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映画日記『ドライブ・マイ・カー』②耐えて、生きよ! 読書感想文 ワーニャ伯父さん



2022年1月20日に書いた文。

アントン・チェーホフ著 『ワーニャ伯父さん』 青空文庫

先日観た日本映画『ドライブ・マイ・カー』の劇中劇というか、映画の一番核となる主調に使われていた戯曲が、チェーホフの『ワーニャ伯父さん』だった。映画を観たら、戯曲も読みたくなった。青空文庫で探してみたら、すぐに見つかった。

チェーホフというのは、ロシアの劇作家だ。今調べてみたら1860年に生まれて、1904年に亡くなっている。意外に早死にだ。漱石が1867年に生まれて1916年に亡くなっているから、10年くらいズレている感じか。チェーホフは、戯曲の他にも、短編小説も書いていて、それらは両方とも文庫で今でも書店で手に入る。だから、どれも名作なのだ、と思う。

『ワーニャ伯父さん』を読むのは、多分、二回目だ。若い頃に『かもめ』と一緒に新潮文庫で読んだと思うが、なんにも憶えていない。今回は青空文庫で読んだが、意外に面白く、一気に読めた。

全四幕の戯曲だ。戯曲だからト書きがあって、あとはセリフだ。映画のシナリオと一緒だ。正直、読み終わっても誰が主役なのかわからなかった。登場人物は、主な人が五人であとは端役。全部で九人くらいだった。

セリフがたくさんある五人は、まず元学者でそこの屋敷・領地の主人。その若く美貌の後妻。亡くなった先妻の兄・ワーニャ。先妻と領主の娘で器量のよくないソーニャ。そして地域を担当?していて、その屋敷に通ってくる医者。あんまりセリフのない残りの四人。ワーニャの母。その屋敷の年老いた乳母。ギターを弾く下男。元地主。こんなもんだったろうか。

ハナシを簡単にまとめてみる。

医者以外が、そこの一つの屋敷に住んでいる。一族は、領地を経営?管理することで生計を立てているようだ。しかし、あがりは少なく、生活はかつかつだ。ワーニャとソーニャが、実務をやっていて、領主夫婦はなにもしない。ワーニャとソーニャの働きで他の人は暮らしている感じだ。

で、医者がこの屋敷に、よくやってくる。滞在しているような感じだ。医者は医者なのだけど、環境問題に意識的で、まるで現代の人のようだ。この医者は、領主のリウマチを診たり、地域の人々を診たりしている。が、領主の若い妻が目当てでやってくるのだ。ところがソーニャがこの医者に恋心を抱いている。

色々あって、領主は土地を売って海外に移住しようと持ちかける。それに怒ったワーニャがピストルを持ち出し、領主を撃つが外れてしまう。そういう悶着があって、領主夫婦は屋敷を出ていくことになる。医者も、領主の妻を諦めて、屋敷を出て2度と来ないことにする。ソーニャは失恋をする。

ワーニャとソーニャは屋敷にとどまり、領地を維持して仕事に励み、領主にはあがりを仕送りすることになる。みんなが旅立ち、ワーニャとソーニャの二人きりになって、仕事をやりだしたときに、大人で四七歳のワーニャがつらいと泣き言をいい、それに対してソーニャが、長い長いセリフを言う。

自分の目の前の現実を見つめて、それを引き受けて、逃げないで、どんなにつらくても、耐えて、生きてゆこう、死ぬまで同じ毎日だとしても、最後は笑って死ねるから、それまで生きていきましょう、みたいなことを言う。

ここから私の感想だ。このソーニャの場面は感動的で美しい。私には、二人の先に待っているのは、毎日、同じことの繰り返しで、夢も希望もないように思える。でも、人の暮らしなんてそんなものだとも思う。ワーニャもソーニャも不幸せだ。そんな現実に耐えられるのか、と疑問も湧く。でも耐えなくては、その先、生きていけないのだ。だから耐えるとソーニャは決めている。不幸せにも耐えるのだ。みんな不幸せだけど、それに耐えるのだ。正しい道を道徳的に生きて行くのだ。

ものすごく悲しくて、希望があるのかないのか、私には判断がつかない。ソーニャの発言は、それはそれである種の悟りのようにも思える。そんな風に悟ったら、もう怖い物なしのような気もする。

私はこの肯定感が、苦手だ。やりきれなくてしんどくなる。この閉塞感をどうにかして突破してくれないと困る、と思うのだ。それがフィクションの役割だと思うのだ。チェーホフの生きるって、悲しいのだ。現実は、常に悲しく、そして人生はつづく、のだけれど…。

しかし、ワーニャとソーニャは、不幸せでかつかつだけど、それでも領地を管理する側だ。管理される側ではないのだ。彼らの下には、農民なんかがいるのだろう。それら農民の声は誰が拾うのだ? なんてお門違いのことを思ってしまう。農民は、きっと、何も考えないくらいしんどいのだと思う。

駄目だ、気が滅入ってしまった。

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