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内省の完了

オードリーの若林さんが「内省は完了してる」と言っていた。
内省が完了するとはどういうことだろう。
完了したらどうなるんだろう。

内省
自分自身の精神状態やその動きを内面的に観察すること。
つまり自分を知ること、かな。
自分探し、自己分析、性格、、、微妙に違う。
カテゴライズするとかではなくて、もっと根本的で、細かいこと。

あの人が嫌い。何故嫌い?みんなにいい顔するから。みんなに好かれているから。薄っぺらい話ばかりして中身がない。もっと深くじっくり話をすべき。上辺だけの関係。意味がない。みんなわかってない。私にはわかる。でも深く話せる人はいない。私に合うひとがいない。淋しい。あの人は分け隔てなく私にも話しかけてくる。嬉しい。楽しい。仲間になれた。今日は違う人と話してる。入れない。薄い。軽い。媚びてしまった自分。情けない。悔しい。また淋しい。

例えば、こんな堂々巡りの思考の根本にある「私もみんなに好かれたい」という気持ちにまとわりつく、恥ずかしさ、悔しさ、情けなさ、妬み、ひがみ、プライド。
こういう自分だけの「思考の設計図」を、深く細かく追及して自分を知ることを「内省」というのだと思う。

恋愛、友情、親子関係、将来、容姿、才能、、、
それぞれの「思考の設計図」を完成させるのは、おそらく長い時間を必要とするのだろう。

若林さんを見ていると、初めの頃とは全く違う性格になったと感じる。本人も「人見知りをしなくなった」と言っている。
「人は容易には変われない」というけれど、内省の完了は性格が変わるほどのことなのだ。
それはつまり、内省は容易ではないということだろう。

若林さんは「自分のことを話すより、人の話を聞きたい」という。もしかすると人の「内省」に興味があるのかもしれない。

その時どう思ったの?どうしてそう思ったの?それでどうしたの?相手は何て答えたの?その後どうなったの?それであなたはどう変わったの?

若林さんは自分のことを元々あまり語らないように思う。黙って周りをつぶさに観察しているような。その時自分が感じたことを、他の人はどう感じたのか。自分を知って欲しいという思いは全く無く、ただ相手の感情を知りたい、そういう考えもあるのか、他にはどんな考えが存在するのか。
いやいや、これは私の感情でした。
あちこちオードリーが大好きなもんで。

「人の話を聞く」と、それに対して同じかそれ以上に自分も話したくなるという中田敦彦さんと、「へえ〜」で終わらせる若林さんに、どんな違いがあるのか興味深い。内省の完了の違いなのか。

内省が完了すると、相手の話を正解不正解で見ずに「そういう考えもあるのね」と受け止められるようになるのかな。「へえ〜」と。
自分の中にある複雑な感情が絡み合った姿を見ると、そこには正解不正解は無いと思える。
内省を完了すると清濁合わせ飲むことができるようになる気がする。
そういう人もいる、そういう考えもある、そういう時もある。


またまた空想が暴走して、若林さんについて知ったかぶりしてしまいました。
フィクション若林さんでした。


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