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映画日記 『ドライブ・マイ・カー』①「セックス」と「演劇」と「ドライブ」と。
映画の『ドライブ・マイ・カー』を見て、今年(2022)の1月18日に書いた文章だ。なんとなく、ここに載せてみた。というか、映画に関してだけここに書こうと思う。
『ドライブ・マイ・カー』
監督は濱口なんとかという人。私は初めて観る監督だ。場所は吉祥寺のアップリンク。1日1回の上映。早めに行ったので席があったが、入場時には満席になっていた。カンヌに続いて、先日はアメリカでも賞を獲ったので、お客が増えているのだろう。観た友人が、みんな面白かったと言うので、私も観に行った。去年の夏に還暦になったので、シニア値段で見ることが出来た。
『ドライブ・マイ・カー』は、「セックス」と「演劇」と「ドライブ」が出てくる映画だった。三つとも密室で、人口密度の高いシチュエーションだ。予告編の通りだった。疾走感のあるロードムーヴィーなんかでは全くなかった。
出演者は、主役の西島なんとかと、テレビでよく見る岡田なんとか以外は、見たことのない人ばっかりだった。ドライバー役の女の子は、RADWIMPSと一緒に紅白に出ていた人らしい。新海誠のアニメに一時期はまっていた妻が今朝、教えてくれた。
映画は、何か大きなことがあるわけでもなく、ダラダラと始まって、メリハリなくダラダラと続いていった。ダラダラなんだけど、飽きさせなくて、妙に観てしまう。主人公が舞台役者で演出家でもあって、だから出てくる人が、みんな演劇関係の人だ。
そして、日本人、複数の外国人役者がそれぞれの母語で、チェーホフの「ワーニャ伯父さん」をやるというハナシになっていく。だから映画の中で、演劇のオーディションから脚本読み、舞台稽古があって、最後に本番がある。日本人、英語の話せる台湾人、韓国人、韓国語手話の女性なんかが、日本語、英語、各国語でセリフを言い合って、それぞれにちゃんと字幕が出る。劇中劇の舞台でも、観客に字幕が出ている。
そして、「ワーニャ伯父さん」の戯曲からのセリフが、いろんな場面に重層的に出てくる。脚本読みや稽古は、当然、戯曲のセリフだし、主人公はカセットテープに「ワーニャ伯父さん」のセリフを録音しており、車での移動中にそれを再生して、稽古?する。それらのセリフの意味が、その時々のシチュエーションや発話者や登場人物と絡んで、いくつもの意味に広がって、なんだかどんどん意味深な空気になっていく。きっとそれがこの映画の醍醐味なのだろう。
が、困ったことに私は、演劇とか演劇的なものを昔から生理的に受け付けられない人間なので、そういう場面になると、観ていて妙に醒めていくのだ。だんだんと面倒臭くなってくる。
特に、終盤、岡田なんとか君とか、ドライバーの女の子とか、主演の西島なんとかさんとかの顔がアップになって、それぞれが自分のことを語り出す長いシーンがいくつか重なると、ドキュメンタリーじゃないんだから、語りですませんじゃねえよ、作った顔で見せるなよとか、心の中で毒づいてしまっていた。自分の心・気持ちと上手に折り合いをつけて生きていけなんて、岡田君にセリフでいわれてもなあ、映画なんだから、そんなことは、態度や行動といった画面で示してくれと思うのだった。
その昔、頑張って見に行った演劇体験を思い出したりした。二十歳前後に観た、つかこうへいとか野田秀樹の演劇だ。両方とも、劇のクライマックスになると、舞台上から役者が長いセリフを観客に向かって、呼びかけるようにしゃべり出すのだ。私はそういうのが苦手だ。いたたまれなくなる。
私はロシア文学も、大概、苦手だ。ドストエフスキーとかトルストイとか、主人公が暴走したのちに懺悔して神に赦しをこうみたいなハナシが、実は大嫌いだ。私は好き嫌いが激しく、許容範囲が狭いのだと思う。チェーホフも苦手だ。例外的に『サハリン島』だけが面白かった。
この映画を観ながら、ラスプーチンなんかを思い出していた。私が二十歳くらいの頃、シベリアを舞台とした小説を書く農村派の現代作家として、何冊か翻訳された作家だ。『マリヤのためのお金』とか『生きよ、そして記憶せよ』なんてタイトルの本だった。二つとも、耐えて生きるのがテーマのしんどい小説だった。
結局、『ドライブ・マイ・カー』を最後まで飽きずに観て、ちゃんと涙も流した。手話役者の夫婦の家で食事をしていて、西島くんがドライバーを誉めると、急にドライバーが画面からいなくなって、ちょっと経ったら犬とじゃれていたことがわかるシーンなんかは、ものすごく良いシーンだったと思う。
でもそういうシーンが終盤になるとなくなってしまう。青年の主張合戦みたいになる。ドライバーの女の子の過去なんて、セリフで語られるだけで、どこまで本当なのかちっともわからない。結局、ビートルズの曲の疾走感とはまるっきり無関係の映画だった。そもそもビートルズの曲は、私が勘違いしただけで、この映画とは関係なかったのかもしれない。
この映画では大きな役割を持っている「セックス」も「ドライブ」も「演劇」も、多分、私のジャンルじゃないのだ。それに、同級生の家に空き巣に入る女子高生のハナシとかヤツメウナギのハナシとか、駄目なのだ、私は、そういう村上春樹的なものは、生理的に苦手なのだ。
映画を観ながら、途中で色んなことを思い出して、神経がささくれだって、胃が痛くなった。キャベジンを買って帰ってきた。
なんだかなあ。
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