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「人権を知っている」

人間は、自然界の生き物が、
法にも縛られず、
自らの生を、自らの意志で、
自らために、自らの種を残し、
不満も言わず、生きているかのように、
ときに自由で羨ましい、と言う。

誰の役に立たなくとも、
自分のために、雨と、栄養を食べ、
自分のために、生きているのだと。

わたしも、
あんな風に、自由に、
誰に邪魔されることなく、生きてゆけたら、
どんなに素晴らしいんだろう。

鳥のように、
大空を飛ぶことが出来たなら、
自分の翼で飛んで、どこにでもゆくことができるなら、
どんなに素晴らしいだろう。

猫のように、
気ままに、わがままに、のんびりと、生きてゆけたら、
どんなに素晴らしいだろう。

野花のように、
自分の好きな場所で、自分のためだけの花を咲かせられたら、
どんなに素晴らしいだろう。

樹木のように、
伸び伸びと枝葉を伸ばし、
小鳥の休憩場所になり、
木漏れ日を落とした影で、あたたかな光景を作り出し、
猫はそこで昼寝をし、
風が吹けば、ざわざわと揺れて、
森の中をおいしい空気で満たして、
そんな風に生きてゆけたら、どんなに素晴らしいだろう。

微生でさえ、
生きているだけで、自然界にたくさんの貢献をしていて、
なんて素晴らしいのだろう。

そうやって、
自分のためだけに生きている、
鳥や、猫や、野花や、樹木や、微生物でさえ、
生きている。それだけで素晴らしいのに。

自分のために、生きて、死んで、
誰に何を決められることもなく、
自然は、なんて素晴らしいのだろう。

わたしは、
どうして、誰かに、迷惑をかけるだけで、
生きて、死んで、ゆくのだろう。

ああ、どうして。
人間は、こんなにも傲慢な生き物。

わたしも、自然界の生き物であったなら、
どんなに良かっただろうか。


人間には、
人権という、人間であるから故の、面倒な考え方をしているから、
ひとの命は、平等に尊いもので。

わたしの、どんなに嫌いなひとにも、
わたしが、死んでも許せないひとにも。
誰かの、どんなにも憎い、誰かにも、
誰かの、永遠に許せすことのない、誰かにも。

本当に、生きているだけの(心臓が動いていることしか、生きていると判断するところがない)ひとにも。

何かを壊すことや、
誰かを苦しめることや、
生き物を殺すことが楽しくてたまらないひとにも。
そのひとの、されて嫌なことや、
気持ち悪がることをして、笑うひとにも。

わたしの、大切な「何か」、
宝物とか、大好きなひとや、大好きな感情や、
ひととしての尊厳を、踏み躙り、蹂躙を尽くした、
そんなひとでさえも。

誰かから、愛されて、守られて、
幸せになったりも、して。

わたしのように、
誰の何の役にも立たなくても、
生きている人間は、生きていさえすれば、
誰にでも、平等に、生きる権利や、自由な意思を持つことや、
他人から、それらを侵害されることができない権利を、
持っている、らしい。

でも、自由な意思で、
ひとが死んでゆける権利は、
どうしてか、認められない。

そういうことを、
してはいけないんだって、みんなが言う。

わたしの、何を知って、
どうしてそう言っているのか。

わたしが、他人に殺されることが、あって。
そのあとは、きっと、
殺したひとの、罪が裁かれて。
それでも、そのひとの、人権は守られ続ける。

もしくは、わたしを殺したことが、
誰にも知られることもなく、
当然の人権を、当然に享受して、
幸福に生きてゆく権利を、
ずっとずっと、死ぬまで当然に享受する。

人権は、生きているひとのものだから。
殺されたひとは、死んでいるから、無くて。
そんなひとの人権は、守られなくて当然、なんだ。

殺人を犯したひとの人権は、生きているから守られる。
人権に守られ、殺した罪を償い、
その後はまた、人権に守られて生きる権利が、
生きているから当然に持っていられて、それが当然、なんだ。

