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映画日記 宮崎駿監督『君たちはどう生きるのか』雑感 本当に雑な感想




黒澤明はアニメーションが一番向いていたと思う


宮崎駿の『君たちはどう生きるか』というアニメーション映画を観た。観ながら、最初、なぜか黒澤明のことを考えた。

黒澤明は、なんでアニメーションを作らなかったのだろうか?

黒澤明のように、なんでも完璧にコントロールしたい人には、アニメーションが一番向いていると思ったのだ。それに、画集になるくらい見事な絵コンテも残している。

黒澤明が唯一、アニメっぽい作品を作ったのは、『夢』というオムニバス作品の中で、ゴッホの「カラスのいる麦畑」を舞台にしたときだ。

この短篇では、主人公役の寺尾聡が、ゴッホの絵画の中に入っていく様子が描かれていた。その時、ゴッホの絵画は、拡大セットにされて、ちょっとアニメっぽく見えた。

当時、それを観た私は、全編アニメで作ればいいのにと思って興奮したのだったが、そんなことにはならなかった。黒澤明は、その後も、糞つまらない映画を作って死んでしまった。

黒澤明の『夢』は、他人の夢をなんてどーでもいいという、典型的なつまらない映画だった。

例によって、画面だけ豪華で、役者は個性を消されて、誰が誰だかわからないデクノボーになっていた。

夢判断も、自分の夢を俎上に挙げるから面白いのであって、他人の夢など、芸能人のスキャンダルでもない限り、面白くもなんともないのだ。自分と、育った時代も境遇も違う爺さん(黒澤監督)の観た夢など、興味の持ちようがないのだ。

アニメーションの画面は予め監督の頭の中にあったものしかない


アニメーションは、実在の役者が演じる実写映画と違って、全部を事前に用意していないと作れないものだ。

例えば、実写映画では、ただカメラを回して、前にあるものを撮影すれば、それが撮れている。

しかしアニメーションの場合、撮るものが何なのか、から、その色や形、背景までも、全部決めてしておかないと、撮影ができない。

実写映画のように、偶然映り込んでいたとか、アドリブだとか、意図しないものが入り込むことがないのだ。アニメーションには、あらかじめ用意したものしか映らないのだ。

あらかじめ用意する「撮るもの」は、コンテとか指示書で、前もって全部決められていて、そのアニメづくりに関わる人全員に了解されていなければならない。

その「撮るもの」を決めるのは、監督だ。

だから、セル画とか平面に絵を描いて作るタイプのアニメーションの「撮るもの」は、ひとつ残らず監督の頭の中にあるものだ。

だから、アニメーションとして観客が観たものは、全部、監督の頭の中にあったものということになる。

さて、ここから宮崎駿の『君たちはどう生きるか』いついてだ。

原作なのか、『君たちはどう生きるか』という本がある。私は読んだことがないし、この映画とどう関係しているのかはわからないので、無視することにする。

この映画は、主人公の少年が、現実(上)の世界から、「下の世界」にいって、継母を連れて戻ってくるハナシだ。(もしかしたら、下の世界を構成する立場をオオオジから継承しないで、戻ってくるハナシ、かもしれない)

下の世界のデザインは、異界なのだが、メインとなっているのが18、9世紀のヨーロッパ風のデザインというか、近代の欧風の意匠が取り込まれていて、その辺に監督の「憧れのノスタルジー」があるのかなと思わされた。

しつこいけど、これらはみんな監督の頭の中にあったものだ。

その他、塔の中の階段のシーンや下の世界が崩壊する描写とか、いろいろなイメージ・シーンとか、それらがスピーディーに展開しているのだが、どれもみんな、アクション映画などで見たことのある場面ばかりだった気がした。

だから、映画の王道というか、ある種の古典的な印象を受けたのだ。

以前、『海獣の子供』というアニメをネットで観たのだけど、絵柄は現代なのだが中身は古典的な映画だった。『海獣の子供』に比べると『君たちはどう生きるか』は、さらに地味で古典的に見えた。

私があまり馴染みがないと感じたのは、アオサギやインコやペリカンのキャラクターだった。でも、ジブリ作品や宮崎作品に馴染んでいる人には、フツーかもしれない。

実は、私は、宮崎駿もジブリアニメも苦手で、これまでに観た宮崎作品は、三つしかない。映画館で『もののけ姫』と『千と千尋の神隠し』を、テレビで『風の谷のナウシカ』だ。

基本的に好みではないのだ。というか苦手なのだ。

人は何歳で走るのをやめたか?


