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読書日記 大江健三郎晩年の5冊を読んで思った、きっと的外れなこと1 名前がおかしい!




1 私の大江体験


のっけからなんだが、私は、大江健三郎のよい読者ではない。というか、このひとつきくらいの間に、晩年の5作を読んだだけの、ほぼ初心者だ。

読んだのは、
『取り替え子』(2000)
『憂い顔の童子』(2002)
『さようなら、私の本よ!』(2005)
『水死』(2009)
『晩年洋式集』(2013)
の5冊だ。

大江健三郎は、今年の3月に亡くなった。それを機会に、読んでみようと思ったのだ。いつものように罰当たりなきっかけだが、読まないよりはいいような気がする。

実は以前に、大江作品は読んだことがあるにはあるのだ。それは私が二〇代の頃だから、今から三〇年以上も前のことになる。出版された本でいうと、『同時代ゲーム』(1979)から『懐かしい年への手紙』(1987)の間のことだ。

そもそも大江作品を最初に手にしたのが『同時代ゲーム』だった。高校生の私は、『同時代ゲーム』が出た時に本を買ってきて、頑張って読み始めたが、50ページくらいで挫折した。だから読んではない。そのあとの時期に、遡って大江作品の旧作を何冊か読んでいる。

新潮文庫の『芽むしり仔撃ち』は読了した。
新潮文庫の『飼育』も読了した。
古本屋で買った新潮純文学書き下ろし特別作品の『個人的な体験』はすぐに挫折した。
講談社文庫の『万延元年のフットボール』もすぐに挫折。
古書店で買った新潮社の単行本『ピンチランナー調書』は読了した!
新潮純文学書き下ろし特別作品の上下巻『洪水はわが魂に及び』も読了!
講談社の単行本『新しい人よ目覚めよ』は挫折した。
新潮の単行本『レインツリーを聴く女達』も挫折。
講談社の箱入り単行本『懐かしい年への手紙』も当然、挫折した。確か数ページも読んでいない。

だから私が読んだといえる大江の長編小説は『洪水は我が魂に及び』と『ピンチランナー調書』との2作品だけだ。

その後も、なぜか、大江の本は、出れば買っている。だからめぼしい本はほぼ持っている。でもどれも最初の数ページすら読んでいない。唯一の例外は、伊丹十三が映画化したときに、『静かな生活』を半分くらい読んだことだ。でも、今となっては、気がするだけで、ほんとかどうか、自信がない。

大江健三郎の本は買うけれど読まないという、私は読者というより、購買者だった。多分、私は大江の文章が性に合わないのだ。だから読み進めることが出来ない。でも、みんながすごいすごいって言うから、つい買っちゃうのだった。

2 ありえない人の名前ばかりで、気持ち悪くならないのか?


約30年振りに大江健三郎の小説を読んで、今回、特に感じたのは、固有名詞がみんなオカシイということだ。特に顕著なのが人名だ。私が大江健三郎の文章が性に合わないと感じる大きな理由の一つが、この登場人物達の名前だ。

外国人の名前は普通なのに、日本人の名前は、現実にはありえないものが多い。人の名前もそうだが、場所とか固有の物事につけられる名前も、みんな不自然だ。このネーミングのセンスに、私は耐えられないのだ。

本を読み通すには、それらのおかしな名前をそのまま受けいれるしかないのだが、私には納得しづらいものばかりだから、読み進めるのがストレスなのだ。

これは私だけが感じていることなのだろうか?

私には、大江健三郎のネーミングセンスは、とても不自然で、それ以上に、ことごとくが、かっこ悪く感じられるのだ。調子が外れているというか、的確ではない気がする。しかも、どこか芸のない印象を受けるのだ。プロの芸ではないという感じだ。どうにも素人臭いのだ。

運動音痴な人のちぐはぐさみたいな感覚に似ている。笑うに笑えない。でも偉い人の純文学なのだから、笑っちゃいけないように、仕向けられている感じがする。

仕向けているのは、著者と、著者を評価する大勢の頭の良い人達だ。著者は、運動音痴のくせに、実は用意周到に仕向けている、って感じがして、私は大江健三郎に不信感を抱いてしまうのだ。

なにはともあれ、私は、固有名詞が出てくるたびに、とにかく恥ずかしくなるのだ。人名に触れるたびに、気恥ずかしくて、いたたまれなくなるのだ。大江健三郎は、ネーミングのセンスがなんでこんなに悪いのだろうか、と強く大きく疑問に思うのだ。

どうして誰も「陳腐」だと言わないのだ? 誰も気にならないのだろうか?

