映画日記『さがす』連載マンガのノウハウで2時間にまとめられたら、困る
3月5日に書いた文章。いつもよりも長い。
片山慎三・監督 『さがす』
吉祥寺アップリンクで観た。先月、アップリンクで予告を観て、面白そうだと思って、観てきた。予告とアップリンクのホームページに載っていることしか情報が無い状態で観た。主役の俳優は、テレビで時々見かけるので、顔は知っていた。佐藤二朗という名前だ。監督の名前は、今、これを書くために確認した。そんな程度だ。
以下に書く文章は、俗に言うネタバレというやつだ。長々とダラダラと書く。ほとんど文句タラタラの文章になっている。
実際に観た映画は、予告を観て想像していたものとは、全然違っていた。私は、中学生の娘が、失踪した父親を探す、浪速の泣き笑いミステリー、みたいなテンポの良い作品を想像していた。ところが、実際に観てみたら、現実にはあり得ないだろうマンガ的なキャラが、次から次に出て来て、シリアルキラーを軸にドタバタと展開する、ちぐはぐな映画だった。監督はアクション映画にしたかったのかもしれないが、よくわからない仕上がりの、後味の悪い映画だった。
別に期待が大きかったわけではないし、期待を裏切られたことに腹を立てているわけではない。中途半端なものを見せられたというガッカリした気持ちが大きいのだ。
私は細かい事が気になる質だ。同時に、多分、細かい事を流して大きなものとして理解する能力も低いのだと思う。どうしてそう思うのかというと、すごくたくさんのところに、なんで? と疑問を感じるからだ。疑問を感じると、気になって、映画に没入出来なくなる。その疑問がすぐに解決しないと、いつまでも引きずってしまう。
新たな疑問が出てくると、?????だらけになる。なんで? なんで? これなに? どうしてそうなるの? おかしくないの? とハテナだらけになってしまって、映画を楽しむどころではなくなる。この映画もそんな感じだった。
最初にこの映画の構造を説明しておく。中学生の娘を主人公とした現在の時間軸が基本だ。それは失踪した父親を探すけなげな中学生の物語だ。それと並行して、父親の佐藤や殺人鬼の青年を主人公とした、過去からさか昇ってくる時間軸がある。時間が切りかわるときは、3ヶ月前とか1年3ヶ月前とか、巨大な文字のテロップが唐突に挿入される。なんでそんなに文字が大きいのか、なんで蛍光色なのか? 意味は不明だ。
ループになるのは、中学生が主人公の場面が、別の視線・父親の視線から描かれたりするシーンだ。それが一種の種明かしのようになっていく。はまれば、なるほど、そうだったのか!とスッキリするはずなのだが、本作の場合、まるでスッキリしない。
なんでだろうか? 答えは簡単だ。下手糞だからだ。監督が映画を作るのが下手だ、ということに尽きる。
この映画で、一番わからなかったのが、佐藤二朗が演じる主人公だ。人物としての一貫性が、ぜんぜんない、と私には感じられた。行動がいきあたりばったりなのだ。「ご都合主義」というコトバがあるが、それが一番あてはまりそうな、キャラになっている。つまり、キャラとして確立していないのだ。
何か事件を体験して、ある時期から人間が変わっていく、というのなら理解出来るが、この映画では、そういう段階的な過程が描かれていない。描かれていても、関連づけられていないように思うし、一定方向に変化しているわけではなく、場当たり的に行ったり来たりしているのだ。
この映画のオープニングシーンは、佐藤が一人で金槌を振り回しているシーンだった。誰かを殴る練習をしているのだ。金槌は、新品で、買ってきたばっかりのように見えた。場所はどこかの田舎で、建物と建物の間から盗撮したみたいな映像だ。佐藤の背景には、白いガードレールがあって、田舎の道路の真ん中で、ハンマーを振り回す練習をしているのかな、と不思議に感じた。でも、普通に考えると道の真ん中でそんなことをやるはずもないし、しかし、個人の家の土地の際に、ガードレールなんてあるかなあ、とか思った。いずれ、誰かを相手に、やるんだろうな、とは思わされた。
そんな感じで始まった映画は、大阪の街中が舞台だったけど、笑える作品ではないことはすぐにわかった。
この映画の設定は、指名手配犯がいて、そいつには300万円の懸賞金が掛けられていてて、その金を目当てに、主人公の佐藤が動き出す、ということになっている。犯人が指名手配されてから、どれくらいで懸賞金が付くのかと思って、今、ネットで調べたら、事件発生後から6ヶ月以後となっていたから、300万円がついていてもおかしくはないことになる。今度、町を歩いたときに、懸賞金付きの手配書が貼ってあるかどうか、交番の掲示板を見てみようと思った。