人権は、
まるで、ひとが他人を殺す権利、
であったかのような、気さえしてしまう。

他人の人権を、侵害しては、いけません。

守っていたのに、守らないひとに、侵害された。
わたしの人権を侵害してきたあのヒトは、
人権を守らずに、人権に守られて、
本当に、ずるい。

こんな気持ちを、
鳥や、猫や、野花や、樹木や、微生物は、
人権に縛られてもいないから、
知らないでいられて、いいなあ、羨ましいなあ。

人間は、
鳥や、猫や、野花や、樹木や、微生物を、
自由だとか、自分のために、生きているとか、
勝手に決めつけて。
人間は、
彼らの何かを常に侵害し、
生きる場所や、権利や、
そういうものを、勝手に奪って、決めて。

自由でいいなあ、なんて、
あんな風に生きてゆけたら、
どんなに素晴らしいだろう、とか。

彼らは、
人間に、たくさんの何かを、勝手に、奪われて。
どこが自由で、何が羨ましくて、
どのあたりが素晴らしいのだろう。

人間以外の生き物は、
生きているだけで、
人間に、何かを、侵害され、奪われ、
決めつけられる。

生かす、殺す、死なせない。
全部を、勝手に決められて。
それでも、自由でいいとか、
決めつけられて、文句も言えない。

すべてのことが、何もかもが、
人間の、決めつけで。
世界のすべてを、
人間の、決めつけで、はかって、
また決めつけて。

自殺することは、
人間しか、考えない。

何かの、誰かのためになることを、考え、
誰のためにもならない、
自分には価値はないなどと考えるのは、
人間だけ。

微生物が、生きて、役に立ちたいとか、
自分の価値とか、生きる意味とか、理由とか、
考えなくても、当然に生きている。

だから、
生きてくための理由だとか、
自分の価値だとか、考えて、悩んで、
自殺する、なんて、馬鹿らしい。

って、誰かが、言ってたような気がする。

けど、そのどこに、
励まされたり、自殺を考え直す、
何かがある?

だって、微生物は、
そんなことを考えなくても、
生きているだけで、自然に貢献しているから。
たとえ、考えていたとしても、
生きるに値する、理由や、価値を、
持っていることに、気づくだけだ。


人間は、人権で、縛り、縛られ、生きて。
自分で、死ぬ権利も、縛り、縛られて。

人間は、
自然を、羨ましがり、自由だと、
決めつけて。

人間が、
勝手に、好き放題壊して、いい感じに直して、
時代に合わせて、人間にとって、心地よいように、
変えてきた、自然界の生き物たちの、
不自由な、生き方や、生命の在り方を。

人間は、勝手に、自由だとか、言うんだ。

もし、
鳥や、猫や、野花や、樹木や、微生物みたいな、
自由に憧れるひとが、本当に、彼らになったとき、
ああ、なんて自由で、なんて素晴らしいんだろう!
とは、絶対に言わない。

って、人間でしかない、
わたしは決めつけてみる。


人間ほど、
愚かしく、傲慢で、
欲に塗れて、偽善的な、
生き物はいない。

それでも、人間は、
自分たちの、知能の高さや、文化や、
価値観や、他人を思い、他人を愛し、
他人のためにも生きたり、他人のために死んだり、
そんな人間らしさを、誇らしく語る。

人権という、
人間のプライドを、
素晴らしいものだと、頷き合う。

人間は、
自分たちが、どんなにも、愚かなのかを、
知っていて、愚かなままに生きることを、恥じて、
そのままで、生きる。

人間は、
自分たちが、どんなにも、傲慢なのかを、
知っていて、傲慢なままに生きることを、恥じて、
そのままで、生きる。

そんな人間が、大嫌いだ。
それでも、わたしは、
どうして、人間でいるしかない。

人権を、
侵害され、踏み躙られ、
壊れたこころを持っている、いまの、わたし。
壊れたこころしか、持っていない、いまの、わたし。

ほんの少し残っている人権で、
心臓を動かし続けるための権利だけが認められて、
生かされることに、文句を言う、権利は無い。

何にも役に立たないことも仕方ない、
でも生きていなさいな。
そう人権が、言う。

そのままで良い、生きているだけで良い、
何にも役に立っていなくても良い、
人間だから、人権があるから、
せっかく人間として、この世界に産まれて、
生きているんだから、死ぬまで生きていなさいな。

人権に、生きることを、強要され続ける。

生きているだけでいることを強要され続け、
身体はまだ健康で、寿命はいつまであるだろうか。

人権は、
本当は、何のためにあるのだろう?
人権は、
本当は、何を守っているのだろう?

