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読書日記 柳澤健・著『1984年のUWF』はノンフィクションなのか?



1 「ぼくらのふしぎな橋本治 連載1 PANTA」に憤慨してしまった


先日、『小説宝石』の2024年1月号で、パンタの出てくる橋本治の評伝の第一回を読んで、ずいぶんと憤慨した。

パンタというのは、去年の7月7日に亡くなったロックミュージシャンだ。頭脳警察というバンドを長らくやっていた。そしてパンタと橋本治は、仲が良いことで知られていた。

その二人のことを、柳澤健という橋本治の弟子らしい人が、書いたのが、『小説宝石』に載っていた「ぼくらのふしぎな橋本治 連載第一回PANTA」だ。その文章が、とても雑に感じたのだ。

『小説宝石』の2024年1月号


著者の柳澤健は、何冊も著作が本屋さんに並んでいるノンフィクション・ライターだったから、本当に雑な文章書きなのか、確認しようと思って、柳澤健の本を読んでみた。

ちなみに私は、パンタも橋本治も、思春期の時に出会って以來、今日までファンを続けているから、そっち方向にバイアスがかかっていることは否めない。

読んだのは、『1984年のUWF』文春文庫という、プロレスのことを書いた本だ。読んでみたら、橋本治の評伝の一回目と比べると、もう少しちゃんとしていた。本にする時に、手を入れるタイプなのだろうか?

柳澤健が師匠と仰ぐ橋本治は、くどいのを通り越したくらい説明を重ねる人だったが、弟子である柳澤の橋本伝の一回目「パンタ」は、説明不足が目立つし、責任の所在が不明確な部分の多い雑な文章だった。

柳澤の文章は、故人の、いわゆるセクシャリティーに踏み込んでいるのだが、許可なく勝手に書いている感じだし、橋本治もパンタも故人だから、反論出来ないのだ。

パンタのFacebookやnoteを見ると、パンタが吉祥寺に来るたびに柳澤を呼び出していたようだから、あんなふうに書きたくなるのも仕方がないかなと思いながら、しかし、ノンフィクション・ライターなら、もっと手続きに自覚的になって欲しいと思ったのだ。

今後の橋本伝の連載は、橋本治が見つけた、世界を変えるための仲間を、一人一人紹介していく展開になるのだろうか?

そうなれば、それはそれで面白いとは思うのだが……


2 書き手の立場がいろいろあって混乱してしまった


さて、『1984年のUWF』だ。私が柳澤健の本を読むのはこれが初めてだ。

UWFというのは、1984年に発足したプロレスの団体のことだ。UWFが出現して以降、それまで一つだったプロレスは、真剣勝負の格闘技と、派手なショー・プロレスに、分岐していくこととなる。その画期となったのがUWFだった。

私も、1990年代は、テレビで放送があれば見る程度のプロレスファンだった。しかし、UWF系はテレビ中継がなかったので、大分、あとになって、レンタル・ビデオで見たりした。それも、ヒクソンvs高田戦の前後くらいだ。そしてその頃にプロレスに対する興味もなくなった。


柳澤健の書いた『1984年のUWF』は、小説のように面白く読める本だった。しかし、これはこれで、やっぱり問題のある本だと思った。

これをノンフィクションと呼んでいいのだろうかと思ったのだ。

原因の一つは、書き手の立場だ。

大抵のノンフィクションの本には、書き手(語り手)として「私」が出てくる。私が出ているから、地の文章は、私という一人の人間の立場で統一されている。

しかし本書にはそういった「私」が出てこない。いわゆる三人称で書かれているのだが、柳澤の場合は、普通の三人称と、どこか印象が違うのだ。

三人称というよりは、「私」がないことで、主語のない文章になっている箇所が多いのだ。その文章の主格が、誰にあるのか、曖昧な文章が多いのだ。これは橋本治伝でも感じた雑さと同じだ。