キラキラネームにならまだ解る。でもそういう美意識が大江健三郎には感じられない。大江健三郎は、「生真面目一直線」、「純文学バカ一代」だから、ヤンキー的なセンスもないのだ。


3 主人公の名前「長江古義人」(ちょうこう ごぎと)を「長江義人」(ながえ よしと)に書き換えたくなる


『個人的な体験』の「バード」といい『万延元年のフットボール』の「鷹四」とか「蜜三郎」だっけか? 人名としておかしいだろ! 「鷹四」と「蜜三郎」では、兄弟としての連続性もないに等しいだろう! と思うのだが、私が自分の周囲にいる大江ファンに訴えても、相手にしてもらえない。というか無視される。私が何か言うたびに、避けられるようになる。今後の人間関係に支障を来しそうなので、私も引っ込む。……でも、もう手遅れかもしれない。

しかし、みんなが、あれらのおかしな名前が気にならないことに、私は唖然とするのだ。しかし、『個人的な体験』も『万延元年のフットボール』も、読み終えてもいないのに、読もうと試みたことがずいぶんと昔のことなのに、こうやって「鷹四」とか「蜜三郎」という名前が出てくるってことは、私が憶えているってことは、それだけインパクトがあったってことなのだろうか。

そういえば何かに「アポ爺」「ペリ爺」なんていうのもあった。これらの名前は、もちろん著者が意識的につけている名前ではあるのだし、著者には著者なりの必然があるのだろうが、私は笑えないし、気色悪さが先だってしまう。……我ながらくどいな。

大江健三郎が、そういった不自然さの効果を狙っていると言えば、理由として通りそうにも思える。が、しかし、圧倒的に不自然で、しかも、その不自然さに、なにか大きな天然な印象を受けるのだ。では大江健三郎は、天然の確信犯なのだろうか?

やたら前置きが長くなってしまった。

今回読んだ晩年の5作品には、作者の大江健三郎を思わせる「長江古義人」という作家が主人公として出てくる。これを著者は「ちょうこう こぎと」と読ませている。

「大江」が「長江」になるのはいい。でも、日本人の名字を「ちょうこう」と読ませるのはどうしてなのか。長江といえば、中国の揚子江だ。揚子江くらいの大河な作家とでも言いたいのだろうか?

読みだって、「ながえ」でいいじゃないか。だって日本人だろ。「ながえ」でどうして駄目なのだ? どうしても駄目だという理由が、私にはわからない。

コギトなんて名前、芸名でもあり得ない気がする。このコギトは、ラテン語かなんかの、あの有名なコギトから来ているらしい。吾思う故に吾あり、ってやつのコギトだ。

しかし、昭和一〇年に四国の田舎に生まれたとおぼしき男の子に、そんな名前をつける親がいるだろうか? 自分の子供にマリーとかオットーとかルイとかつけた森鷗外ならわかるけど、昭和の四国の田舎だ。長江義人(ながえ よしと)でいいじゃないか、と思うのだ。

しかも、略して「コギー」と呼ばれたりする。けっこうなジジイなのに、小説の中では、コギーを自称しているし、他の登場人物もコギー呼ばわりしているのだ。なんだか滅茶苦茶恥ずかしく感じるのは私だけだろうか?

せめて「こうちゃん」でいいじゃないか。片仮名の「コーちゃん」でもいい。なぜ駄目なのだろうか?

それ以前の大江作品によく登場していた重要なキャラクターに「ギー兄さん」という人がいる。「ギー兄さん」って、なんだ? どこの国の人だ? ギーからコギーなのか?

大江健三郎は、人の名前から、日本的なものや普通な感じを排除したいのだろうか? 「ギー」へのこだわりは、単に音へのこだわりのようにも、感じる。(どうせ深い意味があるのだろうけど……)、子供が「チンチン」という音に反応して面白がっているように、大江健三郎は、「ギー」という音に反応しているのか? ノーベル文学賞を獲った大作家には失礼だけど、そんな子供めいたことのように思えるのだ。


その嫌な感覚を、って、ちょっと違うかもしれないが、大江作品を読んでいる間は、ずうっと感じていなくてはいけないのだ。これは私にとってものすごいストレスだ。

だから大江作品を読むと、登場人物の名前を、全員、普通の名前に書き換えたくなるのだ。書き換えたところで特に問題が起きる気もしない。大江作品のファンや研究者は、大いに問題があると言うかもしれない。でも大江初心者には、大して違いがないと思う。

4 名前にも見えず、男女の判別もつかない大江作品の人名



今回読んだ5作品には、大江の家族とおぼしき人たちがみんな出てくる。妻の「ゆかり」さんは、「千樫(ちかし)」。長男の「光(ひかり)」さんは「アカリ」。長女は「真木(まき)」。大江健三郎に実際に妹がいるのかは知らないが、長江の妹は「アサ」だ。

このように、それぞれの人名は、片仮名と、漢字で表記されている。誰がどういう理由でカタカナなのか、どうして漢字なのかは、よく解らない。過去作品を深く読めば、どこかにその理由が書いてあるかもしれないが、そういうのは研究者にまかせよう。