この金槌と同じような、流れに関係があるのかないのかわからない不思議な場面、もしかしたら伏線なのかと思える場面は、他にもあった。佐藤が失踪したとおぼしき、当日、自宅の畳の上に片方だけの白いソックスが落ちている。落ちている片方だけのソックスを、カメラはアップにしたのだから、何かしらの意味を持たせているのだと思う。
そんな風に、意味ありげで、思わせぶりなシーンを挟みつつ、映画は中盤から、尊厳死や安楽死をテーマにした夫婦愛の作品かもしれない、と思わせる展開になっていく。ところが映画はすぐに、自殺志願者を扶助する裏の商売のハナシになっていく。
尊厳死や自殺志願者の幇助といった重く社会的なテーマは、この映画の扱うところではなかったらしく、全然掘り下げられず、ストーリーの流れは、単に変質者による連続殺人になっていって、なぜか佐藤が殺人鬼と行動を共にして、最終的には、殺人鬼と自殺志願者の二人を殺す、という展開になる。
佐藤が殺人鬼と対決するシーンに、金槌が登場するのだけど、ここに至るまでの佐藤の内面や動機が、私にはまったく理解できなかった。理解できないのだけど、映画はどんどん進んでいって、佐藤の殺人は完全犯罪の成立みたいになって、佐藤は娘との日常の生活に戻っていく。
いくらなんでも現実の警察の取り調べはそんなに甘くないと思う。凶器の包丁や金槌の出所だって調べられるだろうし、彼らのスマホの記録だって調べられるだろう。警察が普通に調べたら、佐藤と殺人鬼の共犯関係なんかすぐにばれるだろうと思うのだが、この映画ではなぜか、そうはならない。
佐藤がなんの葛藤もなく普通の暮らしに戻っていかれるのも、映画を見せられている私には、理解を越える展開だった。佐藤が演じる人物の行動に、一貫性も、確固とした動機も感じられないのだ。まるで説得力が無い。
この映画全体に感じるのは、作り手が、先に思いついた(あるいは組み合わせたい=拝借したい=便乗したい)ストーリーのパターン(展開)があって、それに登場人物を当てはめたような、お手軽な印象だ。
妙に印象に残ったのは、どうでもいいことだけれど、佐藤という役者の歯並びの悪さだった。下の歯はガチガチだし、顎はしゃくれ気味だし、大口を開けると、上の奥歯がみんな銀を被っている。最近の役者はみんな歯を綺麗にしているので、久しぶりに銀歯を見た、と思った。
で、最後にどんでん返しがある。ところが、そのどんでん返しが、どうして可能になったのか、そのきっかけが、映画を観ている私にはわからなかった。私が見落としただけで、もう一度観たら、わかるのかもしれないが…。
この映画の題名は「さがす」だ。娘が失踪した父親をさがして、見つけ出しす。しかし、そのあとに、またさがすのだ。それがどんでん返しになる。その後にさがすのは、父親の隠された面だ。つまり自殺願望のある人からお金を貰って、殺人鬼と協力して、その人を殺す、という共犯者としての父親の姿だ。一旦は完全犯罪が実って一件落着となったのだが、今度は娘が父親の裏の顔を暴くのだ。
父親は殺人者がやっていた安楽死殺人をそのあとも引き受けて、やろうとしていたのだ。お金のためなのか、勘違いした使命感なのか、快楽なのかはわからない。それに気が付いた娘が、警察に通報をする、というのが、この映画の結末だ。
この、さがして、あばくシーンは、映画のラストシーンになっている。そこで父と娘は卓球をする。主人公の一家は、商店街のようなところで、卓球場を営んでいた。が、金銭的に行き詰まって、卓球場=店を閉めて、父親が日雇いのような肉体労働に従事している、という設定だった。
映画の終盤で佐藤はなぜか卓球場を再開させている。以前の金銭問題が解決したのだろうか? 犯人は死体で発見されたのであり、その犯人を、正当防衛のような形であれ、殺したのは佐藤であり、逮捕に貢献したわけではないのだから、懸賞金を受け取れる筈はないと思うのだが、その辺のところはよくわからない。
卓球場の壁には、感謝状なんかも貼ってあったから、懸賞金が出たことになっているのかもしれない。やっぱりご都合主義だ。
父と娘の卓球の長いラリーが続く。このシーンは、明らかに合成で、ピンポン球の軌道は、同じところを行き来する。途中、ピンポン玉がなくなり、父と娘はエア卓球をする。しかし、なぜか音声はピンポン球がぶつかる音が合成され続ける。ここでのラリーの長回しのシーンの必要性がわからないし、途中からエア卓球になる意味もわからない。映画のオープニングシーンが、金槌の素振りだったから、おしまいも卓球の素振りに合わせたのか? そこに意味を見いだせというのか?
さっぱりわからない。
このシーンで、娘は父親を追い詰め、ラリーをしている最中に背景からパトカーのサイレンが聞こえてくる。佐藤を逮捕するためのパトカーだと示唆される。通報したのは娘だろう。しかし、逃走の恐れもあるだろう人物を捕まえるために、パトカーはサイレンを鳴らしてやってくるものだろうか?
テレビでよくあるパターンを踏襲しただけなのかも知れないが、それでもサイレンが聞こえるのは、犯人が手錠を掛けられた後だったり、周囲を警官に囲まれて、観念してからだったりする。
一事が万事、そういうちぐはぐな場面ばかり見せられて、この映画は2時間以上かけてやっと終わる。
さて、この映画、父と娘が主役だから、父と娘はひとつの画面に一緒に出てくる。父とその妻も一緒に登場するのだか、なぜか母と娘、両親と娘が一緒に登場するシーンはひとつもない。写真では出てくるのだが、動画では一切描かれないのだ。
この家では、筋ジスの母親=妻の介護生活が長かった筈なのに、娘はまったくタッチしていない。タッチしていたとしても、母と一緒には画面には現れない。娘にとって父親は、あれだけさがしたんだから、大きな存在なのだとわかる。しかし、母親はどうなのか? 娘からみた母親の存在は、まるで描かれていない。なんでだ?
母が亡くなった(偽装安楽死)のは、一年と三ヶ月ほど前の最近のことだと示されているのに、なぜだろうか? なんでだろうか?
ちぐはぐなことは他にもたくさんある。とにかく出てくる人物が、みんな極端で薄っぺらいのだ。
例えば娘の中学の女性教師とその家族。
例えば、娘を迎えにきたシスター。
例えば、父親探しを手伝う代わりにおっぱい見せろという同級生男子。
例えば、警察署の刑事?
例えば、自殺志願者で途中から車椅子で登場する女性。
例えば、かりん島のミカン農家のAVコレクターの爺さん。
どれもこれも現実にはいそうにない。こういったキャラクターは、マンガだったらアリなのだ。しかし、実写映画では、説得力がまるでない。
この映画では、3、4年前の、座間市の9人を殺害した事件と、2009年に逮捕された市原達也の事件という、実際にあった2つの事件をミックスして取り入れて、殺人鬼であるシリアルキラーを合成している。映画やマンガには、よくあることだけれど、表面をかいつまんだだけで、犯人の人物造形には至っていないような、浅薄な印象を受ける。というか、とってつけたようで、ちゃんと落とし込められていない、と思う。
この殺人鬼、なぜか、自分が殺害した死体に白いソックスをはかせて、それを見ながら自慰をして射精をする、という相当にマンガ的な性格付けがなされている。だから、ソックスは殺人鬼に関わるもので、佐藤とは無関係らしい。映画の序盤、失踪した佐藤の家の畳の上にあったソックスのアップは、何だったのか、まったく理解に苦しむ。
見終わった後に漠然と浮かんで来たのは、やっぱり「ご都合主義」というコトバだ。この映画、そんなわけないだろう、ということの連続だった。ひとことで言うと、脚本の詰めが甘すぎるのだろう。というか詰めていない。
とはいえ、物語展開に説得力がないのも、登場人物に説得力がないのも、私には、全部どっかで見たことがある、馴染みの感覚に思えた。おかしな日本語になるけれど、作り手の意識に、「ご都合主義」と「説得力」の違い、というか差が無いのだ。これはまるでマンガではないか、と思った。
この映画の作り手が持っている物語のパターンをつないでいく感覚は、長編マンガと同じ種類に感じるのだ。連載マンガは、その場その場の都合で、どうにでも展開していく。人気があれば、連載は続いていくし、なければ打ち切りになる。後から振りかえるとツジツマの合わない展開になっても、そのときは力任せに繋げて、続けていくのだ。マンガの長期連載とは、そういうものだ。
それと同じように、この映画も、思いつきでどんどん展開していったのだろう。だから、この映画の作り手の物語を展開させていく感覚は、連載マンガを読むことで培われた感覚なのだ、と、私は勝手に推測している。
ただし、マンガの場合は、画に説得力を込めることが出来る。というか、画に説得力を持たせることで、無理な展開でも、無理を感じさせないで読者に読ませることが可能になっている。それがマンガの持つ力だ。だから、マンガでは、画の説得力が絶対に必要になる。場合によっては、デッサンを歪めてでも、画に感情を込めて、読者を納得させるのだ。
しかし、実写映画の場合、無理を繋げて展開させることは可能だが、それは単に繋げるだけで、説得力を持たせることは出来ない。生身の人間が演じる実写画面のデッサンを歪めることなど出来ないし、役者がいくら感情を込めて演技をしても、それはオーバーアクションにしかならない。それでも無理を繋げてうまく見せるのなら、おそらく、CGを駆使した大迫力のアクション映画にでもしないといけない。
しかし、この映画の作り手にはそんな技術は備わっていなかった。なにやってんだろうな、って思わされる、そんな映画だった。もうちょっとしっかりやってくれよ、と思うのだ。
最終的に、こんな風に結論づけて、この映画を観て生まれた不満を、私は抑えつけている。
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