三人称で書くことは、小説でも、ノンフィクションでもよくある。しかし、普通は地の文章には、一貫したものが必ずあるものだ。

ところが柳澤のこの本の場合、地の文章に一貫性がないのだ。意見の異なる複数の立場が混在していて、その結果、ごちゃごちゃと混乱した印象を受けるのだ。

例えばカール・ゴッチに対して著者は、前半では貶めているんじゃないかと思えるほど否定的に書いているが、後半になると、ところどころ、肯定的な描写をしている。

前田日明に対しても、最初は人柄を褒めていたが、途中から我儘で自分勝手な男として描いている。

これらの認識や評価の変化に対して、理由が述べられていれば、読んでいる側も納得するし、違和感も感じない。しかし、理由が書いていないのだ。

まるで根拠なく、急に別の評価や認識が出てくるから、読んでいて混乱してしまう。著者はその時の都合でどっちの立場もとっている感じがするのだ。いい加減とか曖昧とかというより、「積極的なご都合主義」の印象を受けるのだ。

また、地の文章に、それが定説だとか一般的だとでもいうようにサラリと書いてあることが、実は他では読んだことのないことだったりする。

特にカール・ゴッチに関する著者の評価は、一般のプロレス・ファンの認識から、だいぶ、ズレている気がする。著者は、ゴッチに対しては極端に否定的なのだ。著者の認識は、プロレスにそんなに詳しくない私にすら、新説のように感じるのだ。

人それぞれの意見なのだから、別に否定的でもかまわない。ただし、それを読者に納得させるためには、どうして否定的なのか、その根拠を示めさないといけないと思う。ところが著者は、なんの根拠も示さないで、言いっ放し、書きっぱなしなのだ。

そんな調子で、この本には、根拠が不明の断定がとても多い。何事にも根拠を示さないのが、著者の流儀なのだろうか? しかし、根拠を示さないとノンフィクションにならないのではないか?

ということで、この本は、滅茶苦茶面白くて一気に読めてしまうのだが、ノンフィクションの条件を満たしていないように私には感じられるのだ。

3 実名小説のように面白く読んでしまった


この本には、たくさんの人物が登場し、それぞれの発言が「」で出てくる。それらの発言は、著者が取材して得た発言と、既出の雑誌や書籍からの引用とで構成されている。

著者の取材も、いつどこで、どのような取材をしたのか、どういう意図でどういう質問をしたのか、という周辺情報が、きちんと書かれていない。いきなり、〇〇はこう言っていると「」で出てくるパターンが多いのだ。

この本のあとがきに、取材を受けてくれた方がたの名前を挙げて謝辞を示しているが、佐山さとる以外、キーとなる人物の名前がない。だから、他のキーマンや大物の発言は、全部、既出本、雑誌からの引用ということになる。

引用元も、スポーツ新聞や、『週刊プロレス』や『ゴング』だったりする。あれらの記事が、どこまで信用できるものなのか? 前回、中川右介のところでも書いたが、資料の信頼性が、気になるのだ。

そして、やっぱり人物取材の少なさは、独立したノンフィクション作品としては、弱いのではないか、と私は思うのだ。

大量の引用発言は、一応、引用元が()で示されている。しかし、元の文章が、どのような流れでされていたものなのかは、いまいち不明なのだ。いつ、どこの、どんな流れの中の発言なのかといった情報がほとんどないのだ。

それらの発言は、とても効果的に本書に組み込まれている。読んでいて、そうだったのか!と膝を打ちたくなるような面白さで、引用されている。

そのまま読めば面白いのだけど、ちょっと疑ってみると、著者が、自分の都合のよいように、カット&ペーストしている可能性も否定できない気がするのだ。疑ってしまうと、この本が、1冊丸ごと効果的なコラージュのように読めてくるのだ。

そういう曖昧さを排除していくのが、ノンフィクションではないのか、と古臭い私は思っている。

それでも『1984年のUWF』が一気に読めてしまうのは、この本がノンフィクションではなくて、実名小説とか実録小説というジャンルの、小説だからではないか? そして、この本に流れている胡散臭さは、プロレスの胡散臭さに、とても似ているのだ。

「ノンフィクション」が真剣勝負の格闘技だとしたら、「小説」はプロレスだ。プロレスと真剣勝負が分岐していく流れを描いたこの本は、一見、ノンフィクションのようだけれども、書き方としては、完全にプロレスなのではないか。だから、エンタメとして、とても面白く読めてしまうのだ。

著者は「〇〇〇〇年の〇〇」という本を、何冊も出しているが、他の本もみんなこの調子なのだろうか? ということで、他の本を読まなければならなくなった。我ながら面倒な性格だ。


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