それにしても、千樫も真木も、字面を見ただけでは、日本人の下の名前だとは判断しづらいし、性別も不明だ。これも意味がどっかにあるんだろう。

草木や植木なんて文字が出てくると、文脈と関係なしに、もしかしたら人名かもしれないと、文章を追う目がとまってしまった。不必要に混乱してしまうのだ。

なぜかアサの旦那さんは「元学校長」と肩書きだけ表記され、名前を付与されていない。現実に妹がいて、その夫がいたとしたら、きっと差別されているような嫌な気持ちになるかもしれない。私だったら滅茶苦茶ムカついているだろう。

肩書きだけなのにも理由があるのだろうが、そういった具合で、大江健三郎の小説は、初心者には「とっちらかった」印象しか残らない。

うがった見方をすると、編集者が機能していないような印象を受けるのだ。普通だったらわかりやすいように、整理・統一させるのではないか? また、新人がこんな雑多な表記をしたら、指導が入って、修正を要求される気がする。

しかし、相手は天下の大江健三郎先生だ。大先生の発言権の方が大きいに決まっている。もしかして、大江作品って、世界系なのかなあと思ったりする。これについては、あとで別に書く。

5 珍しい漢字と、人名に見えない片仮名コトバが雑居


大江の妻の実兄で大江には義兄にあたる「伊丹十三」は、小説では「塙吾良(はなわ ごろう)」として登場する。吾良と書いて、ごろうと読ませる人名を、私は生まれて初めて見た。おだった少女マンガのような印象を受ける。ちなみに、「おだつ」とは、おだてる、の自動詞だ。岩手では使われる表現だが、方言かもしれない。

伊丹十三の妻の「宮本信子」は、なぜかシンプルに「梅子(うめこ)」さんになっている。フランス文学者の「渡辺一夫」は、「六隅先生」。とても珍しい名字だ。現代音楽家の「武満徹」は「篁(たかむら)さん」。こんな字があることを、私は初めて知った。

その他、建築家とか著名な知識人が多数登場している。「江藤淳」が「宇藤」だったりわかりやすいものもあるが、大江が尊敬しているらしい人達は、滅多に見かけない漢字を使った滅多にない名前になっている。それなのに梅子って、差別的な印象を受ける。

そんな調子で、文中に突然見慣れない漢字が出てくると、ぱっと見、それが人名なのかすら、初心者の私に判別がつかない。わかりづらい上に、男女の区別もつきづらい。が、そういう、日常や人名に使われづらい字を使うのが大江の好みのようだ。

私はそういう文字を見るたびに、「バッカじゃないの」と思ってしまうのだ。でも、大江健三郎のファンは、感心しているのかもしれない。感心した上に、何か深い意味でも探っているのかもしれない。きっとどこかに意味があったりするのだ。でも、だから何なのだ?

作品ごと、または何作品にか登場している人物にも、おかしな名前が多い。晩年の何作かに登場する、長江古義人の父親の弟子のような人物は、「大黄」と書いて、「だいおう」と読ませている。漢方薬の大黄=だいおう、からとったのだそうだ。こうなると、名字なのかもわかりづらいが、日本人なのかもわかりづらくなってくる。

その他に、「ウナイコ」なんて名前の女性が出てくる。なにかもっともらしいいわれがあったが、忘れてしまった。しかし、いくら理由があったとしても、片仮名で「ウナイコ」は人名としてあんまりだと思う。病院の待合室で「ウナイコさーん」なんて呼ばれたら、どーするのだ? あ、ニックネームだったか……。

これら名前に接して感じるのは、生真面目な人が発する笑えない冗談を聞かされた時に感じる、あの気まずい脱力感だ。大江の読者は、誰もそんなふうには感じないのだろうか? 私は「ウナイコ」には、最後まで慣れることができなかった。

その他、氏名が省略されて、「リッチャン」とカタカナで表記される人もいる。「シマ浦」なんてカタカナと漢字を組み合わせた名前の女性も出てくる。字面だけみると、およそ女性の名前には思えない。過去に「オセッチャン」もいたようだ。「セッチャン」ではなく「オセッチャン」なのだ。最後の作品には「ギー兄さん」の息子が「ギー・ジュニア」表記で登場する。

ノーベル文学書をとった大先生に、このように表記しなければいけない必然・理由があるのだと言われれば、それで通ってしまうのだろうけど、思いつきのやりたい放題でまとまりのない印象を受ける。

とにかくそんな調子で、大江文学は、人物名が極めつけに、おかしいのだ。おかしいというのは、面白いとか楽しいとかではなく、陳腐だとか異常だという意味だ。読んでいて、誰も気持ち悪くならないのだろうか? 私は頭がおかしくなりそうだった。

このように、大江作品を読むときは、常に、例外的な名前を受けれることを強要される。私にはそれは大きなストレスだった。私の場合、入り口でこんな風だから、大江作品をなかなか読み進めることが出来ないのだった。








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