記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

映画日記『ストレイ』地域犬のいる大都市イスタンブール

エリザベス・ロー監督 『ストレイ 犬が見た世界』

アップリンク吉祥寺で観た。予告を見て、次はこれを観ようと思ったのだ。小さな会場だったが、平日のせいか、数人しか観客がいなかった。

イスタンブールを舞台に、野良犬に密着したドキュメンタリー映画だ。トルコでは、何年か前から、野良犬などの殺処分をやめて、野良犬と共存する道を選んだという。なんでもある時期まで、殺処分に積極的だったのそうだ。その反省から殺処分は止めたのだそうだ。

でどうなったのかというと、街中に野良犬が溢れている。のかと思ったら、そうでもない。いや、それなりに、けっこういるのかもしれない。そのあたりの感じは、映画ではよくわからなかった。でも、そこそこの大型犬も多い。こんな大きな犬が野放しでいたら、ちょっとビビりそうだが、街の人は平気だし、子供も犬の頭を撫ぜようと近づいていく。

トルコで、野良犬に対して、具体的に何年から殺処分を止めたのか、現在はどのように犬猫を扱っているのか、どういう考え方でどういった取り組みをしているのか、といった、情報は映画では語られない。

画面を見ていて最初にわかるのは、カメラがずいぶんと犬に近いことと、カメラの位置が低いことだ。そして、犬がカメラをあまり気にしていない、ことだ。撮られること、見られることに慣れているのだろうか。それとも、犬に意識させないほどカメラマンが気配を消しているのかもしれない。

次ぎに画面を見てわかったのは、野良犬たちは片側の耳に、プラスチックの認識票みたいなものをつけており、政府なのか行政だかに管理されている存在だということだ。こちらは後半のシーンで判明したことだが、犬たちには餌の配給があった。頻度はわからないが、餌が配られ、それを食べられる、ということだ。もしかしたら、人間向けの炊き出しだったかもしれないが、食べ物をきちんと映してくれなかったので、よくわからなかった。

犬は、生き物だから当たり前に糞(ふん)もする。この映画では、犬たちが糞をするシーンは撮られているのだが、糞がその後、どうなったのかは、明らかにしていない。配給として餌をあげる人がいるのだから、糞を回収する人もいるのかもしれない。

一番、驚いたのが、この映画に出てくる野良犬たちが、みんな大人しいことだ。イスタンブールという大都会に暮らしているためなのか、人との距離が近く、人に吠えたり、人を咬んだりはしないのだ。私が知っている野良犬とは、全然違う。私の子供の頃にいた野良犬は、人に吠えたし、人に向かってきたし、人に噛みついた。何より、人間とは距離をとっていた。

野良犬は、捨てられたり、放し飼いにされていて家からはぐれた犬だったりした。野良犬が、野生化すると、野犬になる。野犬と書いて、のいぬ、か、やけん、と読んだ。イメージとしては、野良犬から生まれて代替わりしたのが、野犬だ。色々なものを食べていたし、狐のように家畜を襲ったりして、問題になったりしていた。

この映画に出てくる犬たちは、ぜんぜん野生化していない。なんだか日本でいうところの地域猫みたいなのだ。だから地域犬なのだ。

チュニジアでアラブに春が始まったのが、2010年の暮れで、シリアに波及したのが2011年だ。それ以来、今日に至るまで、シリアは内戦状態にある。大量の難民が出ている。トルコとシリアは国境線を接していて、シリアの大都市アレッポは、その国境線に近い。この映画には、アレッポからイスタンブールにやってきた難民の少年が何人か登場する。

中の一人が、トルコに避難してきたとき、親兄弟は書類が揃っていて、トルコでの労働許可証などが下りているが、自分だけ写真がなくて、数々の許可証が下りなかったのだと言っている。それが理由でもないだろうが、彼は家族と離れて、少年達3人で暮らしている。

彼らが暮らしているのは、工事現場にあるもうじき建て壊されるゴミだらけの廃墟だ。当然、電気ガス水道もないし、壁も半分ない。その廃墟に、ボロボロのソファと何枚かの毛布がある。彼らはそこを寝床にしている。時々、犬と一緒に寝ている。抱き合って暖を取るためもあるだろうが、とても仲良しで家族のようだ。彼らはそこで、ビニール袋を片手に、シンナーを吸っている。

その廃墟を追い出されたあとは、路上で寝ている。石畳の歩道の上に、毛布をしいて、毛布にくるまって、犬と一緒に寝ている。彼らが何を食べているのかは、わからないけど…一度、菓子パンのようなものを食べていたが…正規の仕事にはつけないので、路上に立って、通行人相手に物乞いをしている。片手に、シンナーの入った黄色く変色した古いビニール袋をしっかりと握り、残った片手を、通行人に差し出している。でも、お金をもらえたシーンはなかった。

この映画の主役というか被写体となっている二匹の大型犬と、あとからシリア難民の少年達に飼われることになったまだ子供の犬の三匹は、一般的な飼い犬と変わらない表情をしている。私達が見慣れたワンコの顔をしている。あんまり番犬にもならない家の中で飼われている犬の顔だ。それはつまり、人間といないと生きていけない、ペットの顔だ。犬達は、結局、自立していない。野生ではないのだ。人間がいないと生きていけない、そんな印象を受けて、少し淋しくなった。

トルコは、イスラム教の国だから、1日に5回、礼拝の時間がある。それの始まりを告げる「アザーン」という、歌うような呼びかけが、おそらくはスピーカーを通して、大音響で響く。呼びかけとか合図からイメージするものとは違って、それは歌唱のようでとても美しい声だ。

この映画の最終場面は、そのアザーンの声に、呼応して、主人公の犬が、遠吠えをする横顔だ。アザーンの声は、何度も聞こえてくる。その度に、遠吠えを繰り返す。その遠吠えは、まるで歌っているかのように、聞こえてきた。

野良犬たちは、人間と共存しているのか、それとも地域や街に飼われているのか、よくわからなかったが、地域犬みたいな犬が何匹もいる街は、どこかのどかで、私にはうらやましいのだった。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?