わたしは、
人権を守らないひとに壊されたから、
人権が、
責任をとって生かしてくれるのか?

人権を守らないままに生きるひとの人権は、
しっかりと、すっかり全部、守りながら、
わたしに、与えられているのは、
死なないようにしてもらう、権利だけ。

そんなことより、
人権を守らないひとに、
壊されることのない、人生が、良かったな。
侵害されることのない権利を、
当然に享受できることが、欲しかったな。

もし、
人権が、みんなにとって良いものなら、
みんなが、進んで、よろこんで、守るのだろう。

わたしに、
認められている、それっぽっちの人権は、
誰かが何かを頑張って、与えられているもので。

何にも役に立たない人間に、
人権を与えるために、頑張っている社会には、
たくさんの不満が、渦巻いている。

どうして、わたしは、
こんなことを、考えながら、生きているのか。

人権を、守っていたのに、
守らないひとに、人権を侵害され、
壊れてしまったままで生きる、わたしより、
わたしの人権を、
踏み躙り、蹂躙を尽くした、そのヒトに、
より多くの人権が、認められていること。
考えては、悲しくなってしまう、
そんな人生を、人権のおかげで、続けている。

きっと、人権は、
理想論でしかなくて、
素晴らしい概念だけれど、
人権を、守っているひとの権利、なんて、
実は、どうでもいいって、言うんだろう。

そのせいで、
被った被害は、
人権が、誰にでも平等に与えられているなんて、
幻想を信じているような馬鹿な人間に、
人権が、課したものなのか。

そんなこと、言ったら、
人間や、社会や、人権が、怒ってしまう。

人権に、守られているくせに、なんて人間だ!
恩知らずな奴だ!

わたしは、
生きていられることは好きだし、
考えたり、想像を膨らませたりすることが楽しいから、
人権に、生かしてもらえていることに、
感謝するしかない。

たとえ、
わたしの人権のほとんどを、
人権を守らないひとに、奪われて、戻らなくても、
そのヒトが、
いまも、人権を守ることもなく、
たくさんの他人の人権を侵害し続けていても。

わたしは、
人権の、おかげで、
ささやかな、ささやかな、
この生活を続けていられるから。

人権は、有り難い。


人権が、平等にないことなんて、
知っているし。
人権が、まやかしだなんて、
知っているし。

それでも、
この、いまの、
ささやかな、ささやかな生活は、
人権が、わたしに、
ほんの少し、適応されている、おかげ。

そんな、わたしの、人権を侵害し、
わたしというものの、すべてを、
踏み躙り、蹂躙を尽くした、あなた。

今日も、人権を守らないでいて、
人権に守られて、自由を謳歌して、
なんて、幸せなのでしょうね。

わたしは、
人権を守ったせいで、
人権がほんの少ししか、
適応されなくなってしまいました。


愚かな人間。傲慢な人間。

正直者は馬鹿を見る。
けれど、
正直者がいなくなったら、
秩序なんて、無くなってしまう。

きっと、わたしは、
秩序を守るため、
人権を守って、人権を侵害されて、
役に立てなくもなって。

でも。

人権を、守り、守られてもいる、
たくさんのひとに。

こんなにも、
無駄な人間、役立たずな人間、
死んでも困らない人間、だと思われるために。
そんな無能な人間でも、人権を守れば、
最低限の人間らしさを人権が守ってくれるんだよ、
と、人権が、人間に言うために。

人権は、
いまの、わたしを、
無駄だとか、役立たずとか、社会のゴミだとか、
言ってくるひとたちから、
わたしの、
生命や、ささやかなささやかな生活を、
守ってくれる。

人権は、素晴らしいものなのだ。

そんな、素晴らしい人権が、
たくさんのひとに、実在するのだと、
思わせるために。

人権を守らないひとの人権すら、
今日も、守るために。


ほら、ね?
これで、理解できるでしょう?

人権なんて、
誰も彼ものためにあるって、
素晴らしいって思うために、思わせるために、あるんだね。

人権が、
本当にあるかのように、思うために、思わされるために。

誰もがよく理解できないままに、
とにかく素晴らしいね、とりあえず欲しいね、
すごく欲しいね、と言うんだ。

その、ふわっとした何か、
「ジンケン」みたいなものを、
ジンケンみたいな「何か」を、
あるってことにするための。

「ジンケン」って、要するに、何だろうね?


