不勉強の哲学
なぜあんなにも、何をそんなに話したかったのだろうと思う。3分10円の市内通話で毎月1万円を超える電話代を請求されるほど。コードレス電話機の充電が切れてしまうほど。10代の恋人たちには、なにかとても重要な愛の指標のように思われた。
同室のきょうだいが隣で寝ているにもかかわらず、布団に潜って電話していれば二人の世界だと思えたし、他人の会話はたとえ聞こえていても聞こえないふりをしたものだった。それは隣の家の口喧嘩でもそうだったし、街なかの公衆電話で話す人や喫茶店での会話などでもそうだった。
オープンであったからこそ、個人の常識に拠って守られているようなプライバシーの在り方というのがあった。よそ様の話に聞き耳を立てるなんてはしたない振る舞いで、それを言い触らすなど以ての外、というような。そんな「暗黙の了解」で成り立っているような秩序は何を契機に崩れてしまうのだろう。
などとややこしい話がしたいのではなく、あの頃のように電話でなんでもないような話をしたいなと思う、そんな人がいたとして、えっと、ああ、なんとなく思い出してきた。音楽を聴きながら、テレビや雑誌を見ながら、互いに何か別のことをしながらもその時間と出来事を共有していたんだ。
しばらく沈黙が続いてもお構いなしに、繋がってさえいればいっしょに過ごしているような気持ちになれる。何も話すことがなくっても、そうして繋がって気配を感じていたいと思い合えるひとがいるということ、それが自分の輪郭もままならないティーンの私をなんとか成り立たせていた気がするし、専念すべき本質=学業に負けず劣らず重要な、アイデンティティを確立する手段だったのだ。
勉強によって得られるそれよりも、深いところで自己への肯定がなされるような気がするし、その直感はあながち間違いではなさそうにも思うけれど、とはいえ、勉強に裏切られることはそうないとして、恋人にはだいたい裏切られて終わるから。
私の本質は非本質的なものの寄せ集めのような、なんとなくそんな気がしてくる。
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