバで言ったら「ダメ出し」をする文章は、めっきり見かけなくなった。

一方、インターネットの中では、映画に関する感想文が、それこそ星のようにあふれている。大抵、名の知らない素人の書いた感想文だ。私が書いているこの文章のように、無責任に勝手なことを書き殴ったというか、吐き出した文章だ。

その映画に関する基本情報はないし、相対化させる見識もない。大概が、その映画を見た自分に関する感情的な文章だ。読んでいて面白かったりするが、役には立たない。

プロとアマの違いは、この「役に立つ」という点にある気がする。

ここでの役に立つ、とは、その映画の背景や知らない時代のリアルを教えてくれたり、流して見ていると気が付かない大事なことを教えてくれたりとか、その映画が映画史の中でどうのような位置づけになるのかをわからせてくれる、といった意味だ。

そして、その映画の映画いていた時代を知らない人達に、その時代はこうだったんだよと、教えてくれる文章だ。時代をその映画で描けているか描けていないかを、示してくれる文章だ。

そういう本来の意味での批評する文章がなくなって、映画に関する文章の全部が広告化してしまった結果、映画の基準、というものがゆるくなり、作る方もゆるい作品を普通に作ってしまうようになったのだ、というようなことを、私は考えている。

どんなに間違った部分のある映画を作って指摘されないので、間違いだらけの映画が増えてしまったのだ。その結果、しょぼい映画ばかりが増えて、色んな世代の人が楽しめる娯楽映画を作る技術も、廃れてしまった気がする。

これはこれで短絡的な結論だけど、『罪の声』なんかを見ると、そんな気持ちが強くなってくるのだ。

そうだ、『新幹線大爆破』について書こうと思っていたのだ。


ハラハラドキドキが持続する娯楽映画




この映画は、東京発博多行きの新幹線に、時速80キロ以下になると爆発する爆弾を仕掛けて、国鉄にお金を要求するハナシだ。

仕掛けたのは、高倉健演じる倒産した町工場の社長と過激派崩れの仲間たちだ。

新幹線を運転するのは、千葉真一だ。東京駅で、陣頭指揮を取る国鉄の職員が、宇津井健だ。

そのほかにも、たくさんのスター、俳優が出ている。ワンシーンだけの主演も多い。駅前で待ち伏せする刑事の役で、北王子欣也。電話交換手の役で志穂美悦子。航空会社のカウンターに多岐川裕美。

警察の現場指揮者のような役で丹波哲郎も出ている。今では名前を思い出せないあの人たちが、何人も出ている。

それだけで楽しい。

二時間半の長い映画だが、最後まで飽きないで見ることができた。それは、脚本(つくり)がしっかりしているからなのだと思う。

お金が詰まったジェラルミンケースがあれでは軽すぎるだろうとか、犯行動機が薄すぎるのではとか、突っ込みどころは多々あるものの、見ている時には気にならないで見ていられるのだ。

流して見ていられるのだ。

それくらい、展開における納得できる理由付けがあり、勢いがあって、シーンとシーンのつなぎがちゃんとしているのだ。

そういう伝統的な技術というか、映画作りの文法が、最近の映画制作にはなくなってしまったような気がする。

その原因の一つには、駄目なものを駄目と叱る映画評論家がいなくなったこともあるような気がする、っていうことを前半に書いたのだ。


『新幹線大爆破』は今調べたら1975年公開の映画だった。ちょっと古いけど2015年のサイトを見つけた。


この映画は、アメリカで始まったパニック映画のブームに便乗しようと、突貫工事のように作られのだそうだ。そういわれてみたら、この映画もパニック映画なのだ。しかも、国鉄の協力は得られなかったそうだ。

『新幹線大爆破』については、この「映画参道」というサイトの文章を読んでもらうとわかりやすい。


最初から完成されていた高倉健


1975年というと、主演の高倉健はまだ38歳だ。でも、この映画の高倉健は、50歳にも、60歳にも見えた。私が見た限りでは、この時、既に往年の高倉健だった。

『海峡』とか『居酒屋兆治』とか『鉄道員』とか『ホタル』とか『ブラック・レイン』の健さんと、まるで変わりがないというか、そのまま同じ高倉健だった。

高倉健は1931年、昭和6年に生まれている。昭和1桁だから、私の両親と同じ世代だ。亡くなったのが2014年の11月だ。だからもうじき10年になる。きっと十周忌で盛り上がるのだろう。

ある時期から高倉健は、日本を代表する名俳優とされてきた。立っているだけで絵になるとか、セリフなしで背中で語れる俳優だとか、そんな高い評価だ。

でも、本当に名俳優なのだろうか、って、意地悪な私は思ってしまうのだ。ということで、罰当りなことを書く。

高倉健のイメージといったら、無口で、実直で、無骨でまっすぐで、正義感が強く、その正義を実行する孤高の人、というものだ。

高倉健は、ヤクザ映画を卒業してからは、亡くなるまで、そういう一種類の役柄しか演じていない。

だから俳優としては、非常に限定された俳優だったと思う。年齢相応の役を演じた印象もない。晩年は、実年齢よりも若い役だった気がする。年齢相応の老けた役はやっていないんじゃないか。

確かに最後まで主役を張っていたが、こういう狭い役どころしか演じられない俳優は、大俳優ではあるけれど、名優といえない、と私は思う。


高倉健が出た映画を並べてみると、金太郎飴みたいな一つの同じキャラしか出てこない。それはもう高倉健というキャラだ。

高倉健という芸名を持った人が、現実にはどういう人だったのかは、知るよしもないが、高倉健は、高倉健を演じたのであって、映画の中の様々な役を演じたのではない気がする。それはそれですごいことなんだろうけど、どうなの?って、誰かに聞いてみたい。

それこそ映画評論家の人に聞いてみたい。

そういう文章って、どこかにあるのだろうか?



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