にゃあ!
外で猫が鳴いた。

「なあ、あの猫が世界の真理を知っているらしいぞ」
「あの猫なら知ってるだろうよ。そんなの誰だって知ってるさ。何を今更」
「捕まえて聞いてみようぜ?」
「聞いてどうすんだ? 猫の言葉なんてわかんねえじゃん」
「それもそうか。それよか、ポテチ食いてえな。お前、コンビニ行って来いよ」
「自分で行け。俺の分も買って来いよ。もちろんお前の金で」

ジンケンって、つまりは、そんなような話?


わたしが、
人権に感謝したら、人権の思う壺だ。
それでも、
いまの、ささやかなささやかな生活を、守るために。

人権とは、すべての人間に、平等に与えられる権利である。

そう、わたしは、一所懸命、嘘を、話している。

人権を守らないひとの、人権すら守ることも。
わたしが、人権に守られるために、
しなきゃいけないなんて。
仕方ない。
わたしには、
それしか、いまを、守る術がないのだから。

なんて、悲しくて、虚しいことか。

自殺したいと思わない、
自殺しないわたしが、悪い。

自殺すれば、人権を守らないひとの、
人権を守るための協力はしないでいられるのに。
自殺しないんだから、仕方ない。
生きていたいから、仕方ない。

人権の矛盾を、人権の嘘を、
人権の残酷さを、人権の罪を。

そして、人権の素晴らしさを、
わたしは、知っている。

誰かの人権を侵害しても、人権に守ってもらえる。
人権を守るひとが、いる限り。

人権が欲しかったら、
人権を守り続けるしかなくて、
そうしている限り、
人権を守らないひとの人権をも保障し続ける、ことになる。
人権を守って生きていても、
人権を守らないで生きるひとに、
自分の人権を侵害れ、ときに殺され、
自分ひとりを殺したくらいでは、
人権は、迷うことなく殺人を犯したひとを、
人権で、守る。

それでも、
人権の概念が、
もし、本当に誰にでも平等にあったら、
どんなに素晴らしいだろうと、思ってしまうから。

わたしは、人権を、守る。
虚しさを、抱えて。

いま、この瞬間も、
何にも、悪いことを、していないのに。
基本的人権を、守られないままに、
必死に生きている、誰かの人権が保障されることを、願うために。

にゃあ!
猫が、また鳴いた。


基本的人権が保障されていない!と訴えれば、
人権を守って生きて、人権に守られて暮らしているひとに、
そのひとの環境が劣悪であると知ってもらえるし、
助けたいと思ってもらえるかもしれない。

人権が守られて当然の世の中であれば、
人権が守られないことが悪だとみんなが言うだろう。

たとえ、
人権を守る気さえないひとの人権を保障してしまうことになっても、
善良なひとの人権は守られて当然であってほしい。

人権は、理想論で、まやかし。
それでも、
それを盾にして、この世の地獄を生きるひとを、
救うことができる、可能性がある。

人権なんて、馬鹿みたいだ。
人権なんて、損ばかりだ。

不完全で、理不尽で、不自由な、人権は、
人間が人間であるというプライドだから、
愚かで、傲慢で、馬鹿らしくて、当然だろう。

不完全で、理不尽で、馬鹿な人間が、
愚かさと、傲慢さで、作り上げた、
不自由でもって、自由を保障する権利なのだから。

人権は、誰のために?
人権は、何のために?

きっと、誰も、答えを知らない。
それでも、みんなが、人権、を欲しがって。
今日も、どこかで、人権のために、戦っているひとがいる。

人権とは、本当に、何なのだろうか?

それを考えることは、きっと、
未来の、誰かのためになる。

どうか、考えて。
あなたのいまと、未来のために。
あなたの、大切なひとや、好きなことや、宝物のために。
あなたの、憎いひとや、許せないことや、いらないもののために。

人権は、
ひとが意識していることで、はじめてこの形になる。
誰も意識しなければ、存在しなくなる。
人権は概念としてしか存在しない。
だから、誰もが意識すらしなくなったとき、
無いものとなるのかもしれない。

もしくは、
誰も、人権なんてことを考えることすらなく、
それらの権利が普通にある世界が、
出来上がったりしたら、
なんてなんて素晴らしいだろう。
どんなにも素晴らしいだろう。
願う。誰にも人権を、与えられて当然であれ。

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