『君たちはどう生きるか』の様々なキャラクターも、色々なシーンも、みんな監督の頭の中にあったものだ。そう思うと、意外とフツーだなと感じてしまった。

この映画は、事前に情報を流さないで、宣伝もしないで公開した、というハナシだったので、どんだけ極端な作品なのだろうかと、期待して観に行ったのだが、案外当たり前の、大人しい作品だったと思う。

それにしても、少年や子供は、よく走る。この映画の主人公たちは、よく走るのだ。

私も昔は走っていた。

走らなくなって、どれくらいになるのだろうか?

最後に走ったのは、何歳の頃だったろうか?

でも、今現在、ジョギングでもなく、ただ走っている大人がいたら、気持ちが悪くて、警戒してしまうだろう。

なんで大人は走っちゃ駄目なのだろうか?

では、私は走れるかっていったら、そんな元気はないのだ。走る体力・気力は、とっくに失せている。

そういうことなのかなあ。

『君たちはどう生きるか』は、意識せずとも走っていた頃を、描いた映画なのだろうか。

考えると疑問だらけだが、そんなのはどうでもいいのだ


よくわからなかったのは、始まって最初の方にあった主人公の自傷行為だ。

主人公の少年が、転校した小学校の帰り道、同級生らと殴り合いをして、そのあと一人になってから、石で自分の右側頭部を殴って、流血をする結構な怪我をするのだが、それをやる理由がわからなかった。

転んで出来た怪我でも構わない気がするが、後半に石を積み上げたり、悪意の石とか出てくるし、石が何かの象徴になっているのかなと思う。何か確固たる理由があるのだろうな、私にはわからないけど。

もう一つ、わからなかったのは、継母にあたる色っぽい女性が、下の世界に行ってしまったことだ。

なんのキッカケも、リユウも映画では描かれていないから、どうして下の世界に行っちゃったのか、わからないのだ。

それに、戻ってくる時も、一人で勝手に戻ってくる。彼女は、妊娠中だったから、赤ん坊が生まれて、この映画そのものの結末がはっぴいえんどになるのかと思ったら、そうはならなかった。

あ、まだ、わからないことがあった。映画の始まり、東京大空襲かと思ったら、それよりもずっと前の時制だ。入院中の主人公の母親が火事で死んでしまうのだが、この大火事は一体なになのだ?

考えだしたら、「?」 ばっかりになってきた。まだまだ「?」がある。だから、考えるのはやめよう。


最近のアニメにしては、映像がシンプルだと感じた。私は時々、深夜にやっているテレビ・アニメを見るともなく見ているのだが、それらと比べて、カメラワークなどがとてもシンプルなのだ。

最近のアニメは、実写映画のようなカメラワークが出来る。ほとんど手持ちカメラかと思えるくらいブレたり、移動したりする。

それらは、たかだか二十数分の番組なのに、とてつもない人数が関わって出来ているに違いないと、想像させる画面になっている。

それらの題名も憶えていない深夜の緻密なアニメは、私が知らないだけで、人気があって、その内容や、最近のコトバでいうと世界観というものが、たくさんの人達に自明のこととして共有されているような気がする。

それらと比べると、今日観た宮崎駿のアニメは、少人数で手作りな印象を受けるのだ。

って、些末な印象だけど。

なんだか雑感の羅列になってきた。

それに私は「アニメ」という書き方をするようになってきた。

「アニメーション」と「アニメ」には、違いがあるような気がしてきた。よくわからないが、多分、両者の間には、違いがあるのだと思う。

米津玄師で困った。楳図かずおの『14歳』を想った


映画のエンドロールの時に、米津玄師の曲がかかったら、「パプリカ」を思い出してしまって困った。

そのまま、東京オリンピックを連想して、なんだか頭の中が、ひっちゃかめっちゃかになってしまった。

歌が裏声の部分になったら、日曜日の昼間にやっているフジテレビのドキュメンタリー番組の主題歌を連想して、ますますひっちゃかめっちゃかになってしまった。

映画の最後で、映画の印象を、米津玄師に全部持ってかれてしまった。もっと色のついていない人を起用した方が良かったと思う。

って、思うのは、私だけか…。


映画を観たのが、吉祥寺の映画館だったせいか、帰り道、吉祥寺の住人である楳図かずおの『14歳』を想った。

主人公のチキン・ジョージとか、異様なデッサンのヘリコプターとか、あれらが動くアニメーションを観てみたいなと思うのだ。

主人公の天才科学者チキン・ジョージは、白衣を着て首から上がニワトリのルックスをしていた。ヘリコプターは、立体感がどこかおかしかった。が、画で描ければ、アニメで動かすことに問題はない。そういえば、ゴキブリのゴキンチというキャラクターもいた。

観たことがないものを見たいなと思った。

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