映画日記 北野武監督作品『首』 コント満載の贅沢なお笑い映画だったんだけど?
最近あまり映画館に行っていないので、大きなスクリーンで映画を観たいと思って吉祥寺オデオンに行った。
オデオンにはスクリーンが3つあって、いつも5、6作品を上映しているのだが、今回はゴジラとアニメばっかりだったので、ちょっと驚いた。
唯一、スクリーン2で北野武の『首』をやっていた。上映開始時間も40分後だったので、それを観ることにした。
切符を買って、ちょっと暇をつぶしてから、映画館に入った。
ガラガラだった。二割ほどしか埋まっていない。月曜日の昼間だからそんなものなのだろう。
映画は、笑う映画だった。でも、声を出して笑っているのは私だけで、だんだん居心地が悪く、不安になってきた。
笑えよ、バカヤロー!と思って、振り返って他の客を見てみたが、一列空けた真後ろのおばさんなんか、神妙な顔つきをして座っていた。他の人も、だいたい、笑っていなかった。
なんでだろう。
映画が終わってトイレに行ったら、ジイさんばっかりだった。
終って、手を洗いながら鏡を見たら、自分は62歳という年の割に、若く見えるなと思った。でも端から見たら、私もただのジイさんなのだろう。我ながらアホだなと思った。
出かける時は、ちゃんと髭を剃らなきゃとも思った。でも、私が若く見えるのは、年齢相応の社会性がないからなんだけど……。まだ言っている……。
映画を観たのは一昨日なのに、もうあまり憶えていない。言葉がさっぱり浮かんでこないのだ。
語りたい気持ちが湧いてこないのだろう。多分、語りたいことが何もないのだ。
いつも、映画を観終わったときに湧いてくる、誰かと感想を言い合いたいとか、誰かにもこの映画を観て欲しいといった気持ちが、湧いてこないのだ。
映画はそのものは、十分に面白く観た。でも、観終わって、それで満足したのだろう。
面白かったけど、特に何も残らずに終わって、どこかを突き動かされたりはしなかったんだと思う。
でもそれではあんまりだから、なにか書いてみる。
最初、映画が始まった時は、しっかりとお金のかかった映画なのだなと感じた。いわゆる超大作みたいな贅沢な映画なんだと思って、それがすごいと思ったのだ。
私の北野武の映画に関する印象は、低予算の早撮りというものだったから、何年か観ないうちに、こんなに製作費を使える人になったのだな、という感慨を覚えたのだった。
衣装とか美術とか、とてもしっかりしていたと思う。
最近の時代劇は、大抵、偽物臭いというか、それらしくは作っているけど、やけにアニメっぽいし、それってどうなのって気になる部分が多くて、鼻白むばかりなのだけど、『首』は、感心こそするけど、気になって、ひっかかることはなかった。
昔の私は、北野武の映画が好きで、最初の頃はよく見ていた。変な言い方だけど、その作風が、「即席早撮りの自主製作映画」みたいに感じられて、やけに身近に感じたのだった。
でも最後に見たのは『菊次郎の夏』で、そこで興味が薄れてしまって、その後は見ていない。
今調べたら『菊次郎の夏』の公開は、1999年だったから、軽く20年以上も前のことだ。その後は、テレビで『座頭市』を半分、見た気もする。
話題になった『アウトレイジ』のシリーズは、一つも見ていない。だから久しぶりに観る北野映画だった。
オープニングシーンは、川に死体が転がっている画面だった。リアルと言えばリアルで、アニメっぽくなくて、ちゃんとしてるなと感じたのだった。
例えば近年の時代劇映画としては『るろうに剣心』などを見て、私は辟易していたものだから、『首』の画面は、合戦映画として、よりちゃんとして見えたのかもしれない。
お金をかけて撮って、お金をかけたなりのリアル画面が出来ていて、さすがだなあと思ったのだった。
合戦のシーンも、エキストラがたくさんいて、アナログな肉弾戦に私には見えて、黒澤明の映画なんかを思い出した。
ただ、ドラマが始まると、いつものことだが、北野武が浮いて見えて、少し困った。
演技が下手過ぎるというか、演技をしていないように見えるのだ。テレビで、司会席に座っているのと変わらなく見えるのだ。
他の人が役者なのに、北野武一人だけが、素人に見えるのだ。それに、北野武というより、ビートたけしなのだ。
例えば、ドキュメンタリーとか、大島渚の映画でならマッチしているのだろうけど、今回の映画では、北野武の演技は、マッチしていないように見えた。
他の役者たちが、しっかりと演技をしているのに、北野武だけが演技力不足で、だからひとりだけ目立つのだ。
でも監督は本人だし、演出も本人なのだろうから、そうなると自分を他の役者に合わせるか、この映画全体の演出を変えるしかなくなるのだが、そうはしていなかった。
それに、秀吉役なのもびっくりした。一番年寄りだし、ちっとも猿に見えないし……。
なんで秀吉なんだろうか?
監督は本人なのだから、本人がやりたかったのだろうとしか考えられない。
しかし、なんで自分も出るのだろうか?
北野武は自分が作る映画には、自分が出ないと気が済まない人なのだろうか?
明智光秀の役で、西島秀俊が出ていたのだが、私はこの人が苦手だ。どんな役をやっても、永遠の真面目青年一色しかないように見えるのだ。
この映画に通底している一つが、戦国大名の男色なのだが、男色がこの時代に対する新たな歴史解釈として、今日的な意味で提示されている印象も受けないのだ。
北野武の最初の監督作品『その男、狂暴につき』で敵役の白竜が男色にふけっていたのとは、『首』では意味合いが違っているはずだけど、映画の中の添え方というか、置き方が、同じように、私には感じられた。
そういえば、誰が主演なのか、わからない映画だった。
映画は血しぶきが舞ったり、残酷なシーンも多いのだが、5分に1回くらいコント?が入る。
そのコントは、爆笑を誘うようなものではなく、ビートたけしが昔テレビでよくやっていた定番のコントで、こんなもんで大笑いはできねーよな、しょーもね、といった類のコントだったから、そのしょうーも無さに苦笑してしまって、まんまと笑ってしまうのだった。
この、まんまと笑わされる笑いが最後まであるから、『首』という映画も楽しく最後まで観ることが出来た。
『首』という戦国時代を舞台にした時代劇の超大作を観ていて、『みんな〜やってるか!』を思い出した。
『みんな〜やってるか!』はビートたけしのコントをそのまま並べて一本の映画にしてしまった、それこそしょーもない映画で、1995年の公開当時、酷評されたが、実は私は大好きで、バーカなことに映画館で3回見ている。
自分が好きなものを贔屓にしてこじつけると、『みんな〜やってるか!』の成功版が『首』に見えてきた。
だいたい、北野武と浅野忠信と大森南朋の三人が並んでいる画面は、たけし軍団が並んでいるようにしか見えなかったし、そう思ったら、他の役者全員がたけし軍団に見えてきた。男ばっかりだし。
過剰で暴力的な信長の振舞も、いとも簡単にはねられてコロコロと転がる首も、切腹もみんなコントにしか見えなかった。
コントだから、重みも意味もろくにないのだ。だから、この映画は、全部、パロディだ。意味とか批評なんか考えずに、笑えばいいのだ。
笑い飛ばせばいいのだ。
だから、笑って観終わって、それでおしまいなのだ。
なんて結論にすると、浅すぎるか……。
感動したのは、エンドロールだった。出演者の数々の名前が、スタッフの数々の名前が、関わった会社の数々の名前が、大量に延々と流れていて、こんなにも多くの人間が関わって一つの映画が出来ているのか、っていう感動もあったし、こんな専門職もあるのかっていう驚きもあったし、それ以上に、裏方さんの名前を一つも漏らさないでクレジットを載せる、みたいな作り手の矜持を、私は勝手に感じてしまった。……私が大げさに勘違いしただけかもしれないけど…。
感動といえば、大きなお金を使って、自分のやりたいことを、やりたい放題にやれていることには、感動した。北野武が、とても羨ましく感じた。
翻って自分は、なにも出来ていない、駄目だなと落ち込んだ。
さて、どうしてみせようか?
追記
この映画とは関係がないことだが、この時代の日本についていつも感じる疑問がある。火縄銃が種子島に伝来して、鉄砲が国産化されたのに、どうしてその後、発展しなかったのだろうか? あのまま発展していれば、拳銃とか機関銃とか、器用な日本人なら簡単に作れたはずだと思うのだが、日本ではそのようにはならなかった。なんでなんだろうか?
見たことがあるけど、誰だかわからなかった人は、大竹まことだった。眼鏡がないとあんな顔なのか。
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