見出し画像

神の領域へ

ずっと昔、7歳までは神の領域と言われていた。魂が体から離れやすいと。
それなら死ぬ7年前からも神の領域なのかもしれない。

人生はひとつひとつできることが増え、年老いてひとつひとつできないことが増えていく。
ひとつひとつ頂いたものをひとつひとつ返していく。
最初に体を頂き心を頂き、最後に心を返し体を返す。

体に魂が入るのは動物も同じ。生きるだけなら人間も動物と同じ。
人間には心がある。これが全てを複雑にする。喜怒哀楽、諸々の感情。
心は体の成長と共に少しずつ自らを毒していき、老いと共に解毒され丸くなっていく。

人間になる前の、神の領域の7歳までの心は、何にも縛られず自由でわがままであるがまま。体は面倒を見てもらわないとできないことだらけ。
年老いた人が何かを失う度に体は赤ちゃんのように、心は幼な子のようになるのは、人間の時期が終わり神の領域へと入ったということなのかも。


この辺のことはわからないことが多く、もしかしたら体について研究し終わったら、現実的に全ての説明がつくのかもしれない。
ただ、今の私にとってこの解釈はこれから両親を見送るにあたり、また自分が向かう先を見るときに、ちゃんと向き合っていく支えになるというだけだ。

認知症の母は記憶を返し、遠慮を返し、我慢を返し、少しずつ自由になっていく。買い物に行けなくなり、料理を作れなくなり、周りにやってもらうことが当たり前になっていく。赤ちゃんの頃のように。
たくさん眠るようになり、ボーッとすることが多くなっていく。神様とのやり取りが増えていく。
未来の私が目の前にいる。



心を持たない動物はずっと神の領域にいる。知能の高いチンパンジーも人間の年齢的には7歳に満たない。
なぜ人間のみが心を持つのか。
その心で喜怒哀楽をイキイキと表現すべきか、何事にも動じない心を持つべきか。いっそ神の領域を目指して自由にあるがままになるべきなのか。
なぜどうすべきか考えてしまうのか。
なぜ人間は何かを成し遂げようと焦るのか。
なぜ何も成し遂げようとしない動物に癒され、ただ生きていてくれるだけでいいと思うのか。
赤ちゃんの頃は健康だけを願うのに、成長するにつれなぜそれ以上を望んでしまうのか。
心はただ生きていく以上の何かをするために作られたのか。
それは何なのか。
私はこのままでいいのか。
ホルモンのせいで、自分から動き出す気力がない49歳。向こうからやってくる荒波に抗う気もない。なるようになる。
私はこのままでいいのか?

私が関わる人の数だけ心がある。
心。面倒くさくて厄介で、、、でもかわいいと思う。
怒りの裏の嫉妬の裏のプライドや淋しさ。
イライラの裏の我慢の裏の愛情。
作り笑いの裏の不安の裏の臆病。
マウントの裏の恐怖の裏の孤独。
強がりの裏の羞恥心の裏の甘え。
赤ちゃんの頃、泣き叫びながら欲しがっていたものを素直に欲しいと言えなくなっているだけ。

神様も心がこんなに拗れて複雑になるとは思わなかったんじゃない?
神の領域の心は分かりやすくて単純